謎の隣人
夏なのでホラーを一発。
今日、俺達は引っ越してきた。
俺達とは言っても、俺と妻の二人だけだ。子供は欲しいが、今のところ予定はない。
住むことになったマンションは十階建てのビルで、築三年の比較的新しい建物だった。
部屋は1LDKで都心ということもあり、家賃は高い。普通ならば……
理由は不明だがこの物件は破格の安さで借りることができた。
怪しい。
勘の良い者ならここで何か事件でもあったのではないか、と疑うのが当たり前の感性だろう。
俺も最初は疑った。のだが、楽天家の妻に押し切られてしまった。
安いんだから良いじゃない、と。
だが俺はそこまで単純ではない。過去の事件のリサーチは終わっている。
てっきり曰く付きと思いきや、自殺や殺人などの記録は無かった。
ホッと胸を撫で下ろし、肩の荷が下りたことを喜びもした。だが疑問は残る。
では何故だ?
釈然としない何かが俺の焦燥を駆り立てる。不吉な予感が収まらない。
それもそうだ。俺の不安を後押しする出来事が幾つかあったのだから。
まず一つ、俺達の住む階だけ人が少ないのだ。
不動産屋や大家に聞いても、偶々引越しが重なっただけだよ、と口を揃えて言う。偶然にも程があるだろ、と思わずにはいられない。
同じ階の人にも何人か会ったが、皆暗い表情をしており、俺の不安に拍車を掛けた。
二つ目、その元住人達のことを調べてみたら、とんでもないことが分かった。
皆、生きていて、今でも元気にやっている。ここは問題ない。問題は彼らが口にした言葉だ。
『声が聞こえる』
最初、この証言は意味が分からなかった。それから詳細に調べてみると、一家に一人――それも必ず男が、その声を聞いていると判明した。
不吉だ。
極めつけは、ある精神疾患にかかった男性がいるとのことだった。
俺に近い年齢の男性、家庭や仕事のストレスなのかと気の毒にも思った。
だがソレを聞いて、一気に血の気が引いた。
男性の名前は――マサト。
俺の名前も正人だ。単なる偶然だろうが、気分の良いものではない。
他にもマンションの違う階の住人などにも話しかけたが、まるで得体の知れない何かを避けているかのように、皆が口を閉ざす。
このことを妻にも相談した。
結果、生死に関わることではないのなら、最悪、また引っ越せば良いじゃない、という理屈で押さえ込まれた。
精神病に掛かったら、一生懸命に看病してやるわよ、と茶化されもした。
冗談じゃない。
とは言っても、もう契約してしまったのだ。なるようにしかならないだろう。
ピンポーン
引越しも完了して、後は荷物を片すだけだ。引越し業者のまたか、という呟きは聞かなかったことにした。彼らにも細かい事情は分からないだろう。
早速、ご挨拶に行かないとね、と妻が張り切ってお隣りを訪ねた。チャイムを鳴らすが一向に出る気配がない。
「お隣りさん、いないのかしら?」
「その前にここに人が入っているのか? 引越しが多いって聞いたぞ。不動産屋か大家さんに確認取ったのか?」
「ごめんっ、今度聞いとく」
どうやら人がいること前提で段取りを行なっていたようだ。妻は偶に抜けているところがある。悪気はないので、憎めないのだが。
もう片方の隣人は存在した。若い女性だ。学生かもしれない。挨拶に行くと「私ももうすぐ引っ越すのよ」と困った顔をされた。
思い切って理由を聞いてみた。
『彼氏がね、夜中に変な叫び声が聞こえるっていうのよ。私には何も聞こえないんだけどね』
勘弁して貰いたい。
つまりは男だけに聞こえるという証言は正しかったという訳だ。ちなみに当然だが俺も男。女に生まれたかった訳ではないが、今度ばかりは男の自分を嘆いた。
もしかしてこの階にいつのは女性だけなのではないか。そんな予感がした。
そのことを妻に言っても、笑い飛ばされる始末だ。心底真面目な顔で訴えかけたが、効果はなかった。
「あははっ、どうせその辺の馬鹿が悪戯でもしているんでしょ」
「でも何か不思議じゃないか?」
「え~、細かいことはいいじゃない」
「でもさ、曰く付きとかだったらどうする?」
「へっ? ……あははっ、私、霊感とかないから、大丈夫よう」
「それもそうか。俺もそういうのには縁がないタイプだしな」
「ふふふ、そうよ」
妻は口が達者だ。どんな状況にあっても、この妻となら楽しくやれそうな気がする。ある意味、図太い性格の妻である。
気にしないようにしよう。
その日は初めてその隣人に会った。逆隣の隣人は先日、引っ越して行った。こちらは初日に挨拶に行って、留守だった方だ。
会ったのは、ちょうど仕事から帰宅した時――
「あっ、初めまして」
反射的に頭を下げて、相手に良い印象を植え付ける。お辞儀文化の進んだ日本人の特性だ。
「…………」
バタンッ
隣人らしき女性は、無言で隣の部屋に入っていった。
長い髪のせいか、顔までは見えなかったが、人付き合いが苦手なタイプみたいだ。
「何だ? 愛想が悪いな」
厄介な隣人だな。その時はそれくらいにしか思っていなかった。
その数日後。
またしても隣人の女性が部屋に入っていくのを目撃した。後ろ姿は綺麗なんだがけど、あの暗さは勿体無いな。
俺の妻も、後ろから眺める流れるような髪とうなじのラインが最高だ。
隣の女も負けず劣らずと美しかった。
「彼氏は……いなそうだな」
未だ誰かが訪ねて来ているのも、誰かと一緒なのも見たことがない。
ここ最近は毎日のように彼女を見る。俺の帰宅時間はまちまちなのだが、決まって出くわすのだ。
運命というものかもしれない。妻がいなかったら、口説いていたかもな。
さらに数日後。
今日は、妻は友達の家にお泊まり会だそうだ。俺は束縛するタイプではないので、妻の友人関係にはそこまで口出ししない。
夕食の料理は用意してあった。
ふふ、やることはやっているのだから、文句のつけようがない。
食事を終え、食器を洗い、風呂に入って、一段落した。
リビングで寛ぐことにする。
風呂上がりのビールが最高だ。妻がいないので、調子に乗って、三缶ほど飲んでしまった。メタボにならないか心配だ。
夜も更けたので、そろそろ就寝することにする。寝室に行き、毛布にくるまる。
妻がいないせいか、ダブルベッドが広く感じた。
明日も早いし、さっさと寝よう。
『マサト、ナンデ、ナンデコナイノ?』
ふいに声が聞こえた。おぞましい声色だ。
思わず悲鳴を上げてしまった。
「――うぁッ」
口を手で抑えて、自分の声を必死に隠す。聞こえてしまったかもしれない。
自分の存在感を極力消すように努めた。心臓の音がバクバクしているのが、ベッドを通して伝わってくる。
たぶん、自分の顔は真っ青だろう。生きた心地がしない。
『マサト、ドコ二イルノ?』
不気味な声だ。壁を通しているというのに、囁くように浸透してきた。
偶然の一致とはいえ、自分の名前と同じ「正人」の呼び声は、正直いって気味が悪い。
『ナンデ、ニゲルノ?』
自分に問い掛けられている気がして、信じてもいなかった神様に一心に祈る。
頼むから消えてくれ、これは幻聴だ。
やがて声は聞こえてこなくなった。祈りが通じて、消え去ったのだろうか。
「早く寝よっ」
悪夢を忘れるように、頭から毛布にくるまり、眠りについた。
恐怖で眠れないかとも思ったが、精神が摩耗していたせいか、直ぐに意識を失った。
やはりおかしい。絶対何かある。
手掛かりを掴むべく、聞き込みを続けた。
妙な話を聞いた。
ここらのマンションで、衰弱して一人孤独な死を迎えた女性がいたらしい。
亡くなったのは病院だそうだが、彼女は彼を待つために、ひたすらそのマンションに帰ろうとしていたらしい。
まさか、と思った。
このマンション、しかも隣の部屋がそうじゃないだろうな、と。
話では、彼女は男が出て行った後も、ひたすら待ち続けた挙句、家族の勧めで病院に強制収容。
そこでも彼のことを想い続け、最後には食事も取らずにポックリだそうだ。
ちなみに、実は男は別の女性と一緒にどこかへと逃亡したらしい。
亡くなった女性は、気性の激しいことで近所でも有名で、度々問題を起こしていたみたいだ。
それに易癖した男性が他へと走った訳だ。
自業自得と言えば話は早い。
嫌な話を聞いた。
さらに飛び込んだ妻の情報に、俺はついに確信した。
「お隣りさん、入っていないって……」
「え゛っ!?」
「まあ、生活する気配もしないしね。見たこともないし」
「いや、声が聞こえたりしない?」
「声? 隣から? ふふっ、私をからかってるの?」
妻が嘘を言っている様子はない。
だが俺は隣の女を見たし、声も聞いた。
じゃあ、あれは誰だ?
身体がソクリと震えた。噂通りだ。男にだけ聞こえる。
だがあの女は? 毎日のように見たではないか。
今日はやけに寒い。まだ夏の終わりだぞ。
「ふ、風呂に入ってくるよ」
「長湯はやめるのよ」
風呂に浸かると、嫌なことが一気に吹っ飛んだ。しばらくこのままでいよう。
「ふぅ、あったかいな~」
心の奥底まで温まるようだ。これで何事もなく――
『クスン、マサト、ゴメンネ』
「――!」
突然、またあの声が聞こえてきた。必死に悲鳴を押し殺す。
どんだけ壁が薄いんだ。選択を失敗したかな。
いや、違うだろ。隣に人はいない筈だぞ。この声はどこから聞こえてくるんだ?
誰かのドッキリ? それとも悪戯、もしくは奇跡的に反響してきた声とか……
気分が悪いので、風呂は即行で上がった。
風呂から上がると妻がリビングの椅子に座っていた。後ろ姿から見るロングの黒髪は艷やかだ。
「はぁ~、今日はもう寝るよ。おやすみ」
俺の声に無反応。テレビに夢中になっているのだろうか。どうでもいい。今日はもう早く寝たい。
寝室のドアを開けて、ダブルベッドに潜り込むが……
「うぅわッ!」
そこには妻がいた。
「うるさいわねぇ、なによう……」
怪訝な調子で妻が文句を言う。
いや、妻が寝ていること事態はおかしくない。おかしくはないのだが、問題は今ここにいることだ。
「お、お前、何でここにいるんだ?」
「なーに? いちゃ悪いの?」
「い、いや、だけどお前リビングに……」
そこで背筋がゾッとした。
あそこで座っていたのは誰だ?
妻はここにいる。
だとすると、不法侵入者。いや、玄関には鍵がかかってるんだ。泥棒だって、あんな風に寛いではいないだろう。
なら……
ゴクリと唾を飲み込んだ。
ありえない。ありえない、んだが、あの後ろ姿、妻とは別に見たことがある。
――隣人の女だ。
ゾクリと身体がより一層冷える。
しかし、仮に隣の女が無断で入ってきていたとしても、風呂場から声が聞こえていた。
ヒステリーな、最悪に言えば呪うような叫び声……
その短時間で家に忍び込んだのか? 不可能だ。
超常現象でもない限り……
「ちょ、ちょっと行ってくる」
とにかく確認だ。見間違いという可能性もある。そうであって欲しい。
寝室のドアを開け、そっとリビングに向かう。
明かりはまだついている。テレビもついている。人は……
いない。リビングにはいない!?
椅子には誰も座っていない。
どこだ?
カタン
音がした。場所からしてトイレだ。そこにいるのか?
震える脚を必死に奮い立たせて、忍び足で近づく。
トイレの前に立ち、ドアを――
バンッ
「ここか!」
開け放つが、いない。風呂場か?
ふうっ、焦るな。いない、いる筈がないんだ。
音を立てずに扉の前に立つ。
「悪霊退散ッ!」
開ける! いないッ!
シャワーカーテンの向こう側は……
ガバッ
ここにもいないッ! 残るはベランダ、か?
不法侵入者だとしたら、そこが一番可能性が高い。窓から逃げたのか?
どこかに潜んでいるかもしれない。死角になる場所を隈無く調べるが、部屋の中にはいないようだ。
周りをキョロキョロしながら進み、最後の可能性――ベランダに迫る。
ここが最後だ。どうかいないでくれ。
緊張した手でカーテンを持ち、一呼吸。勇気を振り絞り、引っ張る!
ザッ
そこには月明かりが灯し出す都会の景色があるだけだった。
ここにもいない。
「いな、い……はぁ~」
結局、どこにもいなかった。
あれは幻? 潜在的な恐怖が俺に幻覚を見せていたのか?
そうだ、そうに違いない。
「ふぅ~」
考え過ぎだろうか。安心したら気が抜けた。早く寝たい。
『早ク来いぃぃぃィィィ、マサトォォオオオおおぉぉぉッ!』
「うぉおぅッ」
また聞こえてきた。どうなっているんだ。
隣には誰も住んでいない。隣からじゃないのか?
隣の隣、又は上の階なんてことも考えられる。あるいはパイプを伝って、どこかの部屋の声が届いている、なんてこともある。
今度、調べて見るか。そうしよう。
疲れからか、重い足取りで寝室に戻る。
妻は……もう寝ているな。
妻は熟睡している。俺の気持ちも知らずに幸せな奴だ。
明日、文句を言ってやろう。
「おやすみ……」
そういえば最近、ご無沙汰だな。
よし! ふふ、悪戯してやろう。今夜は寝かさないぞ。
「お~い、起きろぉ」
強引にキスしちゃおう、と妻の頬を両手で挟み込み振り向かせる――
『ヤット来タネ、マサト』
その顔は、妻のものではなく、別の女の顔だった。
この暑い夏、少しは涼めましたでしょうか?
お体にはお気をつけください。