夢めくり 〔光〕
ひらひらひら
漆黒に玉をはめ込んだような蝶が舞っていた。
わたしは蝶を、夢中で追いかけた。
お家の庭を飛び出して、菜の花畑を越えて、小川を越えた。
宝石のような蝶は、わたしをからかっているのか、頭の少し上の方をゆっくりと、だけど走らないとついて行けないくらいの速さで飛んでいる。
やさしい陽射しにきらきらと翅を輝かせ、蝶はどんどん進む。
気が付けば、来たこともない所へ出てしまっていた。
朴の花が道沿いに咲いている、街道だった。
青空が、とてもきれいだった。
菜の花が風に揺れていた。お家の目の前の菜の花畑には勝てないけれど……。
きれいなところだったけれど、わたしは急に不安になった。
わたしは走るのをやめた。
蝶はわたしの頭上で輪を描くと、ひらひらとどこかへ消えてしまった。
こわい。
見たこともない道。
誰も通らない。
迷子になっちゃったのかしら?
どうしよう、お母さんに怒られちゃうかも
どうしよう……
不意に目の前が水の底に沈んだ。
ぼろぼろと涙がこぼれた。
「だめ! 泣かないって、おにいちゃんと約束したもん!!」
わたしは自分に言い聞かせた。
泣き虫のわたしは、お兄ちゃんと約束したんだ、「もうなにがあっても絶対泣かない」と。そしたらお兄ちゃんは、わたしを精一杯誉めてくれると約束してくれた。
だからわたしは泣いちゃいけない。 けれど迷子になっちゃったら、大好きなお兄ちゃんとももう会えないかもしれない……。そう思うと、さっきよりもさびしくて、悲しくて、涙が止まらなくてどうしようもなかった。
「おにいちゃん……おにぃちゃぁ……!」
お兄ちゃんに会いたい
お兄ちゃん、助けて……!
「どうしたの? 迷子? はい、これ食べなよ。おなかすいたでしょ」
突然男の人の声がして、わたしは顔を上げた。
まず、真っ白で、大きなおにぎりが目に入った。わたしはちょっとびっくりした。
そのまた先を見ると、目の前に、お兄ちゃんと同い年くらいの人が、わたしの顔を覗き込むようにして立っていた。
真っ黒な稽古着に細長い袋を担いで、その先に大きな大きな袋を提げて。
剣術をやってる人だとすぐにわかった。
お兄ちゃんも剣術をやっているから。
わたしはぐいっと涙をぬぐった。
そう言えば、蝶を追いかける前からお腹がすいていたのだった。けれども、蝶を追いかけることに夢中になって、お腹が空いているのを忘れていた。
急に、お腹の虫が目を覚ました。
おにぎりをもらった。
でも、毒が入っていたらどうしよう。
「梅干だよ。姉さんお手製のとってもおいしい梅干なんだから!」
と、その人は言った。
わたしは一口かじった。梅干は見えない。
「どこからきたの?」
にこにこ笑いながら、その人が聞いてきた。
わたしは分からなかったから、首を横に大きく振った。
するとその人は困ったように笑った。
「う〜ん……どうしようかなぁ……? あ、そうだ! 俺、今から稽古をつけに日野へ行くんだけど、君も一緒に来る? そうしたら、分かるかもしれないし」
その人はまたにっこりと笑った。
笑顔がとてもきれいで、なんだかまぶしかった。
わたしの「さびしい」気もちは、いつの間にか小さくなっていた。
わたしはこくり、と大きくうなずいて
「……行く」
と言った。
笑顔のその人は、
「よかったぁ!」
と、とても嬉しそうに笑った。
それからその人はわたしをひょいと抱き上げて肩車をすると、重い荷物を持っているにも関わらず、軽々と菜の花の中を歩いていった。
「ねぇ、きみ、名前はなんていうの?」
その人が聞いてきた。
わたしは肩の上でおにぎりをほお張った。梅干が見えてきた。
ちょっと元気がわいてきた。
「ハナ。わたし、ハナって言うの」
「へぇ、ハナちゃんかぁ。かわいいね。菜の花のおハナちゃん」
わたしはにっこりと笑った。
その人も笑っていた。
梅干をかじった。酸っぱい味が口の中に広がった。けれどその梅干はとてもおいしかった。
「おにいちゃんはなんていうの?」
わたしは聞き返した。
するとお兄ちゃんは誇らしげに言った。
「俺は宗次郎!」
「そーじろー?」
「うん! 宗次郎! いい名前でしょ。とっても気に入ってるんだ!」
と、お兄ちゃんはうれしそうに笑った。
わたしも「ハナ」て名前は好きだけど、こんなに自分の名前が好きだって人ははじめて見た。
「こう見えても『試衛館』って道場の塾頭をやってるんだ。……て言っても分からないよね……」
宗次郎は、困ったように笑ってたけど、わたしにはなんとなく分かった。きっとすごい人なんだろうなぁ、て。だけどなにがすごいの? と聞かれても、答えられない。ほんとうに、なんとなくそう思っただけなのだから。
「宗次郎は強いの?」
「うん、強いよ!」
自信たっぷりに答えた。
きっと宗次郎は、自分が大好きなんだ。
「おにいちゃんより?」
「おにいちゃん? そうだなぁ…多分強いよ。だって、俺は天才だから」
そう言って宗次郎は、胸を張った。
なんだか足取りも、さっきよりも軽やかで、自信に溢れていた。 宗次郎とは、たくさんたくさんお喋りをした。
宗次郎はヘンだ。
お兄ちゃんとは違って、なんだか、おかしい。
だけどわたしは、お兄ちゃんの次に宗次郎が大好きになっていた。
「ごめんくださーい、試衛館の沖田です!」
宗次郎はある家の、開け放たれた扉から大きな声で名乗った。
とてもよくとおる声だ。
でも、それよりもっと重要なのは……
「佐藤さーん、いますかー?」
家の奥から、女の人と、宗次郎と同い年の男の人とその弟が出てきた。
「ああ、沖田先生! ようこそいらっしゃいました。どうぞお上がりください…て、ハナ? あんたどこ行ってたの!」
「へ? おハナちゃんとお知りあいですか?」
宗次郎が肩車をしているわたしを見上げた。
あ、そうか、わたしは迷子になっていたんだ。
「知り合いもなにも、うちの娘ですよ! もう、本当にご迷惑おかけしました……ハナ、先生の肩から降りなさい。勝之、源之助、先生のお荷物を運んで差し上げて」
お母さんの言葉に、口をぽっかりと開けていたお兄ちゃんとげん兄は、はっとしたように宗次郎から荷物を預かると、部屋へ運んだ。お母さんはわたしを宗次郎の肩から降ろすと、ぎゅっと抱きしてめくれた。
「もう、心配かけないで。ああ、でも本当に良かった……」
お母さんは、宗次郎に何度も何度もお礼を言っていた。
宗次郎は相変わらずの笑顔でそれに答えていた。
「おハナちゃん、よかったね」
宗次郎はにこりと笑って、わたしの頭を撫でてくれた。 わたしはとても嬉しかった。
「でも本当にびっくりしたなぁ……おハナちゃんが、佐藤さんとこの娘さんだったとは。世界は不思議だ……」
宗次郎は腕組みをして、うーん、といっていた。
宗次郎は四日間くらいお家に泊り込みで、お兄ちゃんたちのお稽古をつけていた。
わたしは毎日、お兄ちゃんたちのお稽古を道場の片隅で見ていた。
木刀を振るう宗次郎は、まるで別人だ。
お稽古はとても厳しいし、宗次郎は手加減もしない。
げん兄は一度お稽古を放り出して、お母さんにこっぴどくしかられた。
今までも遠くからお稽古をつけにやって来てくれる人がいたけど、その人よりももっと強いな、って思った。
宗次郎の中には、きっと鬼がいるんだ。
けれど、やっぱり宗次郎はよく笑うし、とってもやさしい。
道場にいるときの宗次郎はすごく楽しそうで、ほんとうに剣術が好きなんだな、と思っていた。
わたしはそんな宗次郎が大好きだった。
きょうだいが増えたようで、とってもとっても嬉しかった。
勝之お兄ちゃんとも話が合うようで、お稽古のあともよく話していた。
わたしはその輪の中にまじって、じっと耳を傾けているのが好きだった。けれど、二人が何を話しているのかは分からなかった。きっと剣術のことだろうと思う。
このまま宗次郎がうちにいてくれればいいのになぁ、と思っていた。
宗次郎が帰る日がやって来た。
わたしは朝から、とてもさびしかった。
宗次郎と離れるのが辛くて、帰り支度をしている宗次郎に、わたしは朝からくっついていた。お母さんやお父さんに注意された。
けれど、わたしは宗次郎のそばから離れなかった。
「ねぇ、宗次郎」
「ん? なに?」
「宗次郎と、もう会えないの?」
宗次郎は笑っていたけど、なんだかさびしそうに見えた。
こんな宗次郎を見るのは初めてだった。
「また来るよ。今度は六月だ。それまで元気にしているんだよ、おハナちゃん」
宗次郎は笑った。
そうしてわたしの頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。
わたしはいっしょうけんめい、涙が出そうになるのをこらえていた。
宗次郎はそれを見て、また笑った。
* * *
懐かしい夢を見た。
忘れかけていた、温かい想い出。
風のように過ぎ去ってしまった、遠い昔。
あの人は今ごろ、どうしているのだろう。
生きていれば、もう随分お爺さんになっているはずだ。
沖田宗次郎
彼は幼いわたしの、暖かな風だった。