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異世界アステリア百景 〜大きな世界の、小さな物語〜

売れない物ばかりの店ですが、物語なら高く売れます 〜転生バイヤーと看板娘のまわり道堂繁盛記〜

作者: 宇野 心一
掲載日:2026/07/21

◆一 いわれ書きの店


 フロレンツの運河沿い、朝の水面がまだ乳色にけむる時刻だ。まわり道堂の看板娘リルは、店先に吊るした古い風鈴を指ではじいて、今日いちばんの客が来るのを待っていた。


「アリアさん、この壺、ほんとに売れるんですか。ひび、入ってますよ」


 亜麻色の髪を左右でちいさく結んだ、そばかすの少女だ。歳は十五。二年前、運河の渡し場で身寄りもなくうずくまっていたところを、この店の店主に拾われた。品の値打ちには目ざといが、値札の裏のことは、まだ何も視えない。


「そのひびに、いわれがあるのよ」


 店主のアリアが、棚の奥から出てきた。木戸を押し開けて、運河を渡ってきた朝の風を店に入れる。見た目は二十代半ばの女で、髪をうなじで無造作に束ねている。品を手に取るときだけ、その指がふしぎなほど優しくなる——それが、この店主の癖だった。


 まわり道堂には、商業ギルドの査定なら二束三文の品ばかりが並んでいる。けれど棚の品には、どれも値札のほかにもう一枚、紙が添えてあった。店ではそれを「いわれ書き」と呼ぶ。その品が歩んできた物語を、短く記した紙だ。


 アリアには、女神から授かった加護があった。「物語り」という。物に残った持ち主の強い想いが、指先を通して視える。鑑定のように、値打ちが数字で出るわけではない。ただ、その皿で誰が誰に粥をよそったか、その櫛が花嫁のどんな朝を梳いたか——物がくぐってきた人の時間が、静かに視えるだけだ。だからアリアは、値打ちのない品にこそ、いわれ書きを添えて売る。


「あたしにも、視えたらいいのに」リルは唇をとがらせた。「物語り。あたしが触っても、壺は壺のまんまです」


「加護なんて、なくていいの」アリアは笑った。「物の声を聞くのに、いちばん要るのは指先じゃない。耳よ」


 リルには、その意味がまだ分からない。分からないまま、いわれ書きの控えを声に出して読むのが、この少女はいちばん好きだった。


 開店してほどなく、若い夫婦が店をのぞいた。妻のほうが、棚の下段の子供椅子の前で足を止める。小さな背もたれに、翼を広げた鳥の彫りが入っている。座面のかたちが、子の尻にちょうど添うように、ほんのわずかへこませてあった。


「この椅子、いくらですか」


「銀貨三枚です」アリアは椅子を手に取った。その瞬間、指先に木の温もりとは別の温もりが流れ込んでくる。「——いわれ書きを、お読みになりますか」


 妻がうなずいた。アリアは添えた紙を読み上げた。声は、地の文より一段しずかに。


 ――この椅子を彫った指物師には、幼くして亡くした娘がいます。以来この人は、子の椅子ばかりを彫り続けています。座ってくれる子を、ずっと待っている椅子です。


 妻が、そっと腹に手を当てた。まだふくらんでもいない腹だった。夫が妻の肩に手を置く。二人はしばらく黙って、それから顔を見合わせて笑った。


「この子のために、いただきます」


 夫婦が椅子を抱えて帰っていく。運河の橋を渡る二人の背を、アリアとリルは並んで戸口から見送った。値札の裏で、椅子と人が、正しく出会った朝だった。


「……アリアさん」リルが、そっと袖を引いた。「今の、あたし、鳥肌が立ちました。紙を一枚読んだだけなのに」


「でしょう。それが、いわれ書きの値打ちよ」


 その日はほかにも、縁の欠けた古い茶碗が一つ売れた。旅の絵描きが買っていった。いわれ書きには、こう記してある。――この茶碗の持ち主は、目の悪くなった母親のために、縁を少しだけ欠けさせました。指で触れて、どちらが飲み口か分かるように。絵描きは紙を読み終えると、しばらく茶碗を手のひらでなでて、それから何も言わずに銀貨を置いていった。売れない品ではなかった。値打ちのない品でもなかった。ただ、値札の数字にはならない何かが、そこに確かにあるだけだ。


 前の世で、アリアは百貨店の催事場の担当をしていた。売れる物を並べるのが仕事だった。売れ筋を読み、数字を積み、催事を回した。三十四で倒れるまで、その手はよく働いた。ただ一つだけ、心残りがある。ほんとうに売りたいと思った物を、一度も売れないまま終わったことだ。売れる物ばかりを並べ続けた売り場で、値札のつかない物語は、いつも棚の外にあった。


 だから今度は、値札の裏の物語を売ろうと思った。女神が「物語り」の加護をくれたとき、アリアは笑ってしまった。まるで、心残りを見透かされたようだったから。


 昼過ぎ、運河のほうから重い足音がした。仕立てのいい上着を着た、押し出しのいい男が店に入ってくる。バルドー商会の番頭だった。感情のうかがえない顔で、店内をひとわたり眺めまわす。


「まわり道堂の店主は、あんたかね」


「はい。何か、お探しですか」


「探し物ではない。届け物だ」番頭は一枚の書状を、値札のように無造作に卓へ置いた。「バルドー商会は、この運河地区一帯の再開発の認可を得た。この店も、立ち退きの対象だ。期日と補償の額はそこに書いてある。……悪く思わんでくれ。決めるのはわしじゃない」


 男は用件だけを言い置いて、来たときと同じ足取りで帰っていった。リルが、青い顔で書状をのぞきこむ。


「立ち退きって……この店、なくなっちゃうんですか」


 アリアは書状を手に取った。指先に、何も流れてこない。まだ誰の想いも染みていない、真新しい紙だった。


◆二 規定にない値段


 立ち退きの補償査定に来たのは、商業ギルドの査定係だった。


 モナと名乗った。二十代の、きちんと結い上げた髪と、隙のない事務服。手には査定帳と算盤を抱えている。棚の品を一つひとつ検分し、算盤の珠を弾いては、帳面に数字を書きつけていく。その指さばきに迷いはない。ただ、書きつける数字のほうが、どんどん小さくなっていった。


「古材の椅子、価値なし。欠けのある皿、価値なし。……失礼ですが、店主さん」モナは顔を上げた。「この店、査定に載る品がほとんどありません。補償の算定は、品物の価値の合計から出します。このままだと、補償額はほとんど、店の板壁の値段だけになります」


「品には、いわれ書きがついています」リルが、たまらず口をはさんだ。「ただの壺じゃありません。物語がついてるんです」


「それは……存じています。でも」モナは一枚の紙を手に取った。子供椅子の隣に残っていた、いわれ書きの控えだった。読み進むうち、算盤を弾く手が止まる。「……この、いわれ書きの分は、査定のどこにも欄がありません。規定に、ないんです。物の値段は決められても、物語の値段を書く欄が」


 モナはしばらく紙を見つめ、それから、居心地悪そうに算盤を仕舞った。


「規定どおりに、やらせてください。それが、わたしの仕事なので」


「ええ。どうぞ」アリアは微笑んだ。「あなたが困った顔をしてくれたことは、いわれ書きには書けませんけれど、覚えておきます」


 モナが帰ったあと、アリアは仕入れの支度をした。運河の水運を使って、上流の村々を回る。品を買うのではない。手放したい品と、その物語を、聞き集めてくる旅だ。リルも、荷袋を背負ってついてきた。


「留守番、しなくていいんですか」


「今日は、あなたにも聞いてほしいものがあるの。仕入れって、どういうことか」


 街道沿いの宿は、いつも渡り鳥亭と決めていた。看板に渡り鳥の意匠が染め抜かれた、街道筋にいくつも枝を広げる宿だ。並部屋に泊まり、湯気の立つ椀を前に、宿の主人や隣り合った旅人の身の上話を聞く。誰かが手放したい物には、たいてい手放せない理由がついている。その理由こそが、いわれ書きの種だった。


 その夜、長い卓の向かいに座った老いた行商人が、酒の勢いで一本の古い鍵を卓に置いた。もうどこの錠も開かない、錆びた鍵だった。


「捨てるに捨てられん物ってのが、あるんだよ」行商人は苦笑した。「これは、死んだ女房と暮らした最初の家の鍵だ。家はとうに人手に渡って、錠も替わっちまった。開ける戸なんぞ、この世に一つもない。だが、こいつを捨てると、あの家に帰る道までなくなる気がしてな」


 リルが、鍵をそっと手に取った。目を閉じて、耳を澄ませてみる。しばらくして、少女はしょんぼりと首を振った。


「……あたしには、やっぱり錆びた鍵にしか見えません」


「見なくていいの」アリアは鍵を受け取った。指先に、若い夫婦が小さな戸口をくぐる朝の光が流れてくる。冷たい鉄に、まだ温もりが残っていた。「今の話を、覚えていられるかどうか。それだけよ」


「開ける戸がなくても、鍵は道しるべになります」アリアは行商人に言った。「よろしければ、うちで引き取ります。開かない鍵ですけれど、帰り道の値なら、つけられますから」


 行商人はまじまじとアリアを見て、それから、目のふちを赤くして笑った。仕入れとは、こういう夜の積み重ねだった。品を安く買い叩くのではない。手放せない理由を、預かるのだ。リルは、その一部始終を、まばたきもせずに見ていた。


 子供椅子を彫った指物師のことも、この旅で知った。ジェッポという、七十を過ぎた老人だ。運河から少し入った路地に、細々と工房を構えている。娘を早くに亡くしてから、子の椅子ばかりを彫るようになったと、近所の者が教えてくれた。座る子のいない椅子が、工房にいくつも並んでいるという。


 アリアは工房を訪ね、椅子を何脚か引き取った。老人は代金を受け取りながら、ぽつりと言った。


「売れんでもええ。だが、埃をかぶって朽ちるのは、忍びなくてな。……あんたの店なら、いわれを付けてくれるんだろう」


「はい。座る子が、きっと見つかります」


 その帰り道だった。運河の荷揚げ場で、バルドー商会の蔵から品を運び出す人足たちを見かけた。再開発を前に、蔵の古物を処分するのだという。荷車には、割れた壺や、錆びた燭台や、値のつかなくなった雑多な品が、山のように積まれていた。


 その山の前を通り過ぎようとして、アリアの足が止まった。


「アリアさん?」


 リルが振り返る。店主の指先が、うずいていた。加護が、何かを拾っていた。


 荷車の山の、いちばん底のほう。粗末な木匙が一本、他の瓦礫に押しつぶされるように挟まっていた。柄の細い、飾りけのない、貧しい台所の匙だ。それなのに、その一本からだけ、強い、強い想いが流れ込んでくる。他のどの品よりも濃い、消えずに残った誰かの時間が。


 アリアは山に手を伸ばし、その匙を抜き取った。柄の先に、焼き印がある。目を凝らすと、小さな一文字。


 ――「B」。


「おい、勝手に触るな」荷揚げ場の現場監督が、大股で近づいてきた。日に焼けた、四十がらみの実直そうな男だ。「それは商会の処分品だ。まとめて明後日、炉にくべる。持ち出しは許さん。決まりでな」


「お売りいただけませんか」アリアは匙を胸に抱いた。「銅貨で結構です。この一本だけ」


「言ったろう、処分品だ。値もついてない物を、勝手に売り買いはできん」監督は困った顔をした。「気持ちは分からんでもないが……こっちも商会の使いだ。一本だけ抜いたと知れたら、わしの首が飛ぶ」


 アリアは匙を握りしめたまま、監督の目を見た。指先を流れる誰かの時間が、あまりに温かくて、あまりに切なかった。


「では、この匙は、わたしが預かります」アリアは匙を胸に抱いたまま言った。「勝手に持ち出したことにはしません。立ち退きの交渉が、明日あるはずです。その席で、わたしが商会から正しく買い取ります。代金は、必ずお納めします」


「交渉の席で、処分品の匙を買う……?」監督は呆れたように言い、それから、山の中の粗末な匙と、それを抱く女の顔を見比べた。ふうと息を吐く。「……分かった。あんたが持ってったと、わしは見なかったことにする。そのかわり、明日きっちり話をつけろ。話がつかなきゃ、次に見つけたときは炉行きだ。いいな」


「ありがとうございます」


「礼はいらん。……ただ、その匙の、何がそんなに大事なんだか」監督は首をひねった。答えの代わりに、アリアは深く頭を下げた。


 帰り道、リルは匙を抱く店主の横顔を、そっと見上げた。


「アリアさん。その匙、何が視えたんですか」


「……明日、話すわ」アリアの声は、少しだけ震えていた。「明日、あの匙を、いちばん買ってほしくない人に、売りに行くの」


◆三 銅貨三枚の値段


 まわり道堂の奥で、アリアは木匙をそっと卓に置いた。目を閉じ、指先に流れてくるものを、ゆっくりと受け止める。リルは、息をつめてそのそばに座っていた。


 視えたのは、貧しい台所だった。土間に、すすで黒ずんだかまど。その前に、痩せた女がしゃがんでいる。鍋の中は、米粒のまばらな薄い粥だ。女はその匙で粥をすくい、ふうふうと冷まして、隣の幼い男の子の口へ運ぶ。毎晩、毎晩、同じ光景。粥はいつも薄くて、女の椀はいつも空に近い。それでも女は、匙を運ぶたびに笑って、同じ言葉を繰り返していた。


 ――あんたは、大きくなる子だよ。


 男の子の名は、視えない。想いに名は残らないからだ。ただ、女がその子の頭をなでる手つきと、匙の柄を握る指の温もりだけが、六十年の時を越えて、まだそこにあった。柄の「B」は、母がその子の名の頭文字を、拙い手で焼きつけたものだった。


 視えるものは、それだけではなかった。もう一つ、別の日の光景が、匙の底に薄く沈んでいる。年老いた同じ女が、すっかり背の伸びた息子の手のひらに、この匙を握らせようとしている。都会へ出て身を立てるのだという。だが青年の手は、匙を押し返していた。貧しい台所の匂いごと、その匙を、置いていこうとしていた。母は寂しげに笑って、匙を引っ込めた。——それが、この匙に残る最後の温もりだった。あとはもう、質屋の暗がりと、蔵の底の冷たさしか、視えてこない。


 アリアは目を開けた。頬が濡れていた。


「アリアさん、泣いてる」リルが、おろおろと顔をのぞきこむ。「そんなに、悲しい匙なんですか」


「悲しいんじゃないの」アリアは涙をぬぐって、少しだけ笑った。「温かすぎて、こぼれちゃっただけ。……この匙はね、リル。ある成功者が、いちばん見たくない自分の顔よ」


 バルドーという商人の名は、フロレンツで知らぬ者はいない。運河地区の再開発を進める、バルドー商会の会頭。貧民街の上がりから一代で身を興した立志伝の人、というのが世間の評判だった。恥ずべき過去などない、堂々たる成功者。——けれど、その恥ずべき過去そのものが、質流れの果てに回り回って、いま商会自身の蔵の底に眠っていた。捨てたはずの母の形見が。


 立ち退きの交渉の席は、バルドー商会の広間で開かれた。長い卓の向こうに、会頭バルドーが座っている。六十がらみの、白髪をきれいになでつけた男だ。両脇に商会の幹部が居並び、末席には査定係のモナが控えていた。そして会頭のかたわらには、あの番頭が立っている。アリアの半歩うしろで、リルが両手をぎゅっと握りしめていた。


「補償の額に不服がある、と聞いたが」バルドーの声は、低く落ち着いていた。「言っておくが、わしは情で商いをせん。運河地区は古びた。新しい市場に生まれ変わらせるのが、フロレンツのためだ。あんたの店一軒のために、街の明日を止めるわけにはいかん」


「補償のお話ではありません」アリアは風呂敷包みを解いた。「まず、お詫びとお願いがあります。昨日、荷揚げ場の処分品の中から、この匙を一本、預かってまいりました。炉にくべられる前に、どうしても。——正しく買い取らせてください。銅貨でも、言い値でも、お支払いします」


 卓の上に、粗末な木匙を置く。幹部たちがざわめいた。番頭が眉をひそめる。


「処分品の匙を、わざわざ買い取りに、交渉の席へ来たと」会頭バルドーは、けげんそうに匙を一瞥した。「妙な古物商もいたものだ。……くれてやる。炉の燃やし賃が浮くだけの、瓦礫だ。それより、立ち退きの話を」


「いいえ」アリアは首を振った。「わたしは、この匙を買い取ったうえで、会頭に、お売りしたいのです。この一本には、値がつきます。——お聞きいただけますか」


「……古物商の商談か。悪いが、こちらは忙しい」番頭がさえぎった。「会頭。処分品の炉入れは明後日です。この手の感傷で、再開発の商談を止めるおつもりですか」


 番頭はアリアに顔を寄せ、声を落とした。


「店主さん。悪いようにはせん。補償を上乗せしよう。この場を穏便に収めてくれるなら、あんたの店は、別の地区で開けるように取り計らってやる。……それで、手を打たんか」


 アリアは、一瞬、息を止めた。


 差し出されたのは、店だった。まわり道堂という、この世でようやく手に入れた自分の居場所。拾った少女と寝起きする、たった一つの帰る場所。それを守るか。それとも、この匙の物語を語るか。——前の世で、売りたい物を売れないまま棚の外に置き続けた、あの心残りと、同じかたちの選択だった。今度は、選び直せる。


 半歩うしろで、リルが息をのむのが分かった。アリアは、いわれ書きを卓に広げた。


「いいえ。これは、この匙にしか語れない物語です。——お読みします」


 声を、地の文より一段しずかに落とす。広間の物音が、すっと引いた。


 ――この匙は、六十年前、ある母親が銅貨三枚で買った、いちばん安い匙です。母親は毎晩この匙で、薄い粥を幼い息子の口に運びました。自分の椀はいつも空に近いのに、匙を運ぶたび、母親は笑ってこう言ったそうです。あんたは、大きくなる子だよ、と。柄の「B」は、母親が息子の名を、慣れない手で焼きつけたものです。


 広間が、静まり返った。


 番頭が、算盤を卓に置いた。かたり、と乾いた音がした。それきり、その手は動かない。末席で、モナが袖口を目に当てていた。居並ぶ幹部たちは、誰も口をきかなかった。ただ一人、会頭バルドーだけが、身じろぎもせず匙を見つめていた。


 やがて、会頭が手を伸ばした。節くれだった太い指が、匙の柄の焼き印に触れる。その指が、かすかに震えていた。


「……いくらだ」絞り出すような声だった。「この匙の、値は」


「銅貨三枚です」アリアは言った。「六十年前、お母さまがこの匙を買った、その値段で」


 バルドーは長いあいだ、匙を握りしめて動かなかった。なでつけた白髪の下で、肩がわずかに揺れている。それから、しわがれた声が、ぽつりと落ちた。


「……墓の場所を、ずっと忘れたことにしていた。丘の、いちばん日当たりの悪い、共同墓地の隅だ。あそこに、行くのが恥ずかしかった。成り上がって、いい上着を着るほどに、あの薄い粥の匂いから、遠ざかりたかった」


 会頭は、匙を胸に押し当てた。


「捨てたつもりだった。忘れたつもりだった。それが、まさか、わし自身の蔵で待っていたとはな」


◆四 まわり道の市場


 再開発は、中止にはならなかった。


 情で商いをせん、というバルドーの言葉は、本心だったのだろう。運河地区の刷新は、フロレンツの明日のために必要だった。ただ、計画は変わった。取り壊して更地にするのではなく、古い街並みをそのまま生かして、「古物ごと商う市場」にする——それがバルドー商会の新しい絵図だった。


「壊すのは、いつでもできる」交渉の席を締めるとき、会頭はそう言った。商人の顔に戻っていた。「だが、古いものには、古いものにしか付けられん値がある。それを商うほうが、長い目で見て、儲かる。……まわり道堂には、その市場の真ん中で店を続けてもらう。いわれ書きのやり方を、市場の売り子たちに教えてやってくれ。手間賃は、はずむ」


 情で全部をひっくり返したわけではない。商人の理屈で、店は残った。それはむしろ、この国らしい着地だった。


 市場の区割りを取り仕切ったのは、あの番頭だった。まわり道堂の新しい店先の寸法を測りに来たとき、男はアリアと目が合うと、ばつが悪そうに一度だけ視線を落とした。あの日、算盤を卓に置いたきり動かせなかった手を、思い出しているのかもしれなかった。


「……角地にしておいた」番頭はぶっきらぼうに言った。「運河がいちばんよく見える。会頭のご指図だ。わしの一存じゃない」


 言い訳のように付け足して、男は寸法帳を小脇に抱えて去っていった。侮りの言葉を口にした者が、詫びの代わりに角地を一つ置いていく。この国では、それがせいいっぱいの謝り方なのだろう。アリアは、その不器用さが嫌いではなかった。


 査定係のモナは、商業ギルドを辞めなかった。代わりに、規定を変える側に回った。「いわれ書き査定」という新しい欄を、補償や取引の規定に書き加えるための、長い掛け合いを始めたのだ。物の値段だけでなく、物にまつわる物語の値も、帳面に載せられるように。


「規定のどこにも書いてない、って言いましたよね、わたし」市場の下見に来たモナは、少し照れくさそうに言った。「書く欄がないなら、作ればいいって、店主さんに教わりました。——時間はかかります。でも、いつか」


 ジェッポ老の子供椅子は、新しい市場の棚に並んだ。ある日、以前の若い夫婦が、赤子を抱いて店を訪ねてきた。生まれたばかりの子だという。母親が椅子に赤子を座らせると、小さな尻が、座面のへこみにちょうど収まった。子が、きゃっと笑う。座る子を、ずっと待っていた椅子だった。アリアはそのことを、老人に伝えに行った。ジェッポ老は何も言わず、ただ長いあいだ、目を閉じていた。


 市場が開かれてしばらく経った昼下がりのことだった。まわり道堂の店先で、リルが一人の老婆と話し込んでいた。老婆は、擦り切れた古い前掛けを手に、売るべきか捨てるべきか決めかねているらしい。


「……これで、孫を三人おぶったんですか」


 リルが、前掛けを胸に抱いて聞いている。目を閉じてはいない。ただ、耳を澄ませていた。老婆がぽつりぽつりと語る言葉を、一つも落とすまいとするように。やがてリルは店の奥へ駆け込み、慣れない手つきで、一枚の紙にいわれ書きを書きつけた。


 ――この前掛けは、三人の子と、三人の孫を、代わるがわるおぶってきました。染みの一つずつに、背中で眠った子の重みがしみこんでいます。


 老婆は紙を読み、しわだらけの目に涙を浮かべて、前掛けを店に託していった。アリアは、棚のかげからその一部始終を見ていた。


「アリアさん、あたし、視えました」老婆が帰ったあと、リルは頬を上気させて振り返った。「ううん、視えてません。加護なんて、やっぱりないです。でも……聞こえたんです。おばあさんの声が、ぜんぶ」


「それでいいの」アリアは、少女の頭にそっと手を置いた。「加護がなくても、物語は聞ける。いちばん要るのは、指先じゃない。耳だって、言ったでしょう」


 リルは、くしゃりと笑った。二年前、運河の渡し場で、値のつかない子として震えていた少女が、いまは物語を聞き取る耳を持っている。売れない物ばかりの店で、いちばん高く売れたのは、この子かもしれない。アリアはそう思って、一人で少し笑った。


 市場の開かれた日から数えて、幾日目かの夕方だった。まわり道堂の戸を、一人の老人が押し開けた。


 仕立てのいい上着に、白髪をきれいになでつけた男。会頭バルドーだった。今日は幹部も番頭も連れず、ただの客の顔で、店に入ってくる。手には、小さな包みを持っていた。


「客として来た」バルドーは言った。「一つ、売り物にならん物を持ってきた。……これに、値段をつけてくれんか」


 包みを解くと、あの木匙が出てきた。銅貨三枚で買い戻した、母の形見だ。


「墓に、行ってきた。六十年ぶりにな。母に、この匙を見せてやった」会頭は匙を卓に置いた。「そうしたら、もう、わしの手元に置いておく必要がなくなった。だが、捨てるのも、炉にくべるのも、もう二度としたくない。……あんたの店なら、こういう物の、行き先を知っているだろう」


 アリアは匙を手に取った。指先に、あの温かい時間が、まだそこにあった。薄い粥。ふうふうと冷ます息。あんたは、大きくなる子だよ。——そして今は、その時間の隣に、もう一つ新しいものが加わっていた。日当たりの悪い墓地の隅に立つ、白髪の男の後ろ姿が。


「この匙は、売り物にはできません」アリアは言った。「値段のつかない物です。——ですから、お預かりします。いわれ書きを添えて、店のいちばん高い棚に飾らせてください。売らない品として。この店が、あなたのお母さまの匙を、覚えている場所として」


 バルドーは、しばらく黙って匙を見つめ、それから、ふっと笑った。若き日の、貧しい台所の子の顔が、一瞬だけそこにのぞいた気がした。


「……いい商人だ、あんたは。値のつかん物に、いちばんいい棚をやるとはな」


 会頭が帰ったあと、アリアは木匙を、店のいちばん高い棚に飾った。いわれ書きは、リルに書かせた。少女は舌を出して考えこみ、それから、いつもより短く記した。


 ――ある母親が、銅貨三枚で買った匙。その子は、大きくなりました。


 運河の水面が、夕日を受けて金色に揺れている。アリアは棚を見上げ、前の世の心残りを、そっと胸の奥にしまった。売れる物ばかりを並べた、あの売り場のことを。値札のつかない物語を、いつも棚の外に置いてきた、あの日々のことを。


 もう、棚の外に置いたりはしない。


 値札の裏には、かならず誰かの人生が貼りついている。


 それを読んでやれる店が、この運河の片隅に、一軒ある。まわり道堂。売れない物ばかりの店だ。けれど、物語なら、いくらでも高く売れる。

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