5年ぶりに再開した幼馴染の婚約者とイチャつくだけの話
扉が閉まると、外のざわめきは急に遠くなった。古い料理屋の個室は、二人で向かい合うにも狭いほどだった。低い卓の片側に長椅子があり、反対側には人ひとりがようやく腰かけられる座布団が置かれている。
日向が長椅子の端に座ると、陽菜は一度、向かいの座布団へ目をやった。それから何も言わず、彼の隣に腰を下ろした。
肩と肩のあいだには、拳ひとつぶんの隙間しかなかった。
「向こう、空いてるけど」
「知ってるよ」
陽菜は澄ました声で答え、卓上の梅酒を手に取った。けれど、細い硝子の杯を持つ指がわずかに震えている。
「五年ぶりなのに、向かい側なんて遠すぎるだもん」
日向は返事を忘れた。
五年前まで、二人は毎日のように顔を合わせていた。春には同じ桜の木へ登り、夏には小川で靴を濡らし、秋には秘密の手紙を神社の石垣へ隠した。両家のあいだでは、二人が成人したのち夫婦になることが、幼いころから半ば当然のように語られていた。
当人たちも、それを嫌だと思ったことはなかった。
だが十を過ぎると、日向は遠方の男子校へ、陽菜は寄宿制の女子校へ進んだ。家の古風なしきたりもあって、二人の往来は手紙だけに限られた。声も姿も知らないまま、それぞれが青年と女性へ育つ五年間だった。
昨夜、駅の改札で陽菜を見つけたとき、日向はすぐには声をかけられなかった。
面影は確かに残っていた。笑う前に少しだけ目を細める癖も、緊張すると左手の指を握り込む癖も変わっていない。けれど、腰まであった髪は肩のあたりで揃えられ、少女らしかった頬には大人びた陰影が生まれていた。細身の衣服の下にある身体も、もはや幼いころの陽菜のものではなかった。
今こうして隣に座っているだけで、その変化があまりに近く感じられる。
「日向、さっきから私のことばかり見てる」
「見てる」
隠すことができず、日向は認めた。
「嫌だった?」
「嫌ではないけれど……どこを見ているのか気になる」
陽菜は杯へ口をつけながら、横目で彼をうかがった。耳が薄赤く染まっている。梅酒のせいではないことを、日向は知っていた。
「全部」
「全部?」
「顔も、髪も、手も。昔と同じところと、変わったところを探してる」
「身体も?」
問いかけは小さかったが、日向の胸の奥へ真っすぐに届いた。
彼は卓上の日本酒を一口だけ飲んだ。喉を通る熱よりも、隣から伝わってくる体温のほうが強く感じられた。
「見てる」
日向は正直に答えた。
「きれいになったと思ってる。それから……女の人になったんだと思った」
陽菜の睫毛が伏せられた。
「がっかりした?」
「どうして」
「昔の日向は、私が少し髪を切っただけで、元に戻せって言ってたよね」
「あれは、切った髪を最初に見せてもらえなかったから拗ねてたんだ」
「そうだったの?」
「昔から、陽菜のことは何でも最初に知りたかった」
陽菜はしばらく黙っていたが、やがて杯を置いた。
「なら、今の私のことも最初から教えてあげるよ」
その声には、幼いころの勝ち気な響きが少しだけ戻っていた。
陽菜は日向のほうへ身体を向けた。近づいた膝が、彼の脚へそっと触れる。
「私はね、この五年で背が七センチ伸びたの。料理も覚えた。日向の好きだった甘い卵焼きも、今なら上手に作れる。昔より泣かなくなったし、知らない人とも話せるようになった。それから……生理も来た」
彼女はそこで言葉を切った。
「正直、身体が変わっていくのが、少し怖かった」
日向は黙って聞いた。
「鏡を見るたび、知らない人がそこにいるみたいだった。胸も腰も、子供だったころとは違っていく。自分の身体なのに、なんかエッチな気がして嫌だった。でもね……」
陽菜は、膝の上で両手を重ねた。
「いつか日向に会ったら、この姿をどう思うだろうって、ずっと考えていた。そのうち、日向にきれいだと思ってもらいたくなった。姿勢を直したり、肌の手入れを覚えたりもしたの。服や下着だって日向に見られることを意識するようになった」
「手紙には書かなかったな」
「そんなこと、文字にできるわけがないよ」
「今は言えるのに?」
「今は日向の顔が見えるから」
陽菜は彼を見上げた。
「嘘をついたら、すぐばれちゃう」
日向は笑いかけたが、その笑いはうまく形にならなかった。胸が苦しいほど高鳴っていた。
「俺も、報告したほうがいい?」
「もちろん。私ばかり恥ずかしい話をするのは不公平だよ」
日向は背を長椅子へ預けた。
「身長は十二センチ伸びた。声も変わった。剣道を続けていたから、肩や腕も前より太くなった。勉強は……陽菜より少し下かもしれない」
「少し?」
「かなり」
「正直でよろしい」
陽菜がくすりと笑う。
その横顔を見ながら、日向は息を整えた。
「それから、陽菜のことを考えると、昔とは違う気持ちになるようになった」
笑いが止まった。
「違う気持ち?」
「会いたいだけじゃない。手を握りたいとか、抱きしめたいとか、口づけたいとか……そういうことを考える」
陽菜は逃げなかった。
日向は、胸の内を一つずつ確かめるように言葉にした。
「もっと近くに感じたいと思う。でも、そんなきれいな言い方は違う。男として、陽菜が欲しかった。汚したいと思ったし、自分の好きなように、その征服したいと思った」
日向は少し声が震えていた。
「そんな自分を知られたら、怖がられるかもしれないとも思ってた」
陽菜の手が動いた。
彼女は日向の右手へ指先で触れ、それから掌を重ねた。五年前は同じくらいだった手が、今ではすっかり大きさを違えている。日向の掌が、陽菜の手をほとんど包み込んでしまった。
「今、怖がっているように見える?」
「少しだけ」
「私ではなくて、日向が怖がってるのね」
「私も、同じようなことを考えるようになったわ」
陽菜は重ねた手を見つめながら言った。
「手紙を読んだ夜、日向が隣にいたらいいのにと思った。声を聞きたくなった。抱きしめられたら、きっと安心するのにって。それだけではなくて……日向の欲望を、正面から受け止めたいと思うようになった」
彼女の指が、日向の指のあいだへ入ってきた。
陽菜は照れ臭そうに笑った。赤い顔だった。
「その、征服されるのを、待っていたのかもしれないね」
日向は握り返す力を加減した。
「嫌なら、すぐ言ってくれ」
「まだ何もされていないのに?」
「これからのために言ってる」
「じゃあ、日向も言ってね」
「俺が?」
「だって日向は臆病なんだもの。私を征服するのに、どこまでしていいか怖がってるように見えるよ」
陽菜は日向の手をさすった。
「私もね、日向がどこまで私をいじめたいのかまだわかってないもの」
「……俺だって、陽菜のことはそこまで知らない」
「なら、おあいこね」
陽菜は少し考え、それから日向の手を自分の胸元近くまで引き寄せた。日向の指が鎖骨にわずかに触れる。
「触れるのは、ずっと考えてたよ」
「触っていい?」
「聞いてからなら」
日向は空いている手で、鎖骨をなでるように触った。
陽菜は目を閉じ、くすぐったそうに首を縮めた。
「変な感じ」
「嫌か?」
「ううん。嬉しいけど、ドキドキする。日向の目がギラギラしてるからかな」
日向が髪に触れると、陽菜の頬は先ほどより赤くなっていた。
その頬へ触れたいと思ったが、彼はすぐには手を伸ばさなかった。
「頬も、触っていい?」
陽菜は答える代わりに、彼の掌へ自分から頬を寄せた。
柔らかな温かさが掌を満たした。
日向の喉がわずかに鳴る。陽菜はそれに気づいたらしく、目を細めた。
「緊張しているのね」
「陽菜はしてないのか」
「してるよ」
「そうは見えない」
「見せないように練習したよ」
「何の練習だよ」
「婚約者と再会する練習」
陽菜は悪戯っぽく笑い、今度は自分の手を日向の胸へ置いた。衣服越しに鼓動を探し当てると、目を丸くする。
「こんなに速い」
「誰のせいだと思ってる」
「私?」
「陽菜以外に誰がいる」
「それなら、少し嬉しい」
彼女は掌を胸に置いたまま、もう一方の手で日向の肩をなぞった。広くなった骨格を確かめるような、慎重な触れ方だった。
「日向も、本当に男の人になったのね」
「がっかりした?」
先ほどの彼女の問いを返すと、陽菜は首を振った。
「嬉しい。ただ、少し悔しい」
「どうして」
「私の知らないところで大人になってしまったから」
「それは、お互いさまだ」
「では、これから知ればいいのかな」
陽菜の指が肩から腕へ下り、やがて再び手へ戻った。
「日向のことを、私に教えて。身体のことも、心のことも。私も教えるから。知らないまま夫婦になって、どちらかだけが我慢するのは嫌なの」
「俺も嫌だ」
「私を大切にしようとして、何も求めないふりをするのも駄目よ」
日向は彼女の目を見た。
「求めていいのか」
「私の返事を聞いてくれるなら」
「何度でも聞く」
「一度で信じてもいいのに」
「大事なことだから、何度でも確かめたい」
陽菜はしばらく彼を見つめたのち、ゆっくり微笑んだ。
「そういうところを、尊敬しているの」
日向はその言葉を胸の深いところで受け止めた。
「俺も、陽菜を尊敬してる。怖かったことまで自分の言葉で話せるところも、俺の欲を悪いものだと決めつけないところも」
「じゃあ私の欲望も悪いものだと思ってるの?」
「陽菜を困らせるなら、悪いものになる」
「困っていたら言うわ。でも今は……」
彼女は重ねていた手をほどき、両腕をわずかに広げた。
「抱きしめてほしい」
日向はすぐには動かなかった。
「本当に?」
「一回目」
「酔ってない?」
「梅酒を半分飲んだだけよ」
「明日も同じことを言える?」
「二回目」
陽菜は唇を尖らせた。
「三回目まで聞いたら、私から抱きつくわ」
日向はようやく腕を伸ばした。
陽菜の背と腰へ慎重に腕を回す。彼女の身体は思っていたより小さく、それでいて幼いころとはまるで違う柔らかさを持っていた。腕の中へ収まった瞬間、陽菜は短く息を吸い、日向の胸へ頬を寄せた。
「苦しくない?」
「もう少し強くてもいい」
日向が力を加えると、陽菜も彼の背へ腕を回した。
二人のあいだに残っていた拳ひとつぶんの距離が消えた。
「私、胸をこんなに押し付けたのは初めてだよ」
「口に出して言われると意識しすぎる」
「そう?腰が引けててかわいいよ」
日向は勇気を出して陽菜の腰を引き寄せた。
「私の身体はどう?五年前と同じ?」
「全然違う。でも、陽菜だ」
彼女の髪が顎に触れた。日向がその頭を撫でると、陽菜は胸元で小さく笑った。
「こうされると、私、弱くなるみたい」
「弱くなっていい」
「じゃあ、もっと男らしいところアピールしてよ」
「……十分アピールしてると思うけど」
「まだ足りないよ」
「欲張りだな」
「五年も我慢したんだよ」
「俺もだよ」
陽菜は顔を上げた。
近すぎて、互いの呼吸が触れ合った。彼女の瞳には卓上の灯りが揺れている。
「日向」
「うん」
「さっき、キスしたいと言ったよね」
「言った」
「今も?」
「今は、さっきより」
陽菜は目を伏せた。だが、離れようとはしなかった。
「してもいいよ」
日向は彼女の頬を掌で包んだ。
「陽菜」
「三回目を聞くの?」
「これは別だ」
「なら、もう一度答える。してほしい」
日向が顔を近づけると、陽菜は目を閉じた。
最初の口づけは、確かめるように短かった。
離れたあとも、二人は額が触れそうな距離にいた。陽菜はゆっくり目を開き、何かを考えるように自分の唇へ指を当てた。
「思っていたより、静かなのね」
「何を想像してたんだ」
「もっと胸が苦しくなるかと思っていた」
「俺は苦しい」
「では、もう一度すれば慣れるかしら」
陽菜の言葉が終わるより早く、今度は彼女のほうから唇を重ねた。
二度目は少し長かった。
離れると、陽菜は照れを隠すように日向の肩へ顔を伏せた。
「慣れた?」
「全然」
「俺も」
「でも、嫌ではない?」
「反対だ」
「私も反対」
日向は陽菜の背を撫でた。ブラの筋を指先に感じる。
彼女も彼の胸へ掌を当て、まだ速い鼓動を感じている。
「結婚したら、もっと近くなるのね」
「ああ」
「身体を重ねることも?」
日向の手が止まった。
「怖い?」
「知らないことだから、少し。でも、日向となら知りたい」
陽菜は顔を上げた。
「私も日向を喜ばせたい。日向だけが私を導くのではなくて、二人で覚えたいの。私が嬉しいことも、日向が嬉しいことも」
「俺もそうしたい」
「急いだり、強がったりしない?」
「約束する。陽菜の言葉を聞く。俺の気持ちも隠さない」
「私も約束する。怖いときも、嬉しいときも、ちゃんと言う」
来月には祝言の日が決まっていた。
五年間、遠く離れて育った二人が、今度は同じ家で暮らし始める。その最初の夜に何が待っているのか、どちらにも正確にはわからなかった。
だが、知らないことを恥じる必要はなかった。
互いの欲を打ち明け、互いのために立ち止まることができるなら、二人は夫婦になってからも何度でも学び直せる。
「祝言の夜には」
陽菜が言った。
「うん」
「今日の続きをしようね」
「近いうちに、夫婦の契りを結ぶ」
「ええ。心も身体も、二人で決めながら」
陽菜は小指を差し出した。
幼いころ、二人は何かを約束するたび、こうして指を結んだ。
日向も小指を絡める。
「約束する」
「破ったら?」
「一生かけて償う」
「それでは罰にならないね」
「じゃあ、陽菜が決めてくれ」
彼女は少し考えるふりをした。
「五年ぶん、私を抱きしめてほしいよ」
「今夜だけで?」
「一晩では、足りないよ」
「そうだな」
日向は絡めた指をほどき、再び陽菜を腕の中へ迎えた。
「なら、一生かける」
陽菜は満足そうに目を閉じた。
狭い個室は、もう窮屈には感じられなかった。二人の肩も膝も互いに触れ、離れていた五年の時間までもが、ひとつの体温に溶けていくようだった。
「日向」
「何?」
「もう一度、キスして」
「三回目?」
「これは別」
先ほどの言葉を真似た陽菜が、腕の中で笑った。
日向はその笑みごと、彼女の唇を受け止めた。
今度は二人とも、すぐには離れなかった。




