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あえて難しい言葉を使う理由

掲載日:2026/03/08

 noteの書評を読んでいたら「(この作家は)あえて難しい言葉を使っている」というような文章と出会った。最近よく見る文章だ。

 

 こうした言い方は難解な作品について言われる事も多い。「わかりやすく描けばいいのにあえて難しくして、自分に酔っている」とか「わかっている自分はかっこいいと信者はうぬぼれている」などと言われる。

 

 しかしこうした言い方には一つの前提がある。それは「簡単な言葉によって全ては言い尽くせる」という前提である。

 

 こうした前提というものがないのであれば「あえてそうしている」という言葉の意味がわからなくなる。「簡単に言えるけどわざと難しく言っている」という事は、それが何かはともかく、様々な事は「簡単に言える」というのがこれらの人にとっては自明なのだろう。

 

 しかし、こうした自明を疑うところから文学や哲学の「文体」というものが現れてくる。そもそも、「簡単な言い方」で様々なものは描写可能であったり、言い尽くす事が可能である、彼らは何故そう考えるのだろうか? 

 

 …もちろん、このように「難解な問い」をこうした人にぶつけてもまともな答えは返ってこないだろう。こうした人達はそうした問題について深く考えた事がないからこそ、「簡単な言い方」で様々な事は言い尽くせると信じているのだから。

 

 この事は、こうした言い方をする人が、常識というものを自明のものとして生きている事を語っている。彼らにとってそれは当たり前の事だ。しかし地球が平らに見えるが、実際は球であるのと同じように、こうした人達の常識が正しいと決まっているわけではない。

 

 ※

 私は今、前田英樹の「ベルクソン哲学最後の遺言」という本を読んでいる。私の印象では前田英樹は「わかっている人」である。

 

 「わかっている」とは、本当に大事な事は語り得ないという事がわかっている、というような意味になる。

 

 またベルクソンも語り得ないものについて語り続けた哲学者である。この事がわかった時、ベルクソンがわかった、と私は思った。しかし私が「わかった」事は、他者の語り得ないものが、私自身の語り得ないものに変化したという事を意味するから、この経験そのものはわかりやすくは語る事ができない。しかし人は「もっとわかりやすく書いてくれ」と要求する事もできる。

 

 このエッセイでは哲学論をする気はないので話を戻すが、そもそも作家や哲学者が「難しい書き方」をするのは「あえて」そうしているわけではない。そのようにしか表現できないからそうしているだけなのだ。

 

 この事をわかっていない読者は自分が理解できない事に苛々として、「わかりやすく書いてくれ」と要求する。また「賢い人はわかりやすく説明できる」と言い切ったりする。最後までわからず、怒りが収まらない時は「こいつはあえて難解ぶってかっこつけているだけだ」と切り捨てる。

 

 これを理解できないものの嫉妬と考えるのは簡単だが、先に書いたように、こうした人達は実際には言葉というものによって事物をぴたりと指差す事ができると信じている。彼らはこれを文字通り信じている。

 

 私の経験では、言葉というものを意識していない人ほど、言葉にとらわれている。言葉という概念が事物をぴたりと指す事が可能だと彼らは考えている。しかし、世界のあらゆる物事が何故言葉というものによって正確に定義できると決まっているのだろうか。

 

 この事は画家との類推で考える事ができる。太陽は何色だろうか、と聞かれた時人はどう答えるか。赤か、黄色か、オレンジ色か。しかし本物の画家はなんと答えるだろうか。

 

 そもそも画家は死ぬまで風景を描き続けても飽きる事がない。その意味がわからない人は、そんな退屈な事をして何の意味があるのかと訝しがる。しかし画家にとって風景は、完璧に描く事が不可能な対象である。世界は、自然は画家にとって無限のものとして存在している。

 

 画家は世界を色や形で切り取る。切り取る方法は無限にある。彼は自然の真の相貌に近づこうとする。しかし真の相貌とは果たしてなんだろうか。

 

 絵の具をこねくりまわして自然と対峙する。画家が見ている自然は普通の人が見ている自然よりも遥かに豊かな存在である。この豊かさから無限に作品が生まれてくる。ある人はこの画家の天才に驚くかもしれない。しかし天才は先に自然の存在に驚いているのである。

 

 人々がちらりと見て通り過ぎていくだけのありきたりの風景、ありきたりの自然に対して画家は心の底から驚嘆しているのである。そこに画家の天才がある。しかし人にはそれが見えないから画家の「インスピレーション」や「技術」が素晴らしいと感じる。

 

 この事を言葉に置き換えてみよう。ある映画を見て「面白かった」と人が言う時、それはどのような感情なのだろうか。エンターテインメント作品と芸術的な作品を見て「面白かった」と言う時、「面白い」の意味は変わってくるだろう。

 

 自分の心、自分というものも本来は簡単な言葉では捉え得ないものである。優れた哲学者であるほどに、様々なものの語り難さに直面し、語る為に苦労する。それ故に言葉は屈折し、普通の言語とは違うものになっていく。ここに人々が「難解」と呼ぶ現象が現れる。

 

 一方で世界は簡単に語りうると楽観している人、そうした人の使う言葉は単純なものになる。また、その単純さに満足している。

 

 しかし言葉というものがいかに単純な概念として現れてきたとしても、世界そのものが単純な単語に呼応するものとは限っていない。単純な言葉による意味の分割は複雑な現実の前に破れていく。

 

 最近、特にそれを感じるのが、ネット保守のインテリが最初は仲良くまとまっていたものの、時間が経つにつれて内紛が起こり、分裂していく様子だ。彼らは敵方に単純なレッテルを貼り、味方にはその反対のレッテルを貼る。世界は綺麗に二分されている。

 

 だが、世界も、彼ら一人一人の存在も、彼らの言葉よりも遥かに複雑に、微妙な違いを形作っている。その違和が次第に単純なイデオロギー(概念による分割)を破壊し、彼ら相互の差異を露わにしていく。この事は、彼ら一人一人の存在は彼らの言葉よりも遥かに豊かで多様なものを含んでいた、という風にも言えるだろう。 

 

 単純な言葉で世界を切り取りたい人はこのようにして現実の複雑性に後退していかざるを得ない。なんとなくの同調や共感も次第にそれぞれの違いがはっきりとして、それぞれが自分の孤独に還っていくように思われる。しかし本当はそれぞれが孤独のうちに捉えた自己の豊かさのうちに他者との連帯があるはずだ。それは、言葉で言うならば「自己の語り得なさそのものを他者と共有する」という事になるだろう。

 

 優れた作家や哲学者は、語り得ないものに到達しようとして、通常の言語使用から逸脱し、屈折した言葉を使う。これが常人には「難解」と映る。

 

 だがこれらの人は世界のあり方に対して言葉という道具を使って究明しようとしているのである。この世界の語り得なさに対して、言葉という道具で迫っていこうとしている。この事を理解できない人は、これらの人は「あえて難しい言葉を使っている」と言う。

 

 実際はこれらの人は「あえて」難しい言葉を使っているわけではない。世界は簡単に語りうるという最初の安逸が嘘だと彼らは気づいてしまったのだ。だから、真に語り得るまで死ぬまで終わらない探索を続ける羽目になる。そうした事は面白いが同時に負担となるような人生行路であろう。

 

 繰り返し言うならこうした人達はあえて難しく書いているのではない。適切な書き方がそれしかないから、そう書いているだけだ。この事がわからない人は、これらの人が一体、何を言わんとしているか、わからないままであろう。

 

 こうした事がわからない人達は、自分の言葉を疑うというポイントにたどり着かない。彼らは概念によって正しい言語を紡ぎ続けるが、まさにその言語は言語という形で整合性が取れすぎているからこそ、現実という概念を超えた存在を捉える事ができない。こうした人達はこのような真実にたどり着く事はないだろう、と私は思う。もっとも、たどり着いたところで別段いい事はないのだが。

 

 ただ世界の豊かさと己の孤独さが身に沁みて、世界と自己が一つになるある表現を偶然的に生み出す事が可能かもしれない、そのような瞬間がふと向こうからやってくる、現れてくるのはせいぜいそのような事に過ぎない。



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