――第三章 引き金の重さ
夜は、来なかった。
太陽はすでに輪郭を失い、空は薄い灰色のまま固定されている。
時間という概念だけが、置き去りにされたようだった。
図書館の床に並んで座り、ユイは古い絵本をめくっていた。
文字はほとんど読めなくなっているが、絵だけは残っている。
「ねえ、これ」
彼女が指差す。
「最後、どうなったと思う?」
絵本の最後のページには、城と、二人の影だけが描かれていた。
結末は失われている。
「……わからない」
「そっか」
ユイは不満そうでもなく、ページを閉じた。
「でもさ、きっとどっちかだよね。
世界が助かったか、二人が助かったか」
胸の奥が、強く締め付けられる。
「どっちがいい?」
答えられるはずがない質問だった。
答えた瞬間、それは“選択”になる。
通信機が、短く鳴った。
「最終警告よ」
責任者の女の声だった。
感情を排した、いつもの調子。
だからこそ、重い。
「進行率九十八。これ以上遅れれば、逆転は不可能」
「……わかってる」
「なら、なぜ引かない」
問いではない。
断罪に近い。
「君は英雄になれるのよ。
たった一人を犠牲にして」
通信が切れる。
英雄。
その言葉は、空虚だった。
ユイは、僕の横顔を見ていた。
「ねえ」
「なんだ」
「私、死ぬのは怖いよ」
その声は、とても静かだった。
泣き声でも、震えでもない。
ただの事実の告白。
「でもね」
彼女は、少し間を置く。
「あなたが、そんな顔するくらいなら……
世界が終わっても、いいって思っちゃう」
その瞬間、頭の中で何かが切れた。
「そんなこと言うな」
強い声が出て、自分でも驚く。
「世界は……」
続きが、言えなかった。
世界は大事だ。
人類は続くべきだ。
論理は、何一つ揺らいでいない。
それなのに。
「ごめん」
ユイが、小さく言った。
「困らせたよね」
そう言って、彼女は立ち上がる。
瓦礫の向こうへ、数歩。
「ここでいいよ」
何が、とは言わなかった。
それでも、意味は明確だった。
「早くしたほうがいいでしょ。
私、逃げないから」
銃が、異様に重く感じる。
腕が、震える。
これが、世界を救う引き金。
何度も訓練で引いた。
何度も想定した。
でも、今は違う。
照準の向こうで、ユイがこちらを見ている。
怯えはある。
それでも、信じている目だった。
「……目、閉じろ」
「やだ」
即答だった。
「最後に、ちゃんと見たい」
世界のために死ぬ人間が、
こんなことを言っていいはずがない。
指に、力が入る。
引き金は、あと数ミリだ。
そのとき、床が大きく揺れた。
空間が歪み、壁に亀裂が走る。
〈崩壊〉の臨界反応。
時間が、尽きかけている。
「もう無理よ!」
通信機から、叫び声が聞こえた。
「今すぐ――」
僕は、銃を下ろした。
完全に。
迷いなく。
「……ごめん」
誰に向けた言葉かは、わからない。
ユイの目が、少し見開かれる。
「え……?」
「行くぞ」
彼女の手を掴む。
細くて、温かい。
「どこへ?」
「逃げる」
「でも、世界が……」
「それでもだ」
その瞬間、理解した。
これは躊躇じゃない。
衝動でもない。
――選択だ。
世界を救うための引き金を、
僕は自分の意思で捨てた。
背後で、空が大きく裂ける。
終末の音が、はっきりと聞こえた。
それでも、僕は走る。
君の手を、離さないために。




