――第一章 正しい選択
世界が、まだ終わっていなかった頃の話だ。
警報は、朝の七時ちょうどに鳴った。
目覚まし時計よりも正確で、感情の入り込む余地がない音だった。
「〈崩壊〉の進行率、臨界値を突破。対象の確保を最優先とする」
無機質な音声が、地下施設の天井から降り注ぐ。
何度も聞かされてきた文言だ。
それでも、今日は意味が違った。
「……行ってきます」
返事をしたのが誰に向けたものだったのか、カイ自身にもわからない。
管制室の向こうで忙しく動く研究員たちは、こちらを見ようともしなかった。
彼らにとって、これは“感情を挟む工程”ではない。
僕は、任務装備を身につけながら、最後の説明を受ける。
対象:ユイ。
年齢:十六歳。
居場所:旧第三区、崩壊域内部。
特記事項:人類の存続に必要な因子を保持。
そして、最後に必ず付け加えられる一文。
――対象の死亡をもって、〈崩壊〉は停止する。
「確認するけど」
背後から、低い声がした。
振り返ると、責任者の女が立っている。
疲労と理性だけで形作られたような顔だった。
「躊躇はしないわね?」
一瞬、言葉に詰まる。
正解は、もう決まっているはずなのに。
「……任務ですから」
それで十分だと、彼女は小さく頷いた。
誰もが同じ言葉を使う。
任務。正解。合理的判断。
そのどれもが、間違っていない。
地上へ続く昇降機が、軋みながら上昇を始める。
モニターに映る外の世界は、すでに色を失っていた。
空はひび割れたガラスのように歪み、遠くの建物は半分ほど消失している。
――あの中に、少女がいる。
世界を救うために、殺されるべき存在。
そう理解しているはずなのに、胸の奥が妙に静かだった。
恐怖でも、覚悟でもない。
ただ、現実味のない空白。
地上に出た瞬間、空気が変わった。
音が少ない。
生き物の気配が、ほとんどない。
瓦礫を踏み越えながら、指定された座標へ向かう。
途中、倒壊した建物の影で、小さな人影を見つけた。
――違う。
対象は、もっと奥だ。
そう思ったのに、足が止まる。
少女は、ひとりで座り込んでいた。
制服は汚れ、髪は乱れている。
だが、泣いてはいなかった。
「……だれ?」
声をかけられ、僕は無意識に銃を下ろした。
「迎えに来た」
それが嘘なのか、本当なのか、自分でもわからない。
少女――ユイは、ゆっくりと立ち上がり、こちらを見た。
怯えはある。
でも、それ以上に、どこか安心したような表情だった。
「よかった……。もう、誰も来ないかと思ってた」
胸の奥で、何かが軋む。
彼女は、世界を救う因子を持つ存在だ。
人類の未来と引き換えに、消えるべき命だ。
それが事実であることに、疑いはない。
それなのに。
「怪我は?」
口から出た言葉に、自分が一番驚いた。
「ちょっとだけ。でも平気」
そう言って、ユイは小さく笑った。
その笑顔は、終末の世界にはあまりにも不釣り合いだった。
通信機が震える。
「対象を確認した?」
管制の声だ。
「……確認しました」
「よし。すぐに実行して」
“実行”。
それは、引き金を引くという意味だ。
僕は銃を構え、ユイの胸元に照準を合わせる。
何度も訓練した動作。
一秒もかからない。
ユイは、僕を見上げて言った。
「大丈夫だよ」
その言葉に、理由はなかった。
状況を理解しているはずもない。
ただ、信じているだけだ。
――僕を。
指が、動かない。
世界を救うための正解は、ここにある。
引き金を引けばいい。
それだけで、人類は続く。
それでも。
「……少し、休もう」
自分でも理解できない言葉が、口をついて出た。
ユイは首をかしげ、それから、嬉しそうに頷いた。
「うん」
その瞬間、僕は知ってしまった。
これは、間違いの始まりだ。
正しさから、決定的に外れた一歩だ。
それでも――
この時の僕はまだ知らなかった。
この選択が、
世界よりも重い罪になることを。
そして同時に、
それでも選び続けてしまうほどの、
取り返しのつかない答えになることを。




