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熟れない吟遊詩人  作者: つにお


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6/7

内省の詩

 旅をしない吟遊詩人など、いるのであろうか。

 ともかく、詩人は、当分の間、老楽師の家に住まうことになった。それには、彼女の、詩人としての士気が格段に下がっていたことや、彼女の所持金が、すぐに底を尽きるであろうことがあったが、そうして、楽師の妻のほうは、あまり乗り気ではなかったようであったが、詩人の居候の申し出は、条件付きの及第であった。

 ある日の早朝、素朴ながらも暖を取ることができそうな服装で家の外に出た詩人は、努力しようとも防ぎきれない寒さの中で凍えながら、井戸の水を汲んでいた。

 詩人が宮廷に住んでいた頃の生活と比べると、その作業は大きな痛苦を伴うものであった。

 あの事件から3日が経ち、詩人が活力を取り戻す前に、彼女のジャングラが、その老楽師の手作業によって修繕され、間もなく、彼女の手に楽器が戻ってきた。彼女は、老楽師が家の中で作業をしている様子を、ほとんど見なかったので不思議に思った。なにしろ、彼は毎日、昼間に外出をしていたので、楽器の修繕の時間など、ごく僅かしか存在しないはずであった。

 彼女にとって、それは、驚くべき出来事であったのに相違ないが、そのときの彼女は、老楽師に、ちょこんと頭を下げ、礼を言ってはみたものの、実際のところ、あまり嬉しい気持ちにはならなかった。言ってしまえば、詩人は、楽師よりずっと手厳しい妻の手伝いをしているほうが、楽な気持ちさえしたのだった。

 詩人は次の日、妻に、お使いを頼まれた。詩人が、家から少し離れたところで、大通りまで出ると、そこには、詩人の目を引きつける光景が広がっていた。

 その人物を囲んでいた大勢の人々の隙間から見えた、薄い黄褐色の指、低く、落ち着いていて、慈悲に富んだ柔らかい声、間違いなく、あの老楽師の舞台であった。

 詩人は、急いで声のするほうに向かって走り出し、観客をかき分けて押し入ってみると、そこには、やはり、彼が居て、彼は椅子に腰を掛けながら、彼女が部屋で見つけたのと同じ弦楽器を緩やかに奏でていたのだった。

 通り過ぎていく人々から観客まで、その周囲の雰囲気は独特でありながら、同時に、皆が一体となっていくような調和と安らぎの空間になっていて、そのとき、初めて詩人は、詩吟という娯楽が持っている本来の魅力に感化され、自らが行ってきた努力の詩歌吟唱の、その非の打ちどころの核心的部分を突かれた。彼の歌声と演奏は、詩人のそれに比べれば、引けを取ってはいたものの、彼女の鼓膜に響いてくる旋律と歌謡とは鮮やかに呼応して、反響して、止まなかった。

 

 少女が、「霞の抄」の感想をタヅマエに伝えたときに、彼が言っていた。


タヅマエ

「そうか、それじゃあ、まだまだ半人前ですな」

少女

「どうしてですか」

タヅマエ

「それは…まあ、知る必要もないのかもしれませんな」


 この件を気になった彼女が、酒場で酔っていたカディウスに、真相を訪ねてみたときもあったが、結局、このとき、答えは、わからず終いであった。


 あのときの、タヅマエの真意が何であったのか、詩人には検討がつかなかったが、詩人は、今、この老楽師の詩を聴いて、今までに感じたことのない種類の進歩が、得られたように思えた。

 詩人が家に帰ると、彼の妻に、頼んだものをこちらに持ってきてくれと言われたが、全く、お使いのことなど、忘れ切ってしまっていた詩人は、妻の元に駆け寄って、必死に謝り、今から、もう一度行ってくると言った。しかし、妻は、その必要はないと言って、自分自身で外に歩き出ていってしまった。呆然としていると、追いつくように、老楽師が家に帰ってきた。

 彼が、そろそろ弾く気になったかと聞いてきたので、詩人は肯定の返事をし、すると、彼に、楽器を持ってこいと言われたので、すぐさま、彼女は、直ったばかりのジャングラを、彼の前に持ってきた。

 ジャングラを構えると、詩人は、何を(うた)えばよいのかが、すぐにわかった。今までの、詩に対する傲慢な姿勢、自分()がりな歌い方、そして、民衆に向けた、同情という名の軽蔑、詩人は、その全てを顧みて、自らの過ちを吟じた。

 その歌声は、嘗ての少女よりも拙く、詩人の幼い頃の経験が、全て泡となって消え去ってしまったかのような新鮮さを持ち合わせ、聴く者が、(うた)う者を、心の内側から太陽の心を以て応援してやりたくなるような、儚さと勇気の象徴を感じさせ、弦を弾くその指は、以前よりもずっと、ぎこちなく、見るものを不安にさせ、そうして、安らぎをもたらす恵みの雨のような優しさの旋律を奏で、それは、少女に本来より眠っていた才能の種が、(にわか)に芽吹くときであった。

 老楽師と、勝手に居た妻は、目を閉じて、その詩を聴いていた。

 戦慄(わなな)く唇と手汗にまみれた指先とが静止した。

 静寂が訪れ、詩人が、ようやく、目の前に注意を払ってみると、老楽師は、何かに頷いた様子を見せながら、ゆっくりと目を開けた。すると、勝手(かって)の方から、妻の声が、こちらを呼んでいるようだったので、詩人は、もう帰ってきていたのかと思いながら、勝手に向かってみることにした。

 妻は黙って、詩人に、一杯の温かい茶を出してやった。数日の間に、詩人は、老楽師の妻について、愛想がよくないどころか、意地の悪い人間という印象を抱いていたので、彼女の行動には、大きく拍子抜けさせられてしまった。しかし、その行動には、本物の労いと励ましの気持ちが込められていることを、詩人は、しっかりと受け取ったのであった。


 次の日、詩人は、快調な朝を迎えた。彼女は、過去の自分を受け入れ、そうして、それは、新しい人生の転換点でもあり、夜明けでもあった。

 彼女は、その日を以て、老楽師の住まいを去ることにした。妻のほうは、まだ泊まっていけばよいのにと、別れを惜しんでいる様子であったが、詩人の(たくま)しいのを確認すると、それ以上、彼女を引き留めようとすることはなかった。楽師のほうは、詩人の、あらぬ凶兆を、妙に神経質に憂いて、こちらもまた、彼女を思い留まらせようとしてみたが、詩人の決意は変わらなかった。

 出発の直前に、妻が、羽毛の羽織と、おむすびの入った折り詰めを手渡してくれた。詩人は、完全に、庶民の服装に着替えて、髪の毛も結い、その風貌は、昔の少女の姿とは大きく異なっていた。

 詩人は、一礼と、今までの感謝をすると、最後に、別れを告げ、二人の老夫婦の元を去っていった。

 二人は、旅立っていく若者と、その将来とを、ありったけの視力で見据えながら、少女の輪郭と、なびく髪とが、段々と丸くなり、やがて黒点となって消えていくまで、延々と手を振り続けたのだった。

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