黎明の詩
少女が16歳になった。その頃になっても、彼女の酒場通いは続いていたのであるが、その一連の様相は、過去と比べると、かなり異なっていた。
第一に、彼女は独りで通うようになっていた。彼女が、まだ金銭の扱い方さえ深く理解しないうちは、両親もタヅマエも、少女の単独行動を許可しなかったのであるが、何回も、タヅマエが勘定する様子を観察するうちに、彼女も、その方法を覚え、更に、少女の年齢が大人相応になったことで、例の酒場以外の場所には行かないことを前提に、独りでの外出を許された。
第二に、これは、独りの外出が始まってから、もう少し経ったあたりのことであるが、彼女は楽器に興味を持ち始めた。きっかけは、同じく酒場に入り浸っていた、ある演奏家の影響である。名は、カディウスといい、彼はいつも、酒場の定席にて、チェロという、かなり大きな弦楽器を弾いて、嗜好に浸っていたのであるが、それは、彼の演奏を支持する聴衆どもに関しても、同じことであって、その中には、少女も含まれていた。
ある日、少女が無邪気な好奇心をはたらかせて、カディウスに、楽器の試奏をせがんだところ、彼は、その依頼を快諾し、そこで、彼女は、徐ろに弦を弾いてみたのであるが、経験のない者に演奏などできるはずがなく、ひどい金切り音を店内に響かせてしまい、周囲の客の笑いの種になったのであるが、それこそが、彼女が初めて楽器に触れた機会であり、そのときの熱意というのも、当日のうちに、タヅマエに、チェロを買って欲しいと頼み込む始末であり、しかし、その弦楽器の巨大が、少女にとっては不便であることが、彼には想像がついたので、少女に頃合いの品を見つけたら、ぜひ、購入してやろうと言って、その日の出来事は終わった。
そして、それから数週間後、遂に、ジャングラという名前の小さな弦楽器が少女の元に届けられたのであった。その当時、少女は14歳であった。
彼女に数年ぶりの没頭が訪れ、それは独学ではあったものの、彼女は、明くる日も明くる日も、昼夜を問わずに楽器の練習を続け、度々、夜中の騒音を理由に、叱りを受けたこともあったが、順調に腕前を上げていき、とうとう、酒場の客の前で、詩の弾き語りを披露できるまでに至った。ときたま、カディウスのチェロと二重奏を組んだりもした。
楽器を持ってからというもの、彼女の日常は薔薇色の如く彩られ、新鮮で、飽きることがない流行に包まれたのであるが、ところで、タヅマエのほうは、彼女の浮足立っている様子には、不感心と狼狽とを堪えきれなかった。
少女が10歳の頃の夢であった、「霞の抄」についてであるが、ある日、タヅマエが彼女に、その本の感想を求めてみたとき、彼女は、あの日以来、本を開いていなかったので、読んでいないと答えると、彼は、せっかく買ってあげたのだから読んでみなさいと返事をして、いったい、彼女は気が進まなかったわけであるが、彼へ対する面目の一助があってか、のんびりではあったが、日毎に少しずつ進捗を更新し、彼女が14歳になった頃に、やっと、その全部を読破した。
この長い期間を要した根本の原因は、まさに、内容の解釈困難であった。言葉たちの意味が理解できなかったわけではない。ただ、その作者どもの世界観というものが、全然に想像できず、卑小な張りぼてのように思えて仕方がなく、その上、その本を読んでいるときにばかり、自身の、詩に対する創造力の不足と、その強調とが強迫せられ、不安と焦燥とが彼女を襲ったのである。それは、少女が、本の最後の頁を読み終える、その日まで続いた。
結局、彼女は、その本に対して、不穏と哀感とを感じただけであり、その時分に得た何かは、一切としてなかった。そして、タヅマエにも、その旨のみを伝えて、この件は落着したのであるが、このときから、彼は、彼女に対する由々しき事象と、その前兆とを感じていたのである。
少女がもうすぐ17歳の誕生月を迎えるとみえた頃のある日、その日は底冷えの酷い日であった。彼女がジャングラを背負って、酒場から宮廷に帰ってきて、一段落をついたとき、なにやら、何事かでもあった感じの様子で、彼女の母親がやってきて、恐ろしい目つきと声色で、明日から、この屋敷を出ていけと言ってきた。母親の後ろには父親も立っていて、こちらもまた、愚物を見るような目で、少女を睨んでいた。
その頃の彼女の生活は、見るに堪えないものというほどではないまでも、清楚というには、十分に語弊があった。いつから、どれくらい飲んでいたのか定かではないが、近頃の少女は飲酒をしていたようで、それの最初に感づいたのはタヅマエであったのだが、勿論、彼は、彼女に厳重に注意をしたものの、一向に、彼女の素行がよくなる気配がなく、彼が、どうしたものかと考えあぐねているうちに、彼女の両親も、そのことに気づき、両親からみた彼女の理想像というのは、勤勉で優等な、才能のある人間であったことが余計に起因して、両親は大きく落胆したものだった。
彼女の悪態の大部分は、タヅマエの教育が原因である、ということになったのであるが、そして、それ以来、タヅマエが、少女の教育係の、といって、彼女のタヅマエへの師事の時間が微量になっていた事実はあれども、当然、その教育係の除名を命じられてしまい、結局、彼女が飲酒をして帰って来ることはなくなったまでも、少女に対する両親の信頼は、有り体に、著しく損なわれてしまい、結果として、両親の、彼女に対する態度の変化が、此度の大事件を招いたわけであった。
疑念を抱いた両親が、娘が他にも問題をしでかしているのではないかと思い立って、彼女の外出中に、宮廷内の彼女の部屋に赴き、部屋の散策をしてみると、そこには「霞の抄」という民間の詩歌集が隠してあり、そこで、完全に両親の娘への愛想が尽きてしまったようであった。
彼女が泣いて謝っても、両親は許してくれなかった。そうして、翌日、彼女は本当に住まいを追い出される幕引きとなってしまった。
少女が酷な通達を受けた当日のこと、全く、彼女は部屋の真ん中で、呆然と虚無とに支配せられてしまっていたわけであるが、そんな彼女の元へ、タヅマエがやってきた。
彼は少女に言葉をかけることはなかった。所有していた少ない金銭のほとんど、到底、彼女の人生が安泰といえるような金額ではなかったが、彼は、その全てを入れた包みを手渡してやった。そうして、彼は俯く少女に多大な心配と後悔とを感じながら、部屋を去る前に扉の側で小さく呟いたようであったが、何と言ったか、少女の耳には届いてはいなかった。
その日の夜が明けた。彼女は身支度を整え、タヅマエから貰った包みとジャングラを背負うと、自身の部屋を後にした。そのまま彼女は、両親の部屋まで出向き、今までの礼を告げた後、前日に訪ねてきたときに伝えるべきであったタヅマエへの礼をするために、彼の部屋へ向かった。
しかし、彼は部屋には居なく、周囲にも彼の気配がなかったので、少女は、もう出発の準備をする他なかった。きっと、彼女は色々の今までの礼を伝えたかったに違いない、出発の直前になっても見送りに来ないタヅマエのことを想って、長らく、まごまごとしていたのであるが、結局、彼は彼女の前に現れることはなく、彼女は、割合に大きな荷物を携えて宮廷を後にしたのだった。
遂に、完全な破門によって孤独の身となった少女の気持ちというのは、それは昨日の、泣きついた末の希望が、絶たれてしまった瞬間の衝撃と比較してしまえば、寧ろ、反対に澄んでいて、心地のよいものであった。ただ、師範のことだけが心残りではあったが、私が前を向かなくては彼自身が報われないという想いによって、少女の気力は、一層に回復していったのであった。
気を取り直した少女は、例の酒場のほうへ向かっていった。道を歩いている途中、今後のことを考えてみたりした結果、自分には詩しか残されていないと強く自覚し、そうこうしているうちに目的地に辿り着いていた。
徐に扉を開くと、彼女は、いつもとなんら変わらない様子で店主と挨拶を交わし、カディウスのもとに歩み寄った。彼はいつもの調子で彼女に挨拶をすると、彼女の僅かな取り繕いには、一切、感づくことなく、今日も二重奏を組もうと言い出した。彼女は、その申し出を軽い調子で辞退すると、唐突に話題を変えた。
少女
「カディウスさん、実は私、今日から詩で生きていこうと思うの。でも、どうしたらいいのかわからなくて…」
カディウス
「そうか!それは殊勝な心がけだな!それじゃあ、お祝いに一杯どうだ?今日くらい呑んだって文句なんざ言われないさ」
彼は、その酒場では一番の酒呑みで、毎日のように朝から酒をあおっているような男であった。何か今後に役立ちそうな革新的な知らせに、一縷の期待を寄せた少女であったが、そんなものは彼からは引き出せそうにないことが早々にわかってしまい、彼女は返事をすることもなく黙り込んでしまった。
少女の様子を数秒眺めてみて、カディウスは、ようやっとのことで彼女の異変に気づいたのか、少しだけ真面目になったようであった。
彼が酒場にて、彼女の初めてのチェロを聴いたとき、彼は、彼女は立派な歌い手にはなるかもしれないが、優れた演奏家になることはないだろうと思っていた。しかし、どうしたことであろう、少女はみるみるうちに上達してしまい、終いには、彼と肩を並べるほどにまでなっていた。日毎に、演奏の質を上げていく少女の様子を目の当たりにし、彼の中の、彼女に対する心象も、それと息を合わせるように変貌していったのであろう、彼の想像する少女の将来は、才能と称賛に溢れる芸術家のそれと表現する以外に形容し難いものであった。
どう考えても失敗のしようがない、勝者の人生を、彼は密かに羨んでいた。そうして、彼は日頃から、彼女と定期的な演奏ができることを喜んでいた。同時に、彼女を、この豪勢で狭い世界に閉じ込めておくのは、とても惜しいことであり、彼女にとっての最大の不幸であるに違いないと確信していたのであった。
そうして、彼女が今日になって決心を固めたのを確認して、カディウスは、その口達者をもう一度披露し始めた。
カディウス
「お嬢ちゃん、詩と楽器どっちがやりたい?」
少女
「だから、今日は詩を披露しに来たんじゃないの」
カディウス
「違う違う、詩と楽器、どっちで生きていきたいかって聞いてんだ」
少女
「それは…どっちもやりたいけど」
カディウス
「そうこなくっちゃな!」
威勢の悪い彼女の返事に臆することなく、カディウスは半ば強引に舵を切った。
カディウス
「嬢ちゃん、吟遊詩人にならないか?」




