第1章 歪んだスペック
郷田元が信じる神は、ただひとつ「構造力学」だった。
物理法則は裏切らない。嘘もつかなければ、忖度もしない。
だが、その日、神は沈黙した。
「――ケンジッ!!」
生コンクリートと排気の匂いが充満するトンネル内に、重機の警告音ではない、生身の人間の絶叫が響き渡った。
郷田の日常は、「数字」で構築されている。
コンクリートの配合比率、ロックボルトを打ち込む間隔、鉄筋の直径。それらすべてが「スペック(仕様)」通りであること。それが郷田の正義であり、現場の安全を守る唯一絶対のルールだった。
「元さん、ここの地質、ボーリング調査のデータより脆いっす」
ヘルメットのシールドに泥を跳ねさせた若手、ケンジが不安げに報告する。
「だろうな。だが、スペックは絶対だ。指定通りの本数を、指定通りの深さで打て。安全係数が足りなくなったら、そん時は俺が上とやり合う」
安全係数。それは、構造物が設計上の想定をどれだけ超える力まで耐えられるかを示す余裕の値だ。例えば、100の力に耐えられればいい橋も、実際には150や200の力に耐えられるよう設計される。この「余裕」こそが、予測不能な自然や、人間の小さなミスを飲み込み、人命を守る最後の砦だった。
郷田は、ケンジが指差す支保工――トンネルの天井を支える骨組み――に、メジャーを当てた。
「……おかしい」
「え?」
「いや、なんでもない。とにかく、測量チームの墨出し(印)通りに掘れ。焦るな。絶対に焦るなよ」
郷田の無骨な指が、図面の上の数字を強くこする。指定された資材の強度が、彼の経験則よりわずかに低い。だが、許容範囲内ではある。
(……だが、この「わずかな差」は、誰が決めた? 上か? それとも、さらにその上か?)
その時だった。
甲高い金属の軋む音。天井からパラパラと落ちてきた小さな石片が、次の瞬間、滝のような土砂崩れに変わった。
「退避しろォッ!」
郷田が突き飛ばしたケンジは、しかし、足元の資材に躓いた。
轟音。
粉塵が舞い上がり、すべてを白く塗りつぶす。
郷田が信じていた「構造」が、彼の目の前で牙を剥いた。
数分後、粉塵が晴れた先にあったのは、不自然に歪んだ鉄骨の残骸と、そこに飲み込まれたヘルメットの、鮮やかな緑色だった。
郷田が信じた神が沈黙したあの日から、彼の日常は「なぜだ?」という答えのない問いに塗りつぶされた。




