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猫が教えてくれたこと

ねこちゃんが来てくれる話し。ねこちゃんのおかげで生活を取り戻すお話です。

 その日も、私はひとりで窓の外を眺めていた。

 何をするでもなく、ただ時間の流れに身を預けて。カーテン越しに届く冬の光は、乾いた白で、部屋の隅々まで染み込んでいた。ストーブのつけっぱなしの部屋には、煮詰まったような温もりだけが漂っていて、息を吐くたび、何かが剥がれていくような気がした。


 ふと、窓の向こうに動く気配があった。

 視線をやると、小さな影がフェンスの向こうから、私を見上げていた。

 ――猫だった。まだ子猫。灰色と白の混じった、毛のふわふわした小さな体。


 目が合った。

 その瞬間、心臓がひとつ脈を打つ音が、妙に大きく耳の奥に響いた。

 あの子に似ていたわけではない。けれど、その目の奥にある何かが――静かで、懐かしくて、胸を少しだけ押されたような気がした。


 私は窓を少しだけ開けてみた。冷たい空気が、部屋の中の空気を切るように入り込んでくる。それでも子猫は逃げなかった。ただ、じっとこちらを見ていた。


 「……寒いのに、何してるの」

 思わず声に出した自分に驚いた。

 誰かに話しかけるなんて、何日ぶりだろう。


 子猫は答えない。ただ、しっぽをくるんと足元に巻いて、まるでそこが自分の場所だと言わんばかりに落ち着いていた。


 私はゆっくりと立ち上がり、台所へ向かった。戸棚の奥にあった煮干しを小皿に盛る。窓を少しだけ広く開けて、そっと外に置いた。

 子猫は一歩、また一歩と近づき、小皿のにおいを嗅ぐと、警戒することもなく食べ始めた。その食べ方も、どこか上品だった。


 私は窓辺に腰を下ろし、ぼんやりとその様子を見つめた。

 ただそれだけのことが、胸の奥に微かな灯りをともした。


 ***


 陽翔はるとがいなくなって、もう一年が経つ。

 時間が経てば、痛みはやわらぐと誰かが言っていた。でもそれは嘘だった。痛みは薄くなるのではなく、ただ生活の奥深くに沈んで、言葉では届かない場所に棲みついただけだ。


 あの日も、今日と同じように少し寒くて、風が強かった。

 小さな手を引いて、信号を渡る途中だった。

 何が起きたのかは、今でもはっきり思い出せない。ただ、靴が片方転がっていたこと、誰かの叫び声が遠くに聞こえたこと、それだけが脳裏に焼きついている。


 夫とはそのあと、自然に口をきかなくなった。

 一緒に暮らしていても、同じ空間にいるのが苦しくて、結局離婚届を出した。

 仕事も辞めた。朝起きる意味も、夜眠る意味も見つけられなくなった。


 そして今、こうして、何もない部屋で、ただ日々を流している。


 そんな日々のなかで、あの子猫が現れた。


 ***


 次の日も、子猫はやってきた。

 同じ時間に、同じ場所に。まるで、私の生活の中に予定された存在のように。

 また缶詰を開けて小皿に盛り、窓の外に置いた。子猫は小さく「にゃ」と鳴いてから、ゆっくりと食べ始めた。昨日よりも少しだけ、私に近い位置で。


 その姿を見ていると、ほんの少しだけ、部屋の空気が動くのを感じた。

 まるで、閉ざされていた窓の向こうから、春の匂いがかすかに流れ込んできたような――そんな錯覚。


 名前をつけようか、と思ったけれど、やめた。

 それは、何かを決めてしまうことのようで、まだ心の準備ができなかった。


 それでも、確かに思った。

 この子は、どこかから私の元へやってきた。

 誰かが、私の元へ送り出してくれたような、そんな気がした。


----------


 その日も子猫はやってきた。

 朝でも夜でもない、昼下がりのやけに静かな時間。あの子は、決まって同じ頃に現れる。


 私はもう、えさの缶詰のストックを常備するようになっていた。

 それを自分で意識するたびに、少しだけ可笑しくなる。何も変えたくなかった私が、誰かのために何かを「準備」している。


 子猫は今日も、私の足元まで近づいてきた。

 最初の頃の距離感はすっかり消え、今では小さな体を私の膝に預けてくることさえある。


 「……甘えん坊なんだね」

 そう言いながら、私は指先で小さな耳の裏を撫でる。そのたびに、子猫は目を細めて喉を鳴らす。くぐもった、小さなエンジン音みたいな音。


 そういえば、陽翔もこんなふうに甘えてきた。

 お風呂あがり、ドライヤーをかけながらくすぐると、「やめてよ〜」なんて笑いながらも、くすぐったそうに身を縮めた。


 思い出そうとしなければ、思い出さずに済むと思っていた。

 でも、猫の柔らかな毛に触れていると、指が憶えていた感触が蘇る。

 陽翔の髪の手触り。湯上がりの石けんの香り。パジャマの生地の模様。


 小さな命が、私の暮らしの中に入り込んできた。

 たった一匹の野良猫が、こんなにも私の時間を揺るがせるなんて。


 ***


 数日前、猫に首輪を買ってやった。

 ペットショップに入るのは、いつぶりだっただろう。

 猫用のガムやおもちゃが並ぶ売り場の横に、小さな首輪が並んでいた。


 私は落ち着いた赤茶のものをひとつ選んだ。

 装飾は控えめで、小さな鈴がひとつ、音を立てない程度にぶら下がっていた。


 「名前、どうしようか」


 そう声に出してみたけれど、答えは返ってこない。

 やっぱり、まだ名前はつけたくなかった。


 首輪をつけると、猫は少し首を振って鈴の音を確かめるようにした。

 ちりん、という小さな音が、部屋の空気の中に溶けていく。


 それは、風鈴の音にも似ていた。夏の終わり、陽翔と団地のベランダで聞いたあの音。

 あの頃の私は、まだ笑っていた。まだ未来というものを信じていた。


 猫は嫌がる様子もなく、首輪を受け入れた。

 そして私の膝の上にのぼり、静かに丸くなった。

 その鈴の音が、私の胸の奥で、確かに何かを揺らしていた。


 ***


 数日後、子猫はいつもと違う動きを見せた。

 小皿の餌を食べ終えると、窓の外にちょこんと座り、私の方を振り返った。


 「……どうしたの?」


 そう言うと、子猫はゆっくり立ち上がり、フェンスの向こうへと歩き出した。

 一歩進んでは振り返り、また一歩。

 私は靴を履き、思わずその後を追っていた。


 道にはまだ、冬の風が残っていた。けれど陽射しは柔らかく、コートの裾をひらりと揺らすだけの優しい風だった。


 子猫は住宅街の細い路地をぬうように進み、小さな坂道を上っていった。

 この道には見覚えがある。

 けれど、その理由には、まだ気づきたくなかった。


 しばらく歩くと、視界の向こうにそれは見えてきた。


 公園だった。

 鉄棒やすべり台のある、小さな児童公園。ベンチは古く、木製の柵は少し傾いていた。


 陽翔と、何度も来た場所。


 私は立ち止まり、息をのんだ。

 目の奥がじわりと熱くなり、膝の力が抜けそうになった。


 子猫は何も言わない。ただブランコの方へ歩き、くるりとこちらを見た。

 そこは、陽翔がいつも座っていた場所だった。

 ブランコの鎖が、風に揺れて小さく軋んだ音を立てる。


 「……陽翔……」


 口に出してみると、その名はあまりにも優しく、そして遠かった。

 私はそっとベンチに腰を下ろした。指先が震えていた。


 ふと、公園の反対側に、小さな子どもを連れた女性の姿が見えた。

 私と目が合うと、彼女は柔らかく会釈してくれた。

 ほんの小さなやりとりだったのに、なぜか涙が溢れた。


 こんな場所に、また来られる日があるなんて。

 私はもう二度と、ここに足を踏み入れないと思っていた。

 でも、私は今、ここにいる。


 風が吹いた。枯れ葉が地面を這い、子猫の足元をかすめた。

 猫は動じることもなく、ただじっと私の方を見ていた。


 その目の奥に、確かに、あの子の眼差しを見た気がした。

 私の心がそう感じただけかもしれない。

 けれどそれでも、十分だった。


 私はその場に、そっと涙を置いた。


----------


 あの子が、いなくなった。

 鈴の音も、足音も、窓辺に小さく座る影も。


 近頃は、たいていは家の周囲にいて。入りたいときは窓をカリカリ。

 出たいときも窓をカリカリ。出入り自由になっていた。

 だけど今日は姿が、見えない。そして次の日も、次の日も。


 心が急に、空っぽになったようだった。

 また、失ってしまったのかもしれない――そんな声が、どこかから響いてくる。

 「もう誰とも関わらなくていい」と思っていたはずなのに、気づけば、私は不安に押しつぶされそうになっていた。


 赤い首輪のことを思い出した。

 あの小さな鈴の音。風の中で、微かに揺れていた音が、今はどこにもない。


 私は、コートを羽織って外に出た。


 ***


 近所の道を、ぐるぐると回った。

 猫が通りそうな裏路地や公園の周り。あの子と出会ったフェンスの下も、覗いてみた。


 だけど、いない。


 気がつけば、私は昔よく通っていた道を歩いていた。

 陽翔の小さな手を引いて、ふたりで毎週のように向かっていた場所。


 ――子ども食堂。


 古びた建物の前に、人影が見えた。


 いた。


 猫だった。

 私の子猫。赤い首輪の、あの子。


 玄関のマットの上で、ちょこんと座っていた。

 ドアが開くと、そのすき間から人が出てきた。エプロン姿の女性。優しげな目元で、猫の頭をそっと撫でた。


 「おや、この子、また来てたのね」

 私に気づいた彼女が微笑んだ。「こんにちは」


 私は、喉が詰まって声が出せなかった。ただ、うなずいた。


 子猫は私を見ると、「にゃあ」と小さく鳴いた。

 まるで、「ここだよ」と言っているみたいに。


 私は、歩み寄って、その体をそっと抱き上げた。

 毛がふわりと揺れて、あたたかかった。

 胸の奥にあった冷たい穴が、ほんの少しだけ埋まった気がした。


 「よく来るの? この子」

 ようやく声が出せた。


 「うん、時々ね。ここ、好きみたい」

 女性はそう言って、食堂の中を指さした。

 「よかったら、見ていく? 今日はカレーよ。子どもも大人も、誰でも歓迎だから」


 断る理由が、見つからなかった。


 ***


 久しぶりに入った、あの場所。

 陽翔と一緒に来ていた頃と、ほとんど変わっていなかった。

 長テーブルに並ぶ紙コップと子ども用のスプーン。壁には子どもたちが描いた絵が貼られ、カレーの匂いが漂っている。


 「こんにちは」

 「猫ちゃんかわいいね」

 「お姉さんも食べていく?」


 次々に声をかけられた。

 こんなふうに、人から話しかけられるのは、いつぶりだっただろう。


 あの子――猫は、子どもたちの間をすり抜けて歩き、誰かの足元に座って体をすりよせる。

 笑い声が起きる。子どもたちは、喜んで猫を撫でた。


 私はその様子を、少し離れた席から眺めていた。

 涙が出そうだったけれど、泣かなかった。


 あの子は、ここに導いてくれた。

 この場所に、もう一度私を連れてきてくれた。


 その夜、私は子猫に言った。


 「ありがとう」


 猫は答えなかったけれど、静かに喉を鳴らした。


----------


 鈴の音が聞こえない窓辺に、私は立ち尽くしていた。

 猫がいない朝は、こんなにも静かだっただろうか。


 昨日の夕方、ふとした瞬間に胸騒ぎがして、外に出た。

 近所の通りで、車のクラクション。人のざわめき。


 小さな体が、道路の真ん中に倒れていた。


 そのときの記憶は、ところどころが霞んでいる。

 ただ、駆け寄った私の手に、かすかに震える命の重さがあった。

 鳴かなかった。鈴も、もう鳴っていなかった。


 私はすぐに動物病院へ向かった。

 スタッフの方は素早く応急処置を施し、静かに手術の説明をしてくれた。


 「まだ若い猫です。助かる可能性はあります」

 けれどそれは、“絶対”ではない言葉だった。


 待合室の椅子に座りながら、私はただ祈っていた。

 誰に、何を、ということもわからないまま、無言で、心の奥をぎゅっと結びながら。


 あの日のようだった。

 陽翔が運ばれた病院で、名前を何度も呼び続けた、あの夜のように。


 けれど今回は、私は泣かなかった。

 泣いてしまったら、またすべてを失ってしまうような気がして。


 ***


 手術は長くかかった。

 医師が戻ってきたとき、私は立ち上がるのがやっとだった。


 「手術は、無事終わりました。今は麻酔が効いていますが、様子を見ましょう」

 その声に、私は何度も頭を下げた。何を言っていいのかわからず、ただ感謝だけを繰り返した。


 術後の猫は、小さな体のあちこちに包帯を巻かれ、毛も剃られていた。

 呼吸のリズムがモニターに表示されている。


 私はそっと、ケージ越しにその姿を見つめた。

 毛が剃られた左脇――そこに、見覚えのある“あざ”があった。


 薄く、けれど確かに、模様が肌に浮かんでいる。

 それは、陽翔が生まれたときから持っていた、三日月のようなあざと、同じ形だった。


 涙が、一筋、頬を伝った。

 私は目を閉じた。心の奥に、ひとつの確信が落ちてくるのを感じた。


 ――この子は、陽翔だ。


 科学や理屈じゃない。

 だけど、私はわかる。母親の感覚で。


 「また私のところに来てくれたの……?」


 答えはなかった。でも、呼吸のリズムが少しだけ強くなったような気がした。


 ***


 それから数日後、様子を見に行くと猫はゆっくりと目を開けた。

 目が合った瞬間、胸の奥が熱くなった。


 私はそっと語りかけた。

 「おかえり」


 小さく、喉が鳴った。


 私は、笑った。泣きながら、笑った。


 ***


 春が近づいていた。

 子ども食堂では、桜の壁飾りを子どもたちが作っている。私は、週に何度かここで手伝うようになった。


 子猫は――もう、猫と呼ぶには少し大きくなったけれど――食堂の人気者になっていた。

 新しい首輪には、以前と同じ赤い鈴がついている。ちりん、という音が響くたびに、私は胸の奥が温かくなるのを感じていた。


 私の生活は、少しずつ、前に動いている。

 それでも、心の奥に陽翔の存在が消えることはない。

 でもそれは、もう痛みではなく、寄り添ってくれる“ぬくもり”になっていた。


 「行こうか」

 私は猫に声をかける。猫は窓辺から振り返り、しっぽを立てて答えた。


 今日も、少し風が強い。けれど光は優しく、道の先には桜のつぼみがふくらんでいた。


 私は、今日も窓を開けている。

 あの鈴の音とともに、世界の光がもう一度入ってくるように。

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