雨の日に失われたものと 贈り物
交通事故で家族を失って、でもまた幸せがやってくるようなそんな話にしたかったです。
雨だった。
病室の窓を細かく打つ音が、頭の奥に響いていた。モニターの規則的な音が、それに重なるように鳴っている。
坂井恵はベッドの上で身を起こし、ぼんやりと雨の筋を追っていた。病室は薄暗く、雨のせいか昼間でも外は白くけぶっている。
隣のベッドは空っぽだった。
事故の記憶は、断片的にしかなかった。ブレーキ音、衝撃、そして…夫の名前を呼ぶ自分の声。
その時、カーテンの向こうから足音が近づいた。
病室に入ってきたのは、担当の医師と看護師だった。何か言いにくそうな表情が、すでに答えを語っていた。
「ご主人ですが……搬送時、すでに心肺停止の状態でした。蘇生は試みましたが……」
それ以上の言葉は聞こえなかった。頭の中で、遠くから自分の心臓の音だけが響いていた。恵は、まるで床が抜けたような感覚の中で、シーツの上に手を落とした。
***
数時間後、恵は車椅子に乗せられて病院のロビーに移された。身体の傷は軽かったが、精神的なショックから立ち上がるには時間が必要だった。
そのロビーの一角で、小さな騒ぎが起きていた。
「だって、うちにはもう孫が二人いて、これ以上は……」
「いや、こっちも生活があるんだから! 無理に決まってるだろ!」
声のする方を見ると、数人の大人たちが円を作って話していた。その中央、ソファの端にぽつんと座っていたのが、彼女――**神谷凛**だった。
恵は直感的に、それがもう一台の車に乗っていた家族の少女だとわかった。小柄な体を縮こませ、包帯の巻かれた腕を抱くようにして座っている。誰の言葉にも反応せず、ただ、足元をじっと見ていた。
「事故の加害者側の……あの方の車だったそうよ」
親戚の誰かが小声で言ったのが、聞こえてしまった。
恵は顔を伏せた。
――私の夫が運転していた。スリップして、反対車線にはみ出して……。
あの子の両親と弟を奪ってしまったのは、私たちの車だ。
重たい息を一つ吐いて、恵はスタッフに頼んで凛の近くまで車椅子を寄せた。
「神谷さん……じゃなくて……凛ちゃん、だよね?」
少女はほんの少しだけ顔を上げたが、すぐに目をそらした。
「あなたのこと、ちゃんと知っておきたくて……。あの、勝手なことかもしれないけど、もし……引き取ることができるなら、私が――」
「えっ?」
声にならない声が、誰かの喉の奥から漏れた。周囲の親戚たちが一斉に振り返った。
「責任は、私にもあると思うんです。…いえ、責任だけじゃない。ただ……放っておけなくて」
恵の言葉に、誰も返事をしなかった。ただ、静かな沈黙だけが降りた。
***
その日のうちに退院することになった。病院を出る前、恵は病院の相談員に自分の連絡先を書いた紙を渡しながら言った。
「今日のところは、何も決まらなくて構いません。ただ……彼女に居場所が必要になったとき、思い出してもらえれば」
紙を受け取った職員が、少しだけ微笑んだ。恵は雨のなか、誰も待っていない家に帰っていった。
***
それから、一ヶ月が過ぎた。
雨の季節が終わり、梅雨明けを知らせる蝉の声がどこからか聞こえてくる頃、一本の電話がかかってきた。
「坂井さん。以前、神谷凛さんの件でご相談いただいていた件ですが……」
行政職員の声は落ち着いていたが、慎重な響きがあった。
「ご本人も、あなたのことを“怖くはない”と話してくれました。親族側とも調整が済みました。もし、まだお気持ちが変わっていなければ――迎えに来ていただけますか?」
受話器を持つ手が、微かに震えた。
恵は静かに答えた。
「はい。行きます」
***
それからの日々は、まるで霧の中を歩くようだった。
二人は同じ家に住み、同じテーブルで食事をし、同じテレビを見て、同じ季節を越えていった。けれど、心が同じ場所にあるとは、まだ言えなかった。
ある日、夕食の席で恵が言った。
「…お母さん、って呼ばなくていいからね。無理にそうしなくて大丈夫」
凛は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに視線を落とした。
「はい」
その声は、まるで傷口にガーゼをそっと乗せるような静けさだった。
***
ランドセルは、まっさらだった。
濃い赤色の革はまだ硬く、金具の部分には保護フィルムが残っている。店員が丁寧に包んで渡してくれたその鞄を、凛は小さくうなずいて受け取った。
「ありがとう」
そう言った凛の顔には、はっきりと笑みが浮かんでいた。
けれど、恵にはその笑顔が少しだけ作り物に見えた。
新しいランドセルを背負って、凛は小学校の高学年に編入した。
母親ではない女の人が買ってくれた鞄――それはとてもきれいで、特別で、大切にしたいものだった。だけど心の奥では、
「これ、本当はママが選んでくれたものだったらな」
という思いが、消えずに燻っていた。
それでも凛は、それを恵には言わなかった。ただ、「ありがとう」と言って、少し頬を上げて見せた。
恵は、夫を亡くしてから生活のすべてが変わった。
もともと得意だった料理の腕を活かして、駅近くのレストランで厨房のパートに出るようになった。朝は凛の支度を手伝い、帰ってくるのは夕方遅く。立ち仕事で体力は使うし、収入も決して多くはなかった。
けれど、凛にだけは不自由な思いをさせまいと、ギリギリの収入のなかで工夫を凝らしていた。朝食のパンにはちょっとした飾り切りのフルーツ。帰宅後には必ず一緒に「今日あったこと」を聞く時間。
そうした努力が、ほんの少しずつ、凛の表情をやわらげていった。
ある週末、恵が唐突に言った。
「今日は一緒に晩ごはん作ってみる? 手伝ってくれる?」
凛は目を丸くしてから、小さくうなずいた。
「……うん」
その日のメニューは、コロッケだった。じゃがいもの皮を剥く凛の手つきは拙かったが、真剣そのもので、恵は思わず微笑んだ。
「こっち、つぶしていい?」
「うん、熱いから気をつけてね。こうやって布巾の上から潰すと楽よ」
「へえ…すごいね」
「すごくはないけど、覚えるだけよ」
そう言って笑う恵の横顔を、凛は少しだけ長く見つめた。
――この人は、私をちゃんと見てくれてる。
そう思いたい気持ちと、
――でも、私のママじゃない。
という事実の間で、心が揺れていた。
中学生になってから、凛の「違和感」は静かに膨らんでいった。
例えば、お弁当の味。料理は上手なのに、どこか自分の「家庭の味」とは違って感じられる。友達と「お母さんの味」の話をしていると、自分だけが何か違う気がした。
「今日もコロッケ?」
そんなひとことが、うっかり口をついて出てしまうと、恵は「ごめんね、飽きちゃったかな」と申し訳なさそうに笑う。
そうやっていつも、先に譲ってしまう恵を、凛は「やさしい」と思う一方で、「ちがう」とも感じていた。
運動会、三者面談、部活の見学――
恵は忙しいなかでも行事には顔を出してくれた。けれど、他の親たちと話す姿はどこか緊張していて、「母親らしさ」よりも「保護者としての義務」を果たそうとしているように見えた。
ある夜、恵が唐突に言った。
「今日、お店であなたが好きそうな柄の靴下、見つけたんだけど……ちょっと派手すぎるかな?」
凛はテレビを見ながら答えた。
「……好きな柄なんて、言ったことないけど」
恵の手が、そっと膝の上に落ちた。
高校生になった凛は、ますます恵と距離を置くようになっていた。
学校のことも、友達のことも、自分から話さない。恵もまた、仕事の疲れや気遣いから、無理に踏み込もうとはしなかった。
そうして、日常は穏やかな沈黙に包まれた。
ある日曜日の午後、凛がリビングの棚を整理していたとき、古いアルバムが出てきた。
中には、知らない男の子の写真が一枚あった。恵の隣で笑う、小さな男の子。
凛は黙ってアルバムを閉じた。
その夜、恵が夕飯の席で言った。
「進路のこと、もし悩んでるなら、いつでも相談に乗るからね」
「別に。自分で考えるし」
「でも、選択肢って多いし――」
「お母さんじゃないくせに、口出さないで」
沈黙が覆った。凛自身、その言葉を言ってしまったことに驚いていた。
恵は唇を閉じたまま、黙って器を持ち上げた。手が、ほんの少し震えていた。
高校を卒業し、凜も働くようになった。
とりあえず近所のスーパーでのレジ打ちだ。
でも、毎日同じ時間に始まり、同じ時間に終わる。
その夜は、夏の終わりにしては蒸し暑かった。
凛が帰宅したのは、門限を1時間も過ぎていた。
「何時だと思ってるの!」
恵の声が響いた。
思わず怒鳴ったことに、自分でも驚いた様子だった。
「雨が降ってたからって、遅くなっただけじゃん!」
「連絡くらいできたでしょ!」
「……ほんとの親でもないくせに!」
その瞬間、時間が止まったように静かになった。
恵は、小さく息を吸った。何かを飲み込むように。
「……じゃあ、なんであの子じゃなくて、あなたが――」
言いかけて、凛の顔を見た。
その瞳には、恐怖と怒り、そして深い哀しみが混ざっていた。
「……ごめん」
恵が言うより早く、凛は玄関に向かって走った。ドアを乱暴に開けて、雨のなかへ消えていった。
リビングの灯りの下、恵はゆっくりと腰を落とし、両手で顔を覆った。
----------
雨は止んでいた。けれど風は冷たく、夜の気温は思いのほか低かった。
凛は駅近くのネットカフェの個室に身を潜め、ブランケットにくるまりながらスマホを握りしめていた。画面には、求人情報のサイト。
チャージしていた電子マネーの残高は二万七千円を切っていた。
これが、自分の“生き延びる猶予”だった。
――寮つき、まかないアリ……?
画面に示されたのは、古風な名前の個人レストランだった。地元ではそこそこ知られている、老舗の洋食屋。
家族経営だが、店舗は二階建てで、ホールと厨房を合わせると十人以上のスタッフがいるらしい。
「未経験歓迎」「住み込み可」「即日面接OK」の文字が、凛の目に飛び込んだ。
思い切って、電話をかけた。
「…あの、求人を見たんですけど。住み込み希望で、すぐ働けます」
声の主は、やや年配の女性だった。凛が年齢や料理経験を話すと、少し沈黙した後に答えた。
「……まぁ、すぐ辞められると困るけど。試しにやってみるかね? 明日の朝、来れる?」
「はい。行きます」
翌朝。電車を乗り継ぎ、指定された住所にたどり着いた凛は、思わず足を止めた。
白い外壁に、古い木製の看板。「レストランつばき」。建物の横にはアパートがある。これが寮かもしれない。
厨房の裏口から顔を出したのは、昨晩の声の主――髪を後ろでまとめた、柔らかそうな表情の女性だった。
「あなたが凛ちゃんね。……ほんとに細いわね。ごはん、ちゃんと食べてる?」
「あんまり細いと、うちがおいしくないんじゃないかと思われるからちゃんと食べてね」
その一言で、緊張が少しだけほぐれた。
貸してもらったエプロンを身につけ、厨房の隅で働き始めた。
大量の野菜の皮むき、皿洗い、揚げ物の仕込み。いちいち教えてもらわないといけないので全然はかどらない。
それでも――自分の手が、誰かの役に立っている。その実感だけが、今の凛を支えていた。
昼のピークが過ぎた頃、厨房の奥にある小さなテーブルに、温かい皿が一つ置かれた。
「はい、まかない。今日のはオムライス」
トマトソースの香りがふわりと鼻をくすぐった。
口に入れた瞬間、凛は思わず目を伏せた。懐かしいような味だった。
どこかで食べたことのある、誰かの、やさしい味。
「ここにいていいんだ」と、初めて思えた。
----------
厨房は、毎日が戦場だった。
慣れない立ち仕事に、足の裏がじんじんと痛む。冷蔵庫の開け閉めのたびに流れ込む冷気と、揚げ鍋の熱風がぶつかり合い、空気の温度差で体力を削っていく。包丁のリズム、フライヤーの泡音、注文を叫ぶホールの声――どれも大きくて、容赦がない。
そんな中で、凛に最初に声をかけてくれたのは、**佐知子**という女性だった。
三十代後半、タオルで額を拭きながらも、仕事の手を止めることはない。無駄口は多いが、器用で、動きに無駄がなかった。
「新入りちゃん、左利き? 包丁の持ち方、それだと手首痛めるよ」
「え、あ、はい……」
「ほら、こうやって包丁の背で押す感じ。力いらないから」
佐知子のアドバイスは簡潔で、温かかった。母親のような口調ではなく、仲間に対する気遣いのような。
賄いの時間になると、彼女は自分の分をサッと凛の隣に置いて、一緒に食べるようになった。
「この辺、住んでんの? 寮って、寒くない?」
「……はい、大丈夫です」
「私はさ、近くの市営住宅。中学生の息子が一人いてさ。まぁ、いろいろあるよ」
凛は、うなずくだけだった。
けれどその日から、少しずつ、二人の距離は縮んでいった。
ある日の賄いで、一緒に唐揚げを揚げた。凛が下味をつけたものに、佐知子が衣をまぶし、油に落とす。カラリとした音と匂いが、厨房に広がった。
「やるじゃん。揚げ加減、完璧」
「…家で、よく料理してたから」
「えらいえらい。最近の子って包丁も握れないのに」
その「えらいね」のひとことに、心の奥がじんわりと温かくなるのを凛は感じていた。
誰かと一緒に作って、食べて、褒められる――それが、いつぶりだったか思い出せなかった。
厨房の空気は、午後になると変わる。
忙しさではなく、張りつめたような緊張――店長の足音と、咳払い。
誰かの舌打ちが聞こえたわけでもないのに、まるでそこに“雷雲”がいるようだった。
「サラダのトマト、これ見て。厚みバラバラ。何度言えばいい?」
「……すみません」
「言われる前に気づこうね。仕事ってそういうもんだから」
声は静かだったが、冷えた金属のように重かった。
「皿のふき取りが甘い。照明の下じゃ指紋見えるから」
「申し訳ありません」
「“申し訳ありません”じゃなくて、最初からやっといてほしいの。何度目?」
厨房の中では誰も凛をかばわない――そう感じていた。
けれど、佐知子は何も言わないわけではなかった。
「トマトは私が任せたんで…ちょっと手が足りなくて」
「いや、それでも確認するのが“現場の責任者”でしょ? まかせるなら見てよ。僕ばっかり怒ってるみたいじゃん」
佐知子が黙る。
凛の喉がきゅっと締まった。
その夜、凛はトイレの個室でひとりになって、音が漏れないよう手で口を押さえながら泣いた。
冷たい便器のふたに座ったまま、心の中で繰り返した。
――がんばってるのに。
――失敗しないようにって、全部気をつけてるのに。
誰にも見つからないように涙を拭き、鏡の前では顔を引き締めた。
厨房へ戻るその背中は、誰の目にも映らないところで、静かにひび割れていた。
週末。土曜の昼どき。地獄のような時間が来た。
注文が集中し、フライヤーの音とホールの呼び声が重なる。
凛は盛りつけの補助を任されていたが、注文票の番号を一つ見間違えた。
皿が間違ったテーブルへ運ばれ、客からクレームが来た。
店長の声が低く、重く響いた。
「なにやってんの? 特別メニューを間違うなんて、考えられないでしょ」
「……すみません、私が…」
「うん、知ってる。君がやったの。で? どう責任取るの?」
凛の手が震える。目の端が熱くなってくる。
「こっちも信用で店回してるんだよ。どこの誰かもよく知らない新人に任せた俺がバカだったってこと? そういう話?」
次の瞬間、手に持っていた皿が手から滑り落ち、ガシャリ、と音を立てて砕けた。
凛はしゃがみ込み、震える指で皿の破片を拾いながら、呟いた。
「なんで……なんで私ばっかり、こんな……!」
その声は、涙に濡れていた。
「みんな、怒られないのに……私だけ……!」
抑えていた声がついに爆発し、嗚咽まじりに叫ぶようになった。
手の甲が破片で切れ、赤い線がにじんでも、凛は止めようとしなかった。
「こんなとこ、こんなとこ、全部壊れてしまえ!」
床にある空のバットを蹴飛ばしたときだった。
「――凛!」
佐知子が駆け寄り、凛の腕を強く掴んだ。
「やめな! 落ち着きな!」
肩を抱き寄せられ、凛の体が一気に崩れた。しゃくり上げるような泣き声と、震える呼吸。
「……ごめん、わかる。わかるけど、暴れても、何にもなんないよ」
凛の目に、佐知子の真剣な顔が映った。
「私も、最初はボロボロだった。何しても責められて、怒鳴られて、泣きながら皿洗ったよ」
「でもね、あんたは頑張ってた。知ってる。ちゃんと見てた。料理も覚えて、手も早くなった。自分がどんだけ成長したか、わかってる?」
凛は首を横に振った。震える肩を、佐知子は両手で抱いたまま言った。
「泣いてもいい。でも忘れないで。あんたも、誰かの大事な子なんだよ」
「……」
「私の息子だって、失敗ばっか。手間もお金もかかる。でも、どんだけイラついても、うちの子には変わりない」
「凛ちゃんも、そうなんじゃない? きっと、あんたの“お母さん”も、ずっとそう思ってたんじゃない?」
その言葉が、胸の奥深くに落ちた。
――ずっと、自分が家族を演じてただけだと思ってた。
――でも、あの人は本気で“母親”になろうとしてくれてたんだ。
ランドセルを買ってくれた手。揚げたコロッケの匂い。朝のキッチンの湯気。
思い出が、あふれるように戻ってきた。
凛は、顔を覆って泣いた。
その夜、凛はまかないを断った。
佐知子が厨房の裏口まで見送りに来た。
「もう行くの?」
「はい…ありがとうございました」
「…頑張ったね。偉かったよ」
短い言葉に、凛はうなずくしかできなかった。
寮の部屋で荷物をまとめた。といっても、着替えとスマホ、手帳だけ。
それでも、来たときよりもリュックは少し重く感じた。
コンビニのイートインでスマホを充電しながら、恵の連絡先を開いた。
着信ボタンに、指を添える。
けれど、そのまま閉じた。
“ただいま”は、ちゃんと帰って言いたかった。
夜道を歩く。途中で月が雲から顔を出し、足元を静かに照らした。
電車を乗り継ぎ、住宅街の角を曲がったとき、見慣れた家の窓から灯りが漏れていた。
ふいに足が止まる。
中にいる。あの人が。
怖い。けれど、帰りたい。胸がいっぱいで、呼吸が詰まりそうだった。
玄関のドアをそっと開けると、リビングから振り返った恵の顔が、驚きで固まった。
凛は靴も脱がず、まっすぐに駆け寄って――その胸に飛び込んだ。
「……ただいま」
恵は何も言わず、凛の背を抱きしめた。
体温が、音もなく伝わってくる。
もう、言葉はいらなかった。
----------
玄関の灯りはついたままだった。
その中に入ったとたん、凛はなにも言わずに恵の胸に飛び込んだ。
言葉より先に涙が出て、喉の奥が熱くなった。
恵の手が、ためらいもなく凛の背中に回った。
その手は、変わらず温かかった。
しばらくのあいだ、二人はそのまま動かなかった。
まるで時間がそこで静かに立ち止まっていたかのように。
夜になっても、ふたりは多くを語らなかった。
凛は部屋に戻り、ベッドに横たわった。だが、目を閉じても眠れなかった。何かが、胸の奥でうずいていた。
キッチンの方から、小さな音が聞こえた。
冷蔵庫の扉が開く音。包丁がまな板を叩くリズム。
匂いが、空気を伝って漂ってくる。出汁のやさしい香り。卵をとく音。
凛はそっと起き上がり、キッチンへ足を運んだ。
「……お腹、すいたでしょ?」
恵が、ふり返らずに言った。
凛は小さくうなずいて、何も言わずに隣に立った。
戸棚から丼を出し、箸を用意する。恵が鍋をかき混ぜ、凛が火を止める。
湯気の立つうどんを、二人で黙ってテーブルに運ぶ。
それは、ほんの少し塩気の強い卵とじうどんだった。
けれど、どこか懐かしく、あたたかい味がした。
食べ終わるまで、二人は一言も話さなかった。
けれどその静けさは、痛みや不安ではなく、
久しぶりに戻ってきた「ふつうの夜」の静けさだった。
【二】
朝、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
凛は自分の部屋で目を覚まし、ゆっくりと起き上がった。
リビングからは、食器の音がしていた。
台所では、恵がトーストを焼いていた。コーヒーの香りが漂い、ミルクパンの中ではコンソメスープがことことと音を立てていた。
凛は、黙って食卓に座った。
「おかえり」とは、まだ言われていない。
でも、その代わりに、朝食が出てくるというのが、なんだか少し嬉しかった。
ふと、凛は言った。
「……ごめんなさい」
トーストを裏返していた恵が、手を止めた。
そして、ほんの少しだけ笑って、こう言った。
「わたしも」
それだけだった。
スープの湯気が、二人の間にやさしく立ちのぼる。
凛は、湯気を見つめたまま、小さく尋ねた。
「また……一緒に料理しても、いい?」
恵は、今度ははっきりと笑った。
「もちろん」
トーストが焼けた音が、軽く響いた。
新しい一日が、始まろうとしていた。
家族家族というけれど、信頼しあった人と暮らすのが一番ですよね。