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彼女の前世がニホンジン? 2 聖妃二千年の愛  作者: さんかくひかる
8章 アタランテ(母の試練と門出)
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88 薔薇に包まれる若者たち

 我が子イドメネウスとクリュメネを接近させる試みは、失敗に終わった。

 アタランテは少女たちの訓練を終えたキュニスカと目を合わせる。


 王宮に嫁いだころ、彼女はしばしば裏庭を訪れ、愛らしい薔薇に心を慰められていた。


「久しぶりに裏庭へ行ってみようかしら。キュニスカ、付き合ってくれる?」


 昔、幼いクリュメネを裏庭まで走って追いかけたことを思い出す。今は、農夫だった前王メレアグロスが手入れに勤しんでいる。

 アタランテはアトレウスから「メレアグロスには近づくな」と釘を刺されていたため、この庭園は極力避けていた。


 訪れるのは十年ぶりだろうか。薔薇の灌木は幾重にも列をなし、薄紅色に輝いている。雑草は刈り取られ、ミントが生い茂る畑に様変わりしていた。爽やかな香りが鼻孔をくすぐる。

 背を丸めた老人が庭の隅にしゃがみ込み、何か作業をしている。


「メレアグロス様、ご無沙汰しております」


 振り返ったメレアグロスは、王妃とその護衛キュニスカに気づくと、一瞬動きを止め、やがてゆっくりと立ち上がった。


「こ、これは王妃様……こんなところに……その……遅すぎる詫びじゃが、わしは王妃様に許されぬ無礼を働いた。本当に申し訳なかった」


 前王がアタランテを強引に手に入れようとしたのは、もう十五年も前のことだ。アタランテにはまだわだかまりが残るものの、年老いた姿のメレアグロスを見るにつけ、過去を咎める気持ちは薄れていた。


「いいえ、庭を手入れしてくださり、ありがとうございます。その……メレアグロス様は、随分と変わられましたね」


「わしが竜より魔力を授かったのは二十歳のときじゃった。辺境で畑を耕しておったのに、いきなり竜から王になれと告げられ……そこからわしはおかしくなった。竜に見捨てられときは口惜しかったが、今は元の自分に戻っただけじゃ。かえって気楽なものじゃよ」


「大人になってから魔法使いになられたのですね。珍しいことに」


 多くの魔法使いは幼いころに竜に選ばれるが、大人になって選ばれる者も稀にいる。


「じゃから、わしみたいな農夫がデイアネイラのような別嬪を娶れるはずもなく……なのに魔力に目を眩ませ、あれを捨てようとした……」


 老人は頭を掻きながら、自嘲気味につぶやいた。


「あの……クリュメネは、最近こちらへ訪れていますか?」


 メレアグロスは寂しげに首を振る。


「小さいころはよく来たものじゃが、もう立派な娘じゃ。おそらく忙しいのじゃろう。それに今は……」


 言いかけた言葉を飲み込み、メレアグロスは宮のほうへ視線を移した。


 そのとき、大きな壺を抱えた少女が「おじーちゃーん」と声を張り上げて近づいてきた。栗色の髪に褐色の肌をしたこの娘を、アタランテは知っている。


「あなたはサフィラね。いつも厨房でよく働いてくれて、ありがとう」


「え? あ? ぎゃっ! 王妃様? な、なんで?」


 サフィラは黒い目を丸くし、慌てて頭を下げる。

 アトレウスが王となってから、王宮にアルゴス外の出身者が増えた。国境の戦乱で孤児となった者の一部は、奴隷として王宮に引き取られる。サフィラは、南のエレア国から来た奴隷で、皆から慕われている。年はイドメネウスと変わらないようだ。


「これこれ、サフィラ」


 メレアグロスが優しくたしなめ、大きな壺を受け取ると、顔を皺くちゃにして笑った。


「よく花の水やりに来てくれるんじゃ。この子のおかげで、寂しくなる暇もないんじゃよ」


「えへへへ、おじいちゃんはお花や薬草のことなら何でも知っていて、一緒にいると楽しくて……あっ、ごめんなさい、王妃様」


 少女の無邪気な笑顔に、アタランテはひととき安らぎを覚えた。ミントの香る薔薇園には、穏やかな空気が満ちている。


 はっと我に返り、アタランテは微笑む。


「メレアグロス様、サフィラ。これからも薔薇を美しく咲かせてくださいね」


 王妃は護衛を伴い、裾捌きしながら宮へと戻った。


「ねえ、キュニスカ。若い女の子は美しい花が好きよね」


「若さに関係なく、花は人の心を慰めてくれます」


 人知れず花が咲き誇るこの場所なら、若い二人の心もやわらかく開くに違いない。

 新たな思い付きが、王妃の顔を輝かせた。



 アタランテは息子の腕を取り、クリュメネの住む館へと引っ張った。


「イドメネウス、戦士として身体を鍛えるだけでは駄目よ。王宮の人々に心を配るのも、王族の務めだから」


「だからといって、なぜ僕がクリュメネを前王メレアグロスに会わせなければいけないのです? 父上から、メレアグロスは母上を苦しめた奴だと聞いています」


「メレアグロス様は私に謝罪してくださいました。そのことはお父様にも伝えてあります」


 ただし、前王の謝罪をアトレウスに伝えたとき、『いくら見た目がジジイでも、男は男だぞ!』と、アタランテは叱られた。


「メレアグロス様は、おひとりで寂しいのよ。もうあなたは大人なのだから、自分で誘いに行きなさい」


 息子は口を尖らせたまま館を訪れた。アタランテは影から見守る。しばらくすると、ぎこちなさそうにする若い二人が館を出て、裏庭へと向かっていった。


 アタランテは木陰から、手入れの行き届いた薔薇園を見つめる。会話の内容は聞き取れないが、老いたメレアグロスが涙を浮かべ、クリュメネを見つめている。そしてメレアグロスは王子に頭を下げ、イドメネウスも静かにそれを受け入れたようだった。


(まだぎこちないけれど、これから二人がじっくり語り合う場を設ければ……)


 そう考えていたところへ、大きな壺を抱えた褐色の肌の少女が現れた。厨房の奴隷娘サフィラで、メレアグロスの庭仕事を手伝っている。


(サフィラ。小さな身体で火に薪をくべ、水を汲んで……いつもよく働く子だわ。あの子もいずれ人妻になるのだろうけれど、好きな相手を自分で選べるのね)


 アタランテはふと思う。イドメネウスとクリュメネも、きっと幸せになれるはずだ。


 サフィラは二人に気づくと、丁寧に頭を下げて水まきを始める。しばらくすると、イドメネウスが声をかけ、クリュメネがそれをたしなめた様子だ。厨房の娘を小馬鹿にしたのを、姫君が咎めたのかもしれない。


(駄目よイドメネウス。王子だからといって、使用人を見下してはいけないの)


 サフィラは笑顔のまま去ろうとするが、そのときイドメネウスが走り寄り、手首を掴んだ。二人は言葉を交わすが、サフィラは振りほどいて走り去る。


 一瞬、アタランテの胸に嫌な予感が走ったが、すぐに打ち消した。息子はクリュメネと同じように、サフィラにも謝罪したのだろう。相手は奴隷の娘――大きな問題になるはずもない。



 その後もアタランテは二人が語り合う場を設けたが、母の策略は見破られていたようだ。息子は「いい加減にしてくれ」と突っぱね、クリュメネからは「王妃様、これ以上のお気遣いは無用です」と言われてしまった。


 やがて嫌な予感が的中する。第一王子イドメネウスが厨房の奴隷娘サフィラと笑顔で見つめ合う姿が、王宮のあちこちで目撃されたのだ。

 ついに母アタランテ自身が目撃した。小麦倉庫の影で、抱き合う二人を。



「イドメネウス、サフィラは可愛らしい子よ。でも、あなたは王子なの。必要以上に親しくして、あの子に期待を抱かせては可哀想よ。サフィラはあなたと結婚できないのだから」


 夕食後、アタランテは息子を自室に連れ込み、言い聞かせた。


「は、母上、僕はただサフィラと話しているだけで、結婚なんて……」


「クリュメネだって、いい気分はしないわ」


 俯いていたイドメネウスは、パッと顔を上げる。


「僕はクリュメネと結婚しなければいけない。わかっています」


 父親譲りの青い眼が、真っ直ぐアタランテを射た。


「いけないなんてそんな……でも、クリュメネは本当にいい娘だから、私は……」


「いい娘とか関係ありません。アルゴスのために必要なんです。僕は一年後、クリュメネと結婚します」


 言い切った王子の表情は、まるでこれから戦場へ赴くかのように引き締まっていた。花嫁を迎える喜びは、どこにも見られない。

 それでもアタランテは杞憂を振り払い、精一杯の笑みを浮かべた。


「ありがとう。よく決心したわね。クリュメネには、自分で伝えるのよ」



 十日経った夕べ、アタランテは前王妃デイアネイラの私室で、ワインを酌み交わしていた。


「アタランテ様、本当に目出たいこと。これで私も肩の荷が下りますわ」


「息子もようやく決心したようです」


「ですが……あの奴隷娘の噂がまだ尾を引いておりますの。どうお考えですの?」


「はい。それはよく言い聞かせますから」


 アタランテは心の中でつぶやいた。――息子はまだサフィラを想っているようだ。結婚までの一年、その気持ちを整理させるつもりだろう。息子の初恋をこれ以上邪魔するのは、忍びない。


「それにしてもアタランテ様、五人のお子の母となられて、感心いたしますわ。そろそろ王様の夜のお相手から、ご自分を解放されてはいかが?」


 デイアネイラの赤い唇が、なまめかしく輝く。

 アタランテの胸に氷の刃が突き刺さった。


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