87 勇ましい少女たち
夏の太陽がアルゴス王宮を照りつける。
中庭から「えい! やっ!」と、いくつもの甲高い声が重なり、王妃の耳を心地よく刺激する。
アタランテは水壺とカップを侍女たちに持たせ、声のする方へ足を向けた。
訓練場の砂埃の中、十人もの少女たちは額の汗を滴らせ、重い槍先を精一杯突き出した。
「みんな、暑いのに精が出ますね」
「アタランテ様!」「お母様!」
王女ミュリネとアイトラをはじめ、貴族の娘たちがアタランテのもとに駆け寄った。
高貴な娘たちは、厨房の女たちから水を受け取り、喉を潤す。
少女たちの指導者が王妃に頭を垂れた。
「みな、王妃様のお越しを励みに鍛錬しております」
「キュニスカ、ありがとう。あなたが槍を教える日は、アイトラもミュリネも、パンを平らげてしまうのよ」
女戦士キュニスカは、アルゴス王宮の高貴な少女たちに槍術を指導している。かつて王妃アタランテもキュニスカから槍を習っており、それを知った幼いクリュメネが「自分も習いたい」と祖母デイアネイラにせがんだのだ。デイアネイラは渋々ながらも末孫の懇願に負け、キュニスカに槍の指導を依頼した経緯がある。
当のクリュメネが汗を拭い、アタランテに笑顔を向けた。
「私も王妃様みたいに、王様を守れる女になりたいです」
「クリュメネ。私は子供を産んでから、槍をやめてしまったの。あなたのような若い子がいれば、アルゴスの未来は明るいわ」
上の王女アイトラは「私も早くクリュメネ姉さまのようになりたいです」と笑顔を向ければ、下の王女ミュリネが「ずるい! クリュメネ姉さまは私のもの!」とまとわりつく。
(クリュメネは娘たちに慕われている。しかもアルゴスを支える気概に満ちているわ。イドメネウスが好きになってくれれば……)
アタランテは、槍を突き出し声を張り上げる少女たちを見守った。
「ヒュロス、泣くな! 父上の名を辱めるんじゃない!」
王宮のはずれ、戦士たちの鍛錬場に、少年の厳しい声が、アタランテの耳に響く。
叱咤の声が王妃の胸を温める。
見ると、十人ほどの少年たちが、剣を一斉に同じ方向に振り下ろしていた。その少年たちの前で、長子イドメネウスが「遅い!」と声を張り上げている。
かつては戦士の訓練で少年たちからいじめられていた我が子は成長し、今では彼らを指導をする立場になった。
高貴な少年たちに交じり、幼い次男ヒュロスが泣きながら、重たい剣をよろよろと持ち上げている。
アタランテは末の王子メノンの手を引き、侍女たちを連れて、鍛錬する少年たちに微笑みかけた。少年たちは侍女から水差しを受け取り、ゴクゴク飲み干す。
「母上、兄上が意地悪するんです~」
次男ヒュロスがアタランテに駆け寄る。が、その背中を兄がつかんだ。
「母を守るのがアルゴスの戦士だぞ! 守るべき母に泣きつくとは、それでも王子か!」
アタランテは、頼もしい長男に笑いかける。
「イドメネウス、よく子供たちを見ていますね」
「ありがとうございます」
少年は礼儀正しく母に頭を下げた。
「母上~」と甘える次男を、アタランテは優しく諭す。
「兄上はね、意地悪ではなく、お前に強くなってほしいの。一日も早く王様を守れる戦士になっておくれ」
ヒュロスは不満げに頬を膨らませる。
アタランテはまだ赤子の三男メノンに「いいこと? 兄上たちの姿をよく見ておくのよ」と優しく言い聞かせた。
イドメネウスは逞しくなった。
アタランテははっと眼を見開いた。
「そうだわ! これでクリュメネとも上手くいくはず!」
「母上、どうしても僕が、姫君に槍を教えねばならないのですか? 女子はあまり得意ではないのですが……」
アタランテは、渋る長男の背中を押して、中庭に向かう。
「キュニスカには他にお願いしたいことがあるの。いい? アルゴスの民の半分は女よ。女子を理解することも、あなたの大切な役目よ」
イドメネウスは、クルミと干しぶどうを詰めた皿を手にして、「男と違って女はすぐ泣くし、怪我させられないし……」とこぼして歩く。
渡り廊下を進むと、少女たちの勇ましい掛け声が聞こえてきた。
アタランテは、イドメネウスに少女たちの槍術訓練を指導させようと思いついた。その少女の中にはクリュメネもいる、
四歳歳上の幼馴染は、イドメネウスの姉のようだ。が、槍ならイドメネウスに分がある。これまで姉のような存在だったクリュメネにイドメネウスが教える立場となることで、二人の関係に変化が生まれ、恋心が芽生えるかもしれない。それに、クリュメネが槍に健気に向き合う姿を見れば、息子の心も動くかもしれない、とアタランテは考えた。
キュニスカには、頃合いを見て訓練を切り上げさせ、クリュメネだけを残すよう事前に頼んであった。
少女たちの指導者キュニスカは、訪れた王妃と王子に「これはこれは、王妃様にイドメネウス様」と笑顔を見せて、少女たちに向き直る。
「みな、今日は特別に、イドメネウス様が、教えてくださる。ほら、騒ぐな。アルゴスの女がみっともないぞ」
三人の王子も二人の王女も、父アトレウスから黄金の髪と青い眼を受け継ぎ、人の目を惹きつける。王宮の少女たちは、逞しい上の王子を憧れの眼差しで見つめていた。
末の妹ミュリネが「兄さまあ」と駆け寄ると、上の王女アイトラが「やめなさい!」と追いかける。兄は「槍は重いだろ?」と末妹ミュリネの頭を撫で、姉のアイトラには「ミュリネのこと、頼む」と微笑む。
イドメネウスは「みんな、お腹が空いただろ?」とクルミと干しぶどうを詰めた皿を、少女たちに見せる。途端、娘たちが王子の周りを囲む。
が、クリュメネだけは輪に加わらず、キュニスカに頭を下げた
「先生、私、今日は疲れたので下がります」
イドメネウスは少女たちの輪から抜け出し、クリュメネに近づいた。眉を寄せて声を潜める。
「クリュメネ、どうした? もしかして……僕が嫌なのか?」
「違うわ……イドメネウス、みんなに優しくしてあげてね」
高貴な娘は、足早に渡り廊下へ去った。
アタランテは慌てて追いかける。
「ねえクリュメネ。疲れたなら休んでいていいから、息子を見てやって」
しかし少女は頭を振った。
「無理です……私の下手な槍捌き、イドメネウスには見せられない……」
「あなたは女の子だし、恥ずかしがることないのよ」
「ごめんなさい、王妃様」
十七歳の少女は走って消えてしまった。
クリュメネはこれまでイドメネウスにとって姉のような存在だっただけに、いきなり彼から教わる立場になるのは、彼女の誇りが許さなかったのかもしれない。
中庭に戻ると、息子はキュニスカと共に、少女たちに槍の握り方から教えていた。怒鳴ったりせず「倒そうと思うな。槍で敵を驚かせたら、すぐ逃げるんだ」と繰り返していた。
少女たちの尊敬を得ることはできたが、槍指導を終えた少年は「やっぱり僕は、クリュメネに嫌われてるんだな」と呟く。
アタランテの目論見は、裏目に出てしまったようだ。
「キュニスカごめんなさい。あなたまで巻き込んで」
アタランテは忠実な護衛に、作戦の不首尾を詫びる。
「王妃様、あの年頃の男女は難しいものです」
自分も若いころ、幼馴染との結婚を周囲に望まれながらも、結局は別の愛を選んだ。母としては、子供たちの気持ちを尊重したい。
しかしアルゴスの王妃としては、そのままにしておけない。




