86 妻として母として
アタランテがアルゴス王宮に嫁いで十四年が経ち、五人の子の母となった。
次男ヒュロスに続き、三男メノンが産まれて一週間が経った。
赤子をあやす王妃の元に、前王妃デイアネイラが若い女を連れて祝いに駆けつけた。
「アタランテ様、三人の王子の母となられて、これでアルゴスは安泰ですわ」
王妃は赤子を抱えたまま、デイアネイラに頭を垂れて礼を述べる。
デイアネイラは王妃の侍女に促され、椅子に座った。若い女は立ったままだ。
アタランテは、その若い女に目を留めた。
「あなたはリディア様? エケモス様のお嬢様でいらっしゃいますね。以前、お屋敷でお会いしましたわ」
女は二十歳そこそこだろうか。権勢を誇る戦士の長の娘にしては身なりが粗末で、やせ細っている。伯母のデイアネイラと比べるまでもなく、華やかさに欠ける。
リディアは俯いた。
「すみません……あたしの母は奴隷ですから、お嬢様なんて……」
若さに反して声に張りがない。
女より四十歳は年上だろう前王妃は艶やかな唇を輝かせる。
「アタランテ様は五人のお子様を育てられて忙しいでしょう? これよりアトレウス様のお世話は、この娘リディアにさせますわね」
長男イドメネウスはもとより、四歳の次男ヒュロスはもう戦士の訓練を始めた。長女アイトラと次女ミュリネは、デイアネイラの宮に通い、淑女の教育を受けている。
アタランテの子育ては主に、朝と夕の食事を共にし、子供たちを寝かしつけることだった。
「お母様、お気遣いなく。私の侍女がおりますので……」
奴隷上がりの王アトレウスは、身の回りのことはひとりでこなせる。アタランテが疲労で伏せっているときは王自ら食事を届けるなど、王妃を気遣っていた。
「ねえ、アタランテ様。いくら子育てが忙しいからといって、大国の王に給仕の真似をさせていいのかしら?」
「それは……いえ申し訳ありません」
痛いところを突かれたアタランテは、肩をすぼめるしかない。デイアネイラは勝ち誇ったかのように胸を反らし、傍らの姪に顎を向けた。
「よいかリディア。今、王様は、賢者の皆様と話し合われている。玉座の間に飲み物をお出しせよ」
若い娘は無言で頷き、静かに立ち去った。
デイアネイラは首を傾げて、アタランテをじっと見つめて微笑む。
「安心したわ。大国アルゴスの王に女が王妃ひとりだけなんて、お気の毒ですもの。これでアトレウス様は、ひとりで寂しく夜を過ごさなくてすむわ」
アタランテの頭は、真っ白になった。
産まれたばかりの我が子メノンを抱きかかえ、前の王妃を見据えた。
「で、でもお母様は未だに、私を妃にしようとしたメレアグロス様をお許しになっていません」
メレアグロスは王宮の裏庭に建てられた粗末な小屋で暮らし、庭の手入れや野菜作りに勤しんでいる。小さな孫たちは気のいい祖父と遊ぶが、妻デイアネイラは、一度も顔を見せたことがない。
「勘違いしないでくださる? あたくし、あの男がいくら女を侍らそうが、好きにさせていたわ」
王妃の緑色の眼が大きく揺れる。返す言葉が見つからない。
「許せないのは、あたくしから王妃の座を奪おうとしたことよ」
デイアネイラは、アタランテに艶やかな微笑みを残して立ち去った。
脳裏に、母の言葉が蘇る。
『あの手のいい男は、一人の女じゃ満足しないよ』
不安の渦に飲み込まれるアタランテを、産まれたばかりの息子が救い出す。
「ほぎゃあ、ほぎゃあ」
母親は、火が着いたように泣く赤子を「ああ、ごめん、ごめんね。お腹すいたかな」と乳を含ませた。
三男メノンが生まれて一年が経った。
リディアはアトレウスによく仕えたが、アタランテの案ずるような男女の仲にはならなかった。
五人の子供は順調に育っている。
長男イドメネウスが幼いときは、少年たちから攻撃を受けていたが、今や大人も子供も、王子に人目を置いている。彼は逞しい十三歳の戦士となった。
しかしアタランテは、長男イドメネウスの行く末に、頭を悩ませていた。
前王妃デイアネイラの愛する初孫のクリュメネは、十七歳になった。
デイアネイラは、頻繁に『イドメネウス様とクリュメネの結婚を』と催促する。
アタランテがイドメネウスに「クリュメネはいい子ね」とほのめかすと、「うるさい!」と突っぱねられる。
イドメネウスとクリュメネは、幼馴染以上の関係ではなさそうだ。
息子に恋はまだ早いのだろうが、クリュメネは年頃で、そう長く待たせられない。
アタランテは幼いメノンを寝かしつけ自室に戻る。
男女の笑い声が耳に着いた。豪快に笑う声はアトレウスに間違いない。こぼれるように小さく笑う女は、侍女のリディアだろう。
「リディア、お前はいつも旨いワインを選ぶな」
「ええ、王妃様に喜んでいただくのが私の務めですから」
「『王妃様』だと? 俺はどうでもいいのか?」
「だって王様の心は、いつも王妃様と共にあるのでしょう?」
「ははは、参ったな。リディア、お前には敵わん。恥ずかしいから止めてくれ」
胸のざわめきが治まらない。王妃は戸口の前で一旦立ち止まった。息を大きく吸ってまた吐き、笑顔を貼り付け足を踏み入れる。なぜ、自分の寝室に入るだけなのに、こんなに緊張するのか。
身構えたアタランテの目に飛び込んだ風景は、予想通りだった。椅子に座ったアトレウスが、傍らに立つリディアと微笑みを交わしている。テーブルにはワインの壺とカップが置かれている。
アタランテは極上の笑顔を、若い女に向けた。
「リディア。ワインを届けてくれたのね。いつもありがとう。あなたも一緒にいかが?」
アタランテは、カップを棚から取り出し、ワインの壺を傾ける。
「いえ。王様はずっと王妃様をお待ちでしたから。あたしはこれで」
リディアは首を振り部屋を出た。
王妃は動揺を抑えて微笑んだ。
「あの娘はいい子ね。あなたの湯あみも世話してくれて」
夫の濡れた金髪に、アタランテは指を絡ませる。
「俺のことは気にするな。お前が少しでも楽になればいい」
男は妻の手を取り、自身の膝に乗せた。妻は男の首にしがみ付く。
アタランテの心にリディアの声が響くが、すぐに打ち消した。今は息子の未来を考えるときだ。夫の腕の中で、女は気持ちを切り替えた。
「あなた……お母様が、クリュメネとイドメネウスを結婚させたいと……」
「させればいいだろ? お前は嫌なのか?」
「あの子たちは仲良しの友だちで、恋人には程遠いわ」
アトレウスの青い眼が丸くなる。
「お前、そんな甘いことを言ってるのか?」
女は俯き首を振る。
「父と母は、私とヒッポメネスを結婚させたかったの。王宮に呼ばれたとき、二人きりで旅させられたのよ」
「ははは、お父上は、奴隷上がりの戦士がよっぽど不満なのか、いきなり魔法をぶつけられた」
「あなた、まだ父を許せないの? もう十年も経ったのよ」
「いやいや、娘を持って、タラオス殿の気持ちがわかった。アイトラとミュリネが奴隷男を連れてきたら、黒鉄の剣で男を叩ききってやる。俺も奴隷だったのに勝手なもんだな」
男は寝台に立てかけた剣に視線を送る。
「あなたの娘よ。きっと素晴らしい人を連れてくるわ」
アタランテは男の膝から降りる。
「私、両親に結婚を押し付けられて嫌な思いをしたから、イドメネウスを無理に結婚させたくないの」
アトレウスは大きなため息を吐き、立ち上がって黒鉄の剣を手に取った。
「アルゴス……いや、ゴンドレシアにはこれが必要だ」
王妃は息を呑む。アトレウスの黒鉄の剣へかける想いなら、何度も聞かされていた。
アタランテは子育てに専念し、政にあまり関わってはいないが、それでも一月に一度、玉座の間の会議に参加する。意見は述べないが、アルゴスが直面する問題を王妃として知っておきたい。
会議でアトレウスは、しばしば戦士の長エケモスと論戦を交わしていた。
『竜の石をもっと探せ! なぜ一族で独り占めする!』
黒鉄の剣は、竜の石に優れた賢者たちが魔力を込めて作られる。
『王様! むやみやたらに黒鉄の剣を広めては、禍になります!』
『違う! 黒鉄の真の力は武器ではなく、農地の開墾に水路の掘削……地を富ませるためにこそ、発揮されるのだ!』
『なら、ボーグの地を攻めましょう。あの肥沃な小麦畑を手に入れましょう』
『馬鹿な! 非のない国に一方的に攻め込めば、盗人と同じではないか! 今持つ土地を富ませる方法を考えろ!』
アタランテは、剣の柄を握りしめる夫の手に触れた。
「あなた……竜の石がどうしても欲しいのね」
「イドメネウスとクリュメネが結ばれれば、俺たちはエケモスの一族になる」
黒鉄の力を国中に広めたい。そのため、竜の石を独占するエケモスの協力を得たい。
生贄のない世界を作るため。
王妃は静かに頷いた。
「……どうしたらイドメネウスは、クリュメネのことを好きになるかしら?」
「若い男と女なんか、一晩、狭い部屋に閉じ込めればいいだろ?」
「ば、馬鹿! そんな乱暴な方法は駄目! 第一、イドメネウスには、まだそういう気持ちはないのよ」
「そうか? 俺が女を初めて抱いたのは十四だったが……おいおいそんな顔するなよ。今は、お前だけが女だ」
(リディアも「女」ではないというの? さっきあなたは、優しい顔をあの娘に向けていたのに……いいえ、そんなことで心を煩わせている場合ではないわ)
アタランテは夫の腕に身を寄せる。
「あなたは女の人の、どこが好き?」
男は剣を置いて、妻の頬に指を滑らす。
「眼がきれいな女には弱くてな」
「もう! ……あ、あの……私は、顔だけですか?」
「それは大きいが……あれは忘れられんな」
アトレウスは軽々とアタランテの身を持ち上げ、寝台に横たわらせる。
「儀式が始まる前なのに、噂の竜の娘は子供の怪我を治していた……前も話したな」
「覚えてくれて嬉しいわ」
夫の背中に腕を伸ばしつつ、アタランテは考えた。アトレウスは竜の娘に反感を持っていた。が、娘の意外な一面を知り好意を抱いた。
それなら。
クリュメネの意外な一面を、イドメネウスに見せればいいのだ。




