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83 竜の娘と王の朝

 まぶたに触れる温かな光。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

 王妃はまぶたを開いた。目を向けると、テーブルも石壁も明るく光を反射している。


「うそ! もう朝?」


 隣にいるはずのアトレウスが見当たらない。

 慌てて起き上がり、石壁に開けられた窓から空を見上げる。日は高く昇り、アルゴスの秋空を青く染めている。


「やだ、寝坊したわ」


 戸口を見ると、アトレウスが入ってきた。


「昨日は疲れただろ?」


 トレイを片手に持つアトレウスが微笑んでいる。


「ごめんなさい!」


 男は笑みを湛えたまま、テーブルにトレイを置き、妻の頭をそっと撫でる。


「少しは食べられるか?」


 アトレウスがテーブルを指した。トレイには、パンや果物が盛られていた。


「あ、ありがとう……」


 アタランテは夫に促されるまま、テーブルに着いた。

 ほんのり焼けたパンには蜂蜜がかけられ、香ばしく甘い匂いが漂ってくる。


「見た目はよく焼けたが、味はわからん」


「え? あなたが焼いたの?」


「パンを焼くのは久しぶりだ。辺境で戦っていた時は、よく作らされた」


 温かなミント茶のツンとした香りが、朝の目覚めを呼び覚ます。茶で口を潤し、夫の焼いたパンを口に含む。


「美味しい、いい香り……あなたは料理長になるべきよ……王様なんてもったいわ」


「ははは! 王がもったいない、そりゃいいな」


 隣に座ったアトレウスは腹を抱えて笑った。

 アタランテの食事が終わっても男は動かず、妻の首筋に唇を寄せる。


「……あなた、お仕事は?」


「宮に戻ったばかりだぞ。一日ぐらい休ませろよ」


 アタランテは男に身を預けるが、次第にアトレウスの手の動きが妖しくなってきた。


「だ、駄目……まだ朝よ……そうだわ。外に出ない?」


 女は立ち上がり、男の手を取った。



「嬉しい……今日はずっと一緒ね」


 アタランテはアトレウスに腕を絡ませ、王宮の裏庭を散策する。

 サンダルが茂みをシャクシャクと踏みつけた。草の朝露が日の光を反射する。


「この辺、全然手入れされてねえな。なんとかするか」


「いいのよこのままで……もうすぐ見えるわ。可愛い薔薇が」


 二人は茂みを分け入って進む。すると、話し声が聞こえてきた。


「じじさま~」


「よしよし、きれいにしてやるからな」


「ふふ、お父様……昔を思い出すわ」


 幼女と男、赤子を抱えた女が笑っていた。

 前王メレアグロスが、薔薇の灌木の周りの草を刈っている。クリュメネがまとわりついて、刈られた草の束を撒き散らす。


「クリュメネ、そこにいると刃がぶつかって危ないぞ」


「ほら、おじいさまの邪魔しないの」


 朝日に照らされる家族の笑みは、アタランテの心を和ませる。


「げっ、ジジイか……人間って変わるもんだな……」


「クリュメネ……よかったね……大好きなおじいさまが戻ってきて……」


「薔薇はまた今度にするか」


 二人は静かにその場を去った。



 裏庭の茂みを進むと、せせらぎの音が聞こえてくる。


「まあ、こんなところに小さな川が……」


 人の背丈ほどの深さに肩幅ほどの溝が掘られ、水が流れている。


「水を引いてるんだよ……はは、水の音で変なことを思い出した」


 水路の前で二人は腰を下ろした。


「俺、ガキの時お袋と二人で、お屋敷を転々としてた。お袋は屋敷の奴隷で……よく屋敷の女主人に叩かれ、追い出された……」


 初めて聞くアトレウスの母の思い出に、アタランテは無言で耳を傾ける。


「今から思うとお袋は別嬪だったな。屋敷の主人は妙にお袋に馴れ馴れしかった。多分、お袋は屋敷の主人の女にさせられ、女主人は妬いたんだろう……俺の親父はそんな屋敷の主人だったかもしれんな」


 女は息を呑む。村長の娘として生まれ、両親や村中の愛を受けて育った自分と、あまりに違う境遇に心を痛めた。


「お袋は俺に『すまんね』って泣いて……で、最後に訪れた村が、日照りに苦しめられた。村長は竜のお告げで、生贄を出せと……」


 アタランテは顔を覆い、「ま、まさか、生贄って……」と手を震わせる。

 男は寂しげに微笑む。


「ああ、お袋が生贄となった。すぐ雨は降り、みんな喜びお祭り騒ぎになった」


「ひ、ひどい!」


「俺が五つの時だ。俺は悔しくて誰もいない河原で叫んだ。今に見てろ、竜の野郎って……ははは」


 女は男にしがみつく。

 男が国の改革に情熱を傾ける理由がわかった。彼はただ、アタランテの願いに共鳴したのではない。いや、彼は、アタランテが同じ願いを持つ女だからこそ、伴侶に選んだのだろう。


「生贄に選ばれるのは、俺のお袋みたいな身寄りのない貧しい人間だ」


 女はまぶたを開いた。前の儀式でも、犠牲の子は粗末な身なりで、傍には母親しかいなかった。


「竜は生贄を求めるが、誰が生贄か決めるのは、人間なんだよ」


 アトレウスが憎むのは竜だけではない。彼は、唯一の愛を奪った世界そのものを憎んでいる。


「あんたが泣くことはないだろ」


「だってだって……あ、あれ?」


 アタランテははっと顔をあげ、緑色の眼を輝かせた。

 女の頭にひとつの光景が浮かんだ。森の奥深い小さな川辺で、金髪の男の子が見上げて、泣き叫んでいる。


「……私、知ってる……あなたを……小さなあなたは、泣いて竜に怒りをぶつけるの……」


「悪い悪い、ついこんな話をしちまって……」


 男は女の頭を優しく撫でる。しかし女の緑色の眼は空の一角を凝視する。


「私は空から、小さなあなたを見つめて……そうよ……人は生まれ変わるの……竜は死んだ人の魂を天に導き、また天から地上に降りるの……私も同じ……」


 アタランテはゆっくりと頭をアトレウスに向けて微笑んだ。


「竜は私に、あなたを守るよう、天から遣わしたのね。だって……」


 女は居住まいを正し、きっと男を見据えた。


「私は竜の娘よ」


 男の空色の眼が揺れた。


「は、ははは……ありがたいな……でもそれはない。俺は、今でも竜を憎んでいる」


 アタランテはアトレウスの大きな背中に腕を回す。


「だから、小さな子がこれ以上悲しむことのない国を造るの! あなたが王となったのは、そのためよ」


 男は眉を寄せ、女の頬を包み込んだ。


「私とこの子があなたを守るわ」


「逆だろ。女房と子を守るのが、男の仕事さ」


 二人は抱きあい、何度も口づけを交わす。

 が、甘い時は長く続かない。

 遠くから、「王様~、どこですか~」と若い男の声が聞こえる。


「あなた呼んでるわよ」


「ったく、今日は休みだっつーのに」


「行きましょう。悲しい子供をなくすために」


「……すまんな」


 王妃は極上の笑顔を見せる。彼女は沸き起こる微かな寂しさを押し殺し、王と手を取り合い宮に向かった。



 王がアルゴスの反乱を鎮圧してから半年後、王妃アタランテは男子を産んだ。

 アトレウスは「アタランテ! よくやったぞ!」と顔をクシャクシャにして、産湯に漬かったばかりの赤子を抱こうとするが、産婆に「王様! ちゃんと首を支えて!」と叱られる。

 男子はイドメネウスと名付けられた。


 子の誕生の知らせは、竜の魔法を通じて国中に広がった。

 ティリンス村から王妃の両親が駆け付ける。初孫の誕生に父タラオスは顔を崩し、母メロペは「あんたがお母さんとはねえ、イドメネウスを守るんだよ」と励ました。


 前王妃デイアネイラは、孫娘クリュメネを連れて産まれたばかりの王子を訪ねた。

 赤子を抱いたままアタランテは、祖母と娘を歓迎する。


「お母様、ありがとうございます。クリュメネ、遊びに来てくれて嬉しいわ」


 デイアネイラがアタランテの背中をさする。


「アタランテ様、よく王妃の務めを果たしてくださいました」


「ええ、アトレウス様も喜んで……私、この子が王宮の皆様に役立てるように育てます」


「この子、お父様にそっくりね。金の髪に青い眼……美しい男子にお育ちよ。ね、クリュメネも嬉しいわよね」


「クリュメネちゃんはきっと、この子のいいお姉さんになってくれるわ」


「アタランテ様。姉ではなくて妻では駄目かしら?」


 デイアネイラは首を傾げ、赤い唇で微笑んだ。

 一瞬アタランテは緑色の目を丸くするが、すぐ笑った。


「まあ、クリュメネちゃんみたいに可愛いお嫁さんが来てくれるなんて、嬉しいわ」


「王妃様、ありがとうございます。クリュメネは私の初めての孫。なによりも大切な子なの」


 王妃と前の王妃は微笑みを交わす。

 四歳児と産まれたばかりの赤ん坊の婚約など、言葉遊びに過ぎない。今は仲良く遊んでも、十数年経てばお互いほかの相手に恋し、それぞれ家庭を作るだろう。

 それでいい。

 アタランテもそうだった。

 村の誰もが、アタランテと村一番の魔力を誇る少年を結び付けようとした。少年は友であり兄だった。でも……恋人にはなれなかった。彼女は、十八歳で別の男と出会い、出会った日から恋に落ちた。


(だって、私は、アトレウス様と結ばれるために生まれてきたの)


 大人たちの言葉遊びなど知らず、クリュメネは赤子をおもちゃのように突っついた。まだ物もよく見えないイドメネウスは、泣き出した。

 赤子の母は「ほらほら、みんなあなたの誕生を祝ってくれたのよ」と、揺すってあやした。


 アタランテにとって、もっとも幸せな時であった。


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