80 炎の竜と金の薔薇
炎の竜がアトレウスを飲み込まんとした瞬間、彼の身は眩い光に包まれ、宙に浮かんだ。
アタランテの眼前で、王の両脚がふわりと揺れる。
男は巨大な盾を、炎の竜に向かって掲げる。
アトレウスの青いマントの縁を飾る金糸の薔薇から光が放たれ、竜の炎を押し返す。マントが南風に広がり、王者を守っている。
(あのマントは、私が機織りの女たちと織った衣。薔薇の刺繍を施したのよ。私の代わりに守ってと)
光に包まれたアトレウスは、ゆっくりと地面に降り立つ。
「お、おお、なんだ、この衣は……アタランテの力か?」
男は呆然と、青いマントを手に取り見つめる。
「よかった、無事で!」
アタランテは涙を浮かべ、男の元に駆け寄る。しかしアトレウスは振り返り、鋭く睨みつけた。
「あんたか……話は聞いていたが、なんで来た! すぐ都に帰れ!」
アトレウスの怒号が森を震わせるが、アタランテは空を見上げて叫び返す。
「そんな場合じゃないでしょ!」
炎の竜が空高く舞い、再びアトレウスに襲いかかった。
アタランテは両腕を広げ、竜に立ち向かう
「メレアグロス様の炎にあなたが襲われたときと、同じね」
緑色の眼が妖しい光を放つと、竜は一瞬怯み、空を旋回して引き返す。
アトレウスは空の竜と妻を見比べ、息をのむ。
背後から、女の鋭い声が響いた。
「アタランテ様! 勝手に走らないでください!」
戦士たちを率いたキュニスカが、アトレウスの前に膝をつく。
「アトレウス様、王妃様を守れとの命を破り、申し訳もありません」
「キュニスカ、説教は後だ。戦士たちは百人だな?」
「はっ!」
アトレウスが汗を滲ませ、キュニスカに耳打ちする。女戦士は頷き、背後の戦士たちに王の命を静かに伝える。
たちまち戦士たちは音もなく森の奥に溶けて、木々の影に潜んだ。
残った若い魔法戦士に、キュニスカが命じた。
「皆、王妃様を守りなさい!」
魔王戦士たちはアタランテを取り囲む。早速アタランテは彼らに指示した。
「竜に水の魔法をぶつけて!」
頭上で舞う火の竜に、水流を放つ。火の勢いが少し弱まった。
一方、アトレウスは手を掲げる。途端、樹上から矢が森の奥に放たれ、ローブをまとった男たちの群れに降り注ぐ。
「な、なんと野蛮な!」「ひいい! やめてくれ!!」
魔法使いたちは悲鳴を上げて逃げ惑うばかり。
矢が止むと、アタランテが率いた戦士たちが森の奥から現れ、魔法使いを次々と捕まえる。
空の竜は縮み、むなしく旋回する。
アトレウスは森の奥へ声を張り上げた。
「俺は逃げも隠れもしない! 出てこい卑怯者!」
金糸の薔薇が放つ光に包まれた王は、盾を掲げて森の奥に走っていった。
炎の竜は、走る王者を追う。
「待って、アトレウス様!」
アタランテは追いかけようとすると、キュニスカが腕を掴む。
「いけません! アトレウス様はあなたを竜から守るため、囮になっているのです」
魔法戦士たちは王を追い、水の魔法を空の竜にぶつける。
森の奥で、炎の竜はアトレウスに襲いかかる。が、輝くアトレウスは、地を蹴り身体を翻し、火の攻撃を巧みにかわす。アルゴス一の強靭な体力と、アタランテが衣に籠めた想いが、魔法の猛威から王者を守る。
キュニスカが静かに説いた。
「すべての魔法使いを捕えれば、竜は消えます」
「そ、そんな! アトレウス様が危ないじゃない!」
いくら彼が強靭な戦士とはいえ、魔法使いが捕まるまで持ちこたえられるのか?
アタランテは、贄の儀式で群衆の心を鎮めた力を思い起こした。
森の奥に向けて腕を伸ばした。緑色の眼から光が放たれる。
「アルゴスの魔法使いよ! 誇りを忘れたか! 竜が定めた王を殺めるとは、竜の意志に背くこと! もはやお前たちは、竜に選ばれし者にあらず!」
アルゴス王妃の激昂が、森を貫いた。
途端、炎の竜は空に舞い戻り、瞬時に消滅した。
奥から「竜の娘よ!」「どうかお許しよ」と歎く声が響く。誇り高い魔法使いたちが戦士たちに引きずられ、膝をついた。
アトレウスを包む光は消えた。彼は一目散に、妻の元へ駆け戻る。
アタランテは身を強張らせ、声を震わせた。
「ご、ごめんなさい……余計なことして……」
男は女の身体を、固く抱き締める。
「あんたの力で助かった……本当にすまなかった……」
かすれ声が王妃の耳朶をくすぐった。女はこみ上げる物が抑えきれず、男の胸をポカポカと叩く。
「馬鹿馬鹿ばかあああ!! すっごく心配したんだからあああ!」
アトレウスは泣きじゃくるアタランテの巻き毛を撫で、「ごめんよ」「悪かった」と、詫びを繰り返した。
ぞろぞろ戦士たちが戻ってきた。誰もが縄で縛りあげた魔法使いを引きずっている。ひとりが「アトレウス様あ、こいつ、どうしましょう?」と、呑気な声で呼び掛ける。
キュニスカが囁いた
「しっ、お前たち気を利かせないか……あっ」
女戦士は、再会を喜ぶ主人たちをそのままにしたかったが、捕縛された相手を見て顔を引き締めた。
「アトレウス様、アタランテ様、申し訳ありません。こちらを……」
「あ、ごめんなさい、キュニスカ……えっ!」
人目もはばからず抱き合ったアタランテは羞恥に頬を染めるが、戦士が引き立てた男を見るなり顔を覆った。
「あ、ああ……やっぱり、あなただったのね!」
「久しぶりだね、アタランテ」
故郷の村で共に育った幼馴染、ヒッポメネスは、捕縛されたまま膝をつき、王妃を見上げた。




