79 奇跡
アタランテの一行は、都の北の荒れ地を目指した。
都を抜けると、農家がまばらに点在する畑に差し掛かる。やがて日は傾き、川のせせらぎが聞こえてこた。暖かな南風が河原を吹き抜け葦を揺らす。
女戦士たちは隊列を止め、車から盾や槍を降ろした。キュニスカの指示で、野営の支度を始める。
遅れて到着した部隊と合流し、戦士と魔法使い、合わせて百人が河原に集まった。
キュニスカは松明の下、一同を見渡した。
「明日の昼には、北の荒れ地に着く。今、荒れ地の様子を探らせている。明け方には、知らせが入る」
アタランテは、アトレウス救出を命じたものの、実際はキュニスカの指示がないと、部隊は動けない。ただ王妃として励ますしかない。
「みんな、ありがとう。アトレウス様を必ず助けましょう。でも、自分の命を一番大切にして、絶対無茶はしないで」
戦士たちの咆哮が夕暮れの河原に響き渡った。
一通り、戦士たちに指示を済ませたキュニスカは、王妃の寝床を整えた。麻布をオリーブの枝に張り、葦の敷物を敷く。
「アタランテ様、寝苦しいでしょうが、どうぞお休みください」
「私、野宿は平気よ。ありがとうね。あなたもそろそろ休んで」
アタランテは素焼きのカップに川の水を汲み、キュニスカに差し出した。
「キュニスカがいなかったら、ここまで来られなかった。あなたは、戦の支度を整え、みんなをまとめた。普通の戦士にはできないことよ」
護衛は頭を垂れ、王妃から受取った水で喉を潤す。
「ありがとうございます。私は何年も辺境で、アトレウス様に従ってきたので……」
「アトレウス様と共に戦ってきたのね。それは心強いわ」
アタランテは、この優れた戦士に、子守や機織りの手伝いまでさせたことを思い出し、ーいたたまれなくなった。
「あなたは、私の護衛にはもったいないわ。アトレウス様が戻ったら、もっと大きな役目をお願いするわね」
王妃は極上の微笑を女戦士に見せる。
「やめてください!」
キュニスカの大声に、アタランテは身をすくませた。
「アトレウス様は本心では、アタランテ様を自ら守りたいのです。しかし王の役目のため、それは叶いません」
キュニスカは胸を張った。
「私がアトレウス様に代わってあなたを守る……こんな光栄なことはありません」
アタランテは言葉に詰まり、頬を赤く染める。
「生涯、私をアタランテ様の傍に置いてください。水汲みでも洗濯でも、いかようにも働きましょう」
護衛が王妃の手を握りしめる。
「……嬉しい……ずっと傍にいてね。あ、でも」
王妃は、いたずらっぽく緑色の目を輝かせた。
「キュニスカも女の人だもの。いつか結婚するでしょ?」
護衛は眉をビクッと動かすが、すぐ元の涼しい顔に戻った。
「いえ、私は男と必要以上に関わるつもりはありません。ましてや結婚など……」
アタランテは口を開きかけるが、言葉を飲み込んだ。
(キュニスカは男の人が嫌い? でも私のように、突然、男の人を好きになることもある……ううん、余計なお世話ね)
今は、アトレウスを助けることに意識を集中すべきときだ。
王妃は、護衛の作った葦の寝床に潜りこむ。
暖かな南風が頬をくすぐった。
翌朝、一行は、荒れ地を目指して進む。アタランテは(もっと速く)と命じたくなるが、言葉を飲み込む。戦いを知らない自分が口を挟んではならない。
川沿いに沿って進むと、偵察に行っていた二人の若い戦士が待ち構えていた。
一行は足を止めた。キュニスカは二人の偵察者と話し込む。
「ねえ、アトレウス様は無事なの?」
「落ち着いてくださいアタランテ様。さすがはアトレウス様。今のところ、大きな衝突はないようです」
王妃の護衛は、偵察者の報告を元に状況を説明した。
この荒れ地には奴隷たちが暮らす小屋があり、前王メレアグロスもそこにいる。
小屋の入り口には、アトレウスの戦士が二人立っていた。
「アトレウス様は、魔法使いたちが担ぎだす前に、メレアグロスの身を確保したのでしょう」
アタランテは胸を撫でおろす。メレアグロスにいい感情はないが、無事でいてほしい。前王妃デイアネイラも、いくら心が離れたとはいえ、夫の死を歓迎するとは思えない。
「開墾中の荒れ地には誰もいませんでした」
「では、アトレウス様はどこに行ったの?」
キュニスカは「ですから落ち着いて」と、アタランテを宥めて話を続ける。
「荒れ地の北の森へ続く狭い道を、アトレウス様の戦士が見張っていました」
「では、アトレウス様たちは荒れ地の北の森にいるの?」
護衛が大きく頷く。
魔法使いたちがメレアグロスに近づくためには、北の森の狭い道を通るしかない。
「昨日、王宮の武器の蔵から、大量の弓矢が持ち出されていました。アトレウス様は、狭い地形で敵を迎え、弓兵を木々に配し、迎え撃つつもりかと」
「キュニスカ、あなたは強くて優しいだけではなく、賢いのね」
「いえ、それはアトレウス様です」
アタランテは、女戦士の分析力に舌を撒きつつ、頭を傾げる。
「でも森って……火の魔法を使われたら危なくない?」
王妃の護衛が微笑んだ。
「今は南風の季節です。アトレウス様たちは風上、魔法使いたちは風下にいます」
若い魔法使いたちが話に加わった。
「私たちは、風下で火の魔法は禁物と習います。火が風に押し戻され術者を焼くから」
「普通の魔法使いは、風の力に逆らって炎を操れません」
キュニスカが補足する。
「森の南を戦士たちに見張らせているのは、魔法使いたちの侵入を防ぐためでしょう」
「わかったわ。火の魔法の危険はないということね。このまま、北の森へ急ぎましょう」
「はい。アタランテ様、申し訳ありませんが、車は森の中を進めませんので、私のあとに従ってください」
王妃は力強く頷いた。キュニスカがいれば、何も怖くない。
それにアトレウスは無謀な戦いに挑んだのではなく、勝利のために考えて動いているようだ。
彼は必ず戻る。この百人の部隊が無駄になるかもしれない……それこそ一番、望ましいことだ。
荒れ地に到着した。まばらに草と岩が広がる平原に、人影はない。
隊を進めると、奴隷たちの小さな小屋が見えた。槍を手にした二人の戦士が、戸口で見張っている。
戦士のひとりがアタランテの車に気がつき、駆け寄ってきた。
キュニスカが車を止めた。アタランテは近づいてきた戦士に「アトレウス様を助けに参りました」と告げる。
戦士は「今すぐ都にお戻りください!」と阻むが、王妃は毅然と「キュニスカ、車を進めて」と指示する。
そのまま見張の戦士は、北の森に駆けていった。アトレウスに、王妃の救援を告げるつもりだろう。
アタランテは車上で頭を巡らす。
(あの人は、私を邪魔だと追い返すでしょうね……ううん、そんなことを気にしている場合ではない……)
王妃は火の魔法の件が引っかかった。風下では火の魔法は禁物、しかし……。
「キュニスカ、水を用意できない? 川は近いし、奴隷小屋には水瓶があるでしょ?」
女戦士は首を捻りつつも車を止め、若い戦士たちに水汲みに行かせた。
「アタランテ様、やはり火の魔法を警戒されているのですか?」
「万が一ね……あ、森が見えてきたわ」
一行は森の入口に到着した。アタランテは車を降りる。キュニスカは、馬をオリーブの木に繋いだ。
森を見張っていたアトレウスの戦士が駆けより、例によって「お戻りください」と主張する。
そのとき。
青空に真っ赤な竜が、出現した。
「アタランテ様! お待ちを!」
王妃はキュニスカの制止を無視し、考える間もなく、森の中に駆けこんだ。
(普通の火の魔法は、風下では使えない。でも、強力な魔法なら? 私もみんなもよく知ってるじゃない!)
アタランテは思い出した。アトレウスと出会った日の生贄の儀式を。自在に火の魔法を操る魔法使いを。
都の広場で、群衆の前に見事な火の竜を踊らせた幼馴染を。
(ヒッポメネスみたいな強い魔法使いなら?)
アタランテは木々の間を走り抜け、青い布を羽織る大男の背を捉えた。背中に三つ編みの金髪を垂らしている。彼の周りに他の戦士はいない。
(アトレウス様!)
空に舞い上がる大きな炎の竜は、一目散に男に襲いかかった。
いくらアタランテが走っても、間に合わない。
アトレウスは、まさに炎に飲み込まれようとしていた。絶望が、アタランテの目に涙を流す。
(嘘! ここまで来たのに? いや! そんな!)
このまま走れば、黒焦げになったアトレウスを目にするだろう。
(いいえ! 諦めない!)
夫が炎で黒焦げになろうが、竜の娘の力で生き返らせるのだ。死人を生き返らせたことはないが、奇跡が起こるかもしれない。いや起こしてみせる!
悲壮な決意を固めたアタランテは、信じがたい光景を目の当たりにした。
アトレウスは炎に飲み込まれる瞬間、身を躍らせ赤い竜の攻撃を交わす。
男が地面を蹴ったその刹那。
王者の全身から光が放たれ、ゆっくり森の中を上昇していった。




