77 王の出立
アトレウスがメレアグロスを訪ねると言ってから、ますます彼は忙しく王宮を駆け回るようになった。
忙しいのは王だけではない。
王宮内に、見知らぬ男たちがうろつき始めた。遠方からの商人らしい。荷車のきしみ音が響き渡る。
食堂にも見知らぬ者が入り込み、言い争いが絶えない。汗と酒の匂いが立ち込める。
隣のアトレウスは妻を気遣う。
「アタランテ、パンもチーズも残ってるぞ」
「お腹いっぱいなの。あなたが食べて」
王妃は物言いたげな王を残し、食堂を出て寝室に戻る。
慌ただしい王宮の様子が気になるのか、このところ食が進まない。
寝台に横たわっていたら、アトレウスが入ってきた。
「残りのパンを持ってきたぞ。腹が減ったら困るだろう」
男はトレーを掲げ、テーブルの上に置く。
「アトレウス様、侍女の真似をしなくたって……いいえ、ありがとう」
男は寝台に腰を下ろし、妻の額をそっと撫でた。
「部屋に食事を運ばせるか。食堂はがやがやして、落ち着かないだろ」
アタランテは身を起こして首を振る。
「いいえ、私は何もできない王妃だけど、みんなと一緒にいたいの」
アトレウスは女の手を握り、寂しげに微笑んで去っていった。
慌ただしいのは食堂だけではなかった。
機織り部屋でも女たちが「うちの旦那もしばらく留守にするって」「うちのはずっと鍛冶部屋にこもりきりよ」と落ち着かない。
(私は……政に口出ししない)
王妃は目の前の経糸と緯糸に意識を集中させた。作業がつらくなるたび、衣をまとい輝く男の姿を思い描く。黄金の髪と青い眼を。
部屋の女たちは忙しそうだが、それでも手伝ってくれる。
「王妃様、少しお休みください」
「ありがとう。ねえ、キュニスカ」
傍らの護衛に呼びかける。
「久しぶりに、槍を教えてくれない?」
中庭で王妃は息を弾ませ、槍を何度も突き出す。
「駄目だわ、鍛錬を怠けていたから……はあ、はあ」
息を切らした王妃は地面に膝をつく。護衛はカップに湛えた水を、女主人に渡した。
「アタランテ様、少し休みましょう」
キュニスカは王妃の足元にしゃがみ込む。
が、渡り廊下から「なにをしてるの!」と甲高い女の声が聞こえてきた。
見ると、デイアネイラがこちらを睨んでいる。
「キュニスカ! 王妃様に危ない真似をさせては駄目でしょう!」
アタランテは慌てて立ち上がり、前王妃の元に駆け寄る。
「お母様、キュニスカを叱らないで。私が無理を言って付き合わせたの」
「アタランテ様、怪我でもされたらどうするの?」
王妃の護衛が近づき、割り込む。
「失礼ですが、デイアネイラ様。王妃様は王様を守るため鍛えているのです」
「アタランテ様、アトレウス様はアルゴス一の戦士。あなたに守られる弱い男ではないわ。もっと王妃の自覚を持って」
「あ……はい……かしこまりました」
若い王妃は護衛に「キュニスカ、ごめんね。今日はありがとう」と言い残し、中庭を後にする。
女はひとり、幼子と遊んだ裏手の茂みに向かった。
薄紅色の薔薇が風に揺れる。わけもなく涙がハラハラとこぼれる。
「駄目よ、こんなところで泣いたら」
あの人の望みは、自分が笑うこと。
「機織り部屋に戻ろう……そろそろ衣を染めて、刺繍を入れないと……」
澄み切った青空に、高く昇った陽が輝いていた。
王妃は機織り部屋で、染め上げた衣に黙々と刺繍を施した。
「できたわ!」
立ち上がり、布地を広げて光に透かす。
アタランテは、仕上げたばかりの衣に頬を寄せた。
「お願い……あの人の傍にいて。私の代わりにあの人を守って」
女たちは微笑み、衣を抱きしめる王妃を見つめていた。
満月が沈み、朝焼けがアルゴスの王都を照らす。
アトレウスの立つ日がやってきた。
アタランテは侍女たちを連れ、デイアネイラ、そしてランペイオスやエケモスら重鎮たちと王を見送る。
車が何台も並び、馬のいななきが宮に響く。車には荷物が詰め込まれ、大きな布がかかっている。
「あなた様が車なんて珍しいわ」
「たまには王様らしくしないとな」
普段、彼は遠方に出かけるとき、二、三人の従者を連れるだけ。
だが今は、二十人の若い戦士を連れている。
王妃は微笑み、王に鮮やかに青く染められた衣を差し出す。
「間に合いましたわ。寒くなるからこちらを」
青い布をバサッと広げた。縁は薔薇の金糸の刺繍で飾られている。アトレウスの青い眼と黄金の髪を映した衣。
アタランテは腕を伸ばし、アトレウスの肩にかける。職人が掘った黄金のブローチで、布を留めた。
重鎮たちが「王妃様の技のなんと見事なこと!」と歓声を上げる。
アタランテは笑顔で首を振る。
「いいえ、私だけでは間に合いませんでした。宮の女たちが、王様のために糸を紡ぎ、機を織ったのです」
王妃は連れてきた女たちに笑みを送る。アトレウスも笑い返す。
「忙しかっただろう。みんな、ありがとうな。大切に着る」
「王様らしくなりましたよ」
アタランテは精一杯の笑顔で涙をこらえる。
「そんな顔するなよ。帰ったら可愛がってやるからさ」
男は女を抱きしめ、長い口づけを交わす。
驚く者や冷やかす者がいて、二人は歓声に包まれた。
馬のいななきと共に、戦士たちは王宮を立った。
土煙の中、車軸のきしむ音や重い金属音が響き、遠ざかっていった。
ほどなく王宮は静寂を取り戻す。
賢者たちが「では」と顔を見合わせ、引き返そうとするところ、アタランテは口を引き締めた。
「待ちなさい!」
鋭い王妃の声に、一同は足を止め、振り返った。
「アトレウス様は戦を起こすつもりですか?」




