表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/183

77 王の出立

 アトレウスがメレアグロスを訪ねると言ってから、ますます彼は忙しく王宮を駆け回るようになった。

 忙しいのは王だけではない。

 王宮内に、見知らぬ男たちがうろつき始めた。遠方からの商人らしい。荷車のきしみ音が響き渡る。

 食堂にも見知らぬ者が入り込み、言い争いが絶えない。汗と酒の匂いが立ち込める。

 隣のアトレウスは妻を気遣う。


「アタランテ、パンもチーズも残ってるぞ」


「お腹いっぱいなの。あなたが食べて」


 王妃は物言いたげな王を残し、食堂を出て寝室に戻る。

 慌ただしい王宮の様子が気になるのか、このところ食が進まない。

 寝台に横たわっていたら、アトレウスが入ってきた。


「残りのパンを持ってきたぞ。腹が減ったら困るだろう」


 男はトレーを掲げ、テーブルの上に置く。


「アトレウス様、侍女の真似をしなくたって……いいえ、ありがとう」


 男は寝台に腰を下ろし、妻の額をそっと撫でた。


「部屋に食事を運ばせるか。食堂はがやがやして、落ち着かないだろ」


 アタランテは身を起こして首を振る。


「いいえ、私は何もできない王妃だけど、みんなと一緒にいたいの」


 アトレウスは女の手を握り、寂しげに微笑んで去っていった。



 慌ただしいのは食堂だけではなかった。

 機織り部屋でも女たちが「うちの旦那もしばらく留守にするって」「うちのはずっと鍛冶部屋にこもりきりよ」と落ち着かない。


(私は……政に口出ししない)


 王妃は目の前の経糸(たていと)緯糸(よこいと)に意識を集中させた。作業がつらくなるたび、衣をまとい輝く男の姿を思い描く。黄金の髪と青い眼を。

 部屋の女たちは忙しそうだが、それでも手伝ってくれる。


「王妃様、少しお休みください」


「ありがとう。ねえ、キュニスカ」


 傍らの護衛に呼びかける。


「久しぶりに、槍を教えてくれない?」



 中庭で王妃は息を弾ませ、槍を何度も突き出す。


「駄目だわ、鍛錬を怠けていたから……はあ、はあ」


 息を切らした王妃は地面に膝をつく。護衛はカップに湛えた水を、女主人に渡した。


「アタランテ様、少し休みましょう」


 キュニスカは王妃の足元にしゃがみ込む。

 が、渡り廊下から「なにをしてるの!」と甲高い女の声が聞こえてきた。

 見ると、デイアネイラがこちらを睨んでいる。


「キュニスカ! 王妃様に危ない真似をさせては駄目でしょう!」


 アタランテは慌てて立ち上がり、前王妃の元に駆け寄る。


「お母様、キュニスカを叱らないで。私が無理を言って付き合わせたの」


「アタランテ様、怪我でもされたらどうするの?」


 王妃の護衛が近づき、割り込む。


「失礼ですが、デイアネイラ様。王妃様は王様を守るため鍛えているのです」


「アタランテ様、アトレウス様はアルゴス一の戦士。あなたに守られる弱い男ではないわ。もっと王妃の自覚を持って」


「あ……はい……かしこまりました」


 若い王妃は護衛に「キュニスカ、ごめんね。今日はありがとう」と言い残し、中庭を後にする。

 女はひとり、幼子と遊んだ裏手の茂みに向かった。

 薄紅色の薔薇が風に揺れる。わけもなく涙がハラハラとこぼれる。


「駄目よ、こんなところで泣いたら」


 あの人の望みは、自分が笑うこと。


「機織り部屋に戻ろう……そろそろ衣を染めて、刺繍を入れないと……」


 澄み切った青空に、高く昇った陽が輝いていた。



 王妃は機織り部屋で、染め上げた衣に黙々と刺繍を施した。


「できたわ!」


 立ち上がり、布地を広げて光に透かす。

 アタランテは、仕上げたばかりの衣に頬を寄せた。


「お願い……あの人の傍にいて。私の代わりにあの人を守って」


 女たちは微笑み、衣を抱きしめる王妃を見つめていた。



 満月が沈み、朝焼けがアルゴスの王都を照らす。

 アトレウスの立つ日がやってきた。

 アタランテは侍女たちを連れ、デイアネイラ、そしてランペイオスやエケモスら重鎮たちと王を見送る。

 車が何台も並び、馬のいななきが宮に響く。車には荷物が詰め込まれ、大きな布がかかっている。


「あなた様が車なんて珍しいわ」


「たまには王様らしくしないとな」


 普段、彼は遠方に出かけるとき、二、三人の従者を連れるだけ。

 だが今は、二十人の若い戦士を連れている。

 王妃は微笑み、王に鮮やかに青く染められた衣を差し出す。


「間に合いましたわ。寒くなるからこちらを」


 青い布をバサッと広げた。縁は薔薇の金糸の刺繍で飾られている。アトレウスの青い眼と黄金の髪を映した衣。

 アタランテは腕を伸ばし、アトレウスの肩にかける。職人が掘った黄金のブローチで、布を留めた。

 重鎮たちが「王妃様の技のなんと見事なこと!」と歓声を上げる。

 アタランテは笑顔で首を振る。


「いいえ、私だけでは間に合いませんでした。宮の女たちが、王様のために糸を紡ぎ、機を織ったのです」


 王妃は連れてきた女たちに笑みを送る。アトレウスも笑い返す。


「忙しかっただろう。みんな、ありがとうな。大切に着る」


「王様らしくなりましたよ」


 アタランテは精一杯の笑顔で涙をこらえる。


「そんな顔するなよ。帰ったら可愛がってやるからさ」


 男は女を抱きしめ、長い口づけを交わす。

 驚く者や冷やかす者がいて、二人は歓声に包まれた。



 馬のいななきと共に、戦士たちは王宮を立った。

 土煙の中、車軸のきしむ音や重い金属音が響き、遠ざかっていった。

 ほどなく王宮は静寂を取り戻す。

 賢者たちが「では」と顔を見合わせ、引き返そうとするところ、アタランテは口を引き締めた。


「待ちなさい!」


 鋭い王妃の声に、一同は足を止め、振り返った。


「アトレウス様は戦を起こすつもりですか?」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ