76 王者の衣
アトレウスは都に落ち着くといったものの、都を見回ったり王国の重鎮たちと話し合ったりと忙しい。
アタランテは、寂しさを埋めるように機織り部屋に籠る。幼いクリュメネを傍において。
紡いだ糸を五本ほど取り、小さなテラコッタの重りを結ぶ。機織り機に垂らすと、重りの力で経糸が張られる。張られた経糸に対して垂直に、細長い木の杼を使い緯糸を通し、杼を下ろす。
長く続けると、腕が重くなってくる。
「魔法で簡単に布が現れればいいのに」
半日も機織りに精を出したのに、細い帯ができあがっただけ。この調子ではいつ仕上がるのか。アタランテはため息をつく。
「アタランテ様なら、できますって」
機織りの女たちがからかう。
「私の力は女の仕事には、役立たないの。土と風の魔法を使えば助けになるけど、儀式の衣でない限り竜は許さないって、母が言ってたわ」
「王様の衣ですよ。魔法使いに手伝ってもらいましょう」
アタランテはブルネットの巻き毛を指に絡め、考え込む。
魔法を使うといっても、つむを速く回し、杼を上下に動かしてくれるだけ。
それに、アトレウスは……。
「私、自分の力で頑張るわ」
彼は魔法が嫌いだ。
機織り部屋の女が王妃の肩を揉む。
「そろそろ、あたしたちに織らせてください。王妃様には、染める色と縁取りを考えてもらって」
アタランテは腕を伸ばしぐるぐる回した。
「ありがとう。みんなの気持ちがこもった衣、アトレウス様も喜んでくれるわね。そう、クリュメネは?」
退屈そうに糸のつむを回す幼女に声をかける。
「待たせたわね。庭で追いかけっこする?」
「アタしゃま、ひみつしたい」
「そうね、秘密しようか」
王妃はクリュメネの顔をのぞき込み、いたずらっぽく笑った。
裏庭の灌木に、薄紅色の花が咲いている。
「この前より薔薇が減っているわ。少し寒くなったから? このまま枯れてしまうのは、もったいないわね」
王妃は一輪の薔薇を摘む。トゲを抜いて幼女の左耳の上に挿してやった。
「あなたはお祖母様に似てるから、美人になるわ」
その途端、幼女は涙をボロボロとこぼした。
「どこか痛いの? 眠い? お腹すいた?」
子供は首をプルプルと振った。
「かあしゃまあ……」
ここにきてアタランテは、幼女の寂しさに気がついた。
まだ母親から片時も離れたくない年頃なのに、よく知らない女に預けられているのだ。
「ごめんね。泣かせてしまったわね。すぐお母様の元に行きましょう」
クリュメネの母であるかつての王女ペリポイアは、王宮の西の離れで賢者の夫と暮らしている。
出産を控え養生しているとはいえ、一目でも母に会わせてやりたい。
ペリポイアの館を訪れると門番が出迎えた。館の侍女の案内で廊下を進む。
幼女は飛び跳ね、アタランテの腕から離れ、「かあしゃま!」と走り出した。
「クリュメネ! お母様は具合悪いのよ! 待って」
「お嬢様! 危ないですって」
館の侍女たちと共に子供を追いかける。大きな腹の若い女が廊下に現れた。
「クリュメネ! もう帰ってきたの?」
幼子は母の太ももにしがみつき「おなかすいた~」と口を尖らせる。アタランテには見せたことのない不機嫌顔。
母親も幼女と同じ顔をして叱る。
「王妃様に迷惑かけるんじゃないの!」
王妃は母子のやりとりを微笑ましく眺めつつも、疑問がわいた。
妊婦の肌は輝き、声にも張りがある。
「あの、ペリポイア様の具合が悪いからクリュメネちゃんを預かってほしいと、デイアネイラ様に言われたのですが……」
「え? 私は母から、王妃様を慰めるために娘を差し出せと言われ……まだ小さいからかえって迷惑になると言ったのですが……」
クリュメネは女たちの戸惑いなど気に留めず、母親に髪に止めた薔薇を見せた。
「ひみつなの」
「あら、きれいな薔薇。王妃様からいただいたのね」
幼女は自分の右耳の上を指し「こっち、こっち」と甘える。
「はいはい、贅沢さんね」
母親は子どもの頭に貝殻の髪飾りを着けた。
クリュメネは、ご機嫌よろしく走り回っている。
この子は毎日、母親に髪飾りをつけてもらっていたのだろうか。
「ふふ、私が薔薇を挿したからお母様を思い出したのね」
王妃の緑色の眼に、母と娘が眩しく映った。
アタランテはクリュメネの祖母を訪ねた。
「お母様、お心遣いはありがたいのですが、小さいクリュメネをペリポイア様と何日も引き離すのは可哀想です」
「アトレウス様に頼まれたのよ。あなたに役目を与えてくれって」
若き王妃は口をつぐむ。夜、留守がちなアトレウスに、自分が役立たずだと涙ながら訴えたのだ。
「そ、それで私にクリュメネちゃんを……申し訳もありません」
夫が数日宮を空けただけで寂しいのに、デイアネイラは……かつての王妃の状態が気になる。
「お母様は寂しくないのですか? メレアグロス様と離れて……」
「あの男が今、何をしているかは気になるわ」
「そうですよね。長年連れ添ったご夫君と離れて」
「勘違いなさらないで。あの男に余計なことをされると、私や子どもたちの立場が悪くなるでしょう?」
若き王妃は首を傾げる。
「あたしたちの一族は、代々の王を助けてきたのよ」
「はい。弟君のエケモス様は、戦士たちをまとめてくださっています」
「だから、あたしは、魔力のあるメレアグロスに嫁がされたの。王になるかもしれないと」
アタランテは緑色の眼を見開いた。デイアネイラが唇をゆがめて笑う。
「あなた様のように、想った男と結ばれる女は珍しいの。でも、王が気まぐれに選んだ女に、一族で守ってきた王宮を渡すわけにいかないわ」
アタランテは唇を引き締め、自分の役目を悟った。
デイアネイラとエケモスの一族が守ってきた王宮を、よそ者であるアタランテに譲るわけにはいかないのだ。
「宮のことはお母様にお願いします。私の役目は、アトレウス様の衣を織ることですから」
「あの人はどのような衣でも見栄えするでしょうね」
デイアネイラはうっとりと目を細めた。
衣をアトレウスに相応しい色に染めたい。
結婚して半年近く経つが、彼が戦士や賢者たちにどう振る舞っているのかよくわからない。
(王者としてのあの人を見てみたい。どんな衣が似合うかしら)
アタランテはキュニスカと共に厨房に乗り込んだ。ミントの葉の束とお湯をくんだ壺にいくつものカップを用意させた。
それらを盆に乗せ、キュニスカと厨房の女を連れ、玉座の間へ進む。
玉座の間では日々、アルゴス国の重鎮が集まり、国の行く末を話し合っている。アトレウスから近づくなと、口酸っぱく言われていた。
政務に干渉するつもりはない。アルゴス王としての夫を目に焼き付けたいだけ。
玉座の間に近づくと、言い争う男たちの声が聞こえてくる。
「アトレウス様! 急激な変化は民の反感を買いますぞ!」
賢者の長、ランペイオスが若い王を責めている。
「ランペイオス殿、アトレウス様は王だ! 魔法使いたちこそ王を敬うべきじゃないか!」
戦士の長、エケモスの声が重なった。穏やかではない様子に構わず、アタランテは女たちを連れて玉座の間に踏み込んだ。
「失礼します。みなさま、一休みされてはいかがです?」
アルゴスの重鎮が一斉に美声の持ち主を凝視する。
群臣たちは大きなテーブルを囲み座っている。
玉座は空っぽだった。
座の主はランペイオスの傍に立っている。普通の戦士と同じ短いキトンを着けた彼は、護衛兵のときと何ら変わらない。
「アタランテ! なぜここへ来た?」
王妃は微笑みを崩さない。
「ごめんなさい。寂しくなって、あなたに会いたくなったの」
女たちはミントの葉をカップに散らしてお湯を注ぎ、重鎮たちに手渡す。広間がさわやかな香りに満たされた。
エケモスが笑った。
「これはこれはありがたい。王妃様、ごちそうになります」
戦士の長はゴクゴクとミントの茶を喉に流し込んだ。
アタランテは「あなた様も」とアトレウスとランペイオスにカップを渡す。
賢者の長は目を吊り上げたままだ。
「王妃様、王は魔法使いを蔑ろにしております!」
「ランペイオス! 私に言うべきことを、なぜ王妃に訴える!」
アトレウスの怒号が玉座の間に響く。
(争うこの人たちの気持ちを静めれば……だめ、この力を使ってはいけない……)
アタランテは緑色の眼を閉ざした。笑みを湛えて。
「ランペイオス様、私に政はわかりません。ただ、皆様が仲良く話し合われることを望みます」
王妃は瞼を開き、背を向けた。
「お待ち下さい! このままではメレアグロスの元に……」
「ランペイオス、黙れ!」
アタランテは振り返るが、アトレウスの青い眼光に怯み、女たちと共に立ち去った。
石壁の窓から射す月の光。アタランテは寝台に腰掛けて待つ。
灯火が揺れ、恋しい男が現れた。
男は女の隣に腰を降ろし、長い指を女の濡れた前髪に絡める。
「湯あみをしたのか。きれいだな」
「昼間はごめんなさい。来るなと言われたのに……」
俯く妻の額に、夫は口づけを落とす。
「すまなかった。あんたが会いに来てくれたのに、怒鳴ったりして」
女は首を降って、男の胸に頭を預ける。
「ランペイオス様がおっしゃっていたけど、メレアグロス様に何かあったの? デイアネイラ様……お母様も心配しているわ」
男は女の剥き出しの肩を抱き寄せる。
「そうだな。次の満月に、ジジイの様子を見にいくか」
途端、女は顔を輝かせ、男の首にしがみついた。
「よかった。お母様も安心するわ。ランペイオス様とも仲良くしてね」
「一月ほど留守にするぞ」
男は妻の首すじに唇を這わせた。女は瞼を閉ざす。
「あんたに玉座の間に来てほしくないのは……」
アタランテは唇を結ぶ。この人はまだ許してくれないのか。
「あんたの可愛い顔を見ると、昼間でもこんなことしたくなるから、困るんだ」
「ば、馬鹿! なに言ってるの!」
満ちた月に照らされ、二人はクスクスと笑い抱き合った。




