75 一番幸せな女
アタランテは紡いだ糸を見てため息をついた。
「もうすぐ夕方なのにこれだけ……形になるかしら」
一日、つむをくるくる回してできたのは一束だけ。羊毛でこすれた指がヒリヒリ痛む。
機織り部屋は夕暮れに染まり、アタランテの背後で織機がリズムを刻む。
キュニスカが労った。
「あまり、根を詰めすぎないでください」
「ありがとう。村では母に怠け者と叱られたけど、今は頑張りたいの」
アタランテは今更ながら、母の小言の正しさを噛みしめる。
かつては求婚者が殺到し、竜の娘として崇められていた。無意識のうちに、普通の女としての務めを軽んじ、驕っていたのかもしれない。
機織り部屋の女たちが、若き王妃のもとに集まる。
「アタランテ様、糸紡ぎならあたしたちがやりますのに」
「みんな、忙しいでしょ? 戦士の服はすぐ破れるし、繕うのも大変でしょうに」
若い娘たちは目を輝かす。
「いいえ! アトレウス様の衣ですもの! あたしたちにも手伝わせて下さい!」
王妃は女たちを見回す。彼女たちは、本心から衣の仕立てに加わりたいようだ。
(アトレウス様って王様になる前から人気者だったのね……みんな私と同じ気持ちだわ)
王妃は戸惑いつつ笑顔を見せた。
「わかりました。私ひとりでは一年経っても終わらないわ。みんなで一緒に糸を紡ぎ、アトレウス様の衣を仕上げましょう」
女たちは歓声を上げる。
キュニスカが「良いことをなさいましたね」と微笑んだ。
ふと「ばあば、ばあば」と幼子の声が遠くから聞こえてきた。
「まあ、デイアネイラ様に、クリュメネちゃん!」
前王妃が小さな孫娘を連れて機織り部屋に入ってきた。
「アタランテ様、糸紡ぎを始めたのね。槍を持って怪我するよりいいことだわ」
「ありがとうございます。慣れないので苦労しています」
「おほほ、竜の娘は、女のつまらない仕事はされなかったのでしょう」
若き王妃は顔を伏せる。キュニスカが割り込んだ。
「デイアネイラ様、王妃様は、故郷でも糸紡ぎをされたそうですよ」
「いえ、私、恥ずかしいことに女の務めを怠っておりました。デイアネイラ様、私をお導きください」
「まあ、あたくしがあなた様を教えるなんてとんでもないこと。別にお願いがありますの」
クリュメネの祖母は王妃に微笑む。
「アタランテ様、不躾ですが、しばらくクリュメネの面倒を見てもらえませんか? 娘が……この子の母が出産を控え体調が思わしくなく、大事を取っています」
「それでは、クリュメネちゃんも不安ですよね」
「いいのよ、念には念をということなのでご心配なく。あたくしがこの子を預かっていますが、アトレウス様が留守の時だけでも、この子と遊んでやってくださいな」
デイアネイラの温かな声がアタランテを力づける。
「私でよければ喜んで」
小さくとも、王宮で人の役に立てるのだ。
アタランテはしゃがみ込み、幼いクリュメネの頭を撫でた。
「クリュメネちゃん、いい子ね。もうすぐパンが焼けるわ。一緒に食べようね」
アタランテは子供の手を引いて、食堂に向かう。キュニスカが後に従った。
王宮の主だった者が大きなテーブルを囲みスープを啜る中、王妃はぎこちなくもクリュメネにチーズを食べさせる。
夜、同じ床につき、子守唄を聴かせて寝かしつけた。
幼子の寝顔を見つめるうちに、ここにいないアトレウスの顔を思い浮かべる。
彼の子を産み、寝かしつける日は来るのだろうか?
王妃の甲高い声が、機織り部屋に響く。
「クリュメネ! 毛をまき散らさないで、こっちにいらっしゃい!」
子供は機織り部屋の隅にまとめてある羊の毛の束がお気に入りで、丸めてはふわふわ飛ばす。
「ね、糸紡ぎを手伝ってくれない? 王様の衣にするの。そうそう……上手よ!」
アタランテは、幼い子の手を取り、つむを回させた。と、アタランテの指から糸が、面白いように次々と生まれる。
「クリュメネ、あなたもいつかは好きな人のために糸紡ぎするのよ。小さいうちからやらないと、私みたいに苦労するからね」
が、子供は何度かつむを回して飽きたのか、またどこからか羊毛の束を持ってきて、遊びはじめた。
アタランテは作業を中断して、子供の手を引いて部屋を出る。
クリュメネは機織り部屋出た途端、バタバタと駆けだした。
「まって~!」
走る子を追いかけ、王宮の裏庭に出た。草が茂り、手入れはされていないようだ。
アタランテは茂みの中にうずくまる子供を捕まえ、抱きかかえた。
「もう! 危ないって。走るなら中庭に戻ろう」
が、子供は王妃の声を気に留めず、一点を凝視している。アタランテはクリュメネの視線をたどった。
「あ……なんてきれい……」
茂みが開けた向こうには、背の高さほどの灌木が伸びていた。薄紅色の小さな花が咲き乱れている。
アタランテは子供を抱えたまま、ゆっくりと近づく。
女はクリュメネの小さな頬に唇を寄せた。
「ありがとう。あなたのおかげで、きれいなお花を見つけたわ」
「おはな?」
「そうよ。バラよ」
「ばら?」
薄紅色の五枚の花びらと黄色いおしべが、夕陽に染まり輝いている。鼻を寄せると甘やかな香りが漂ってきた。
クリュメネはアタランテの腕の中で、おとなしく花を見つめている。
ほどなく「王妃様~」とキュニスカの呼び声が遠くから聞こえてきた。
「戻ろうか。ここは二人の秘密の場所にしようね」
「ひみつひみつ」
幼女は王妃のブルネットの巻き毛を掴み、キャッキャとはしゃいだ。
女は夕陽に染まる薔薇を見て思い浮かべる。花のように鮮やかな夫の笑顔を。
数日間、アタランテはクリュメネと共に糸を紡ぎ、裏庭の薔薇を眺めて過ごした。
夕方になると、ざわめく食堂で王妃はクリュメネにチーズを食べさせる。
「王様がお戻りです」
見習い戦士の声が響き渡る。王妃は幼子の手を取って立ち上がった。
アトレウスがサンダルを鳴らして「戻ったぞ」と声を張り上げ、アタランテに近づいた。
「アタランテ! 会いたかったぞ……おお、クリュメネも一緒か」
男は腰を降ろし、幼女の頭を撫でる。
前王妃がすっと現れた。
「まあアトレウス様。仕事にかまけて新妻を寂しがらせては駄目よ」
「すみません、母上」
アタランテの緑色の眼が光った。
「アトレウス様、母上って……」
「俺には母親がいないから、デイアネイラ様が母のように優しくしてくれたんだ」
前王妃は、うっとりとアトレウスを見つめる。
「ほほ、あたくしこそ、あなたのような立派な息子を持てて幸せよ」
王妃は二人を見比べ、切り出した。
「あなた、デイアネイラ様に恩があるのね。では私もお母様と呼んでよろしいでしょうか?」
幼女の祖母は眉を寄せたが、すぐ微笑みを取り戻す。
「あらあら、竜の娘であった王妃様に母と呼ばれるなんて、光栄なことですわ」
デイアネイラは幼女の手を握った。
「ささ、クリュメネ、王様と王妃様を邪魔してはいけませんわ」
女は孫を連れて、艶然と去った。
女は、夫と七日ぶりに寝台で寄り添い、語り合う。
「私はアルゴス、いいえゴンドレシア一の幸せ者ね。クリュメネは可愛いし、王宮のみんなもデイアネイラ様……お母様も気を遣ってくれて……」
「あんたが元気になってよかった」
自分は大国アルゴスの王妃として、王宮の者に慕われている。
しかし、この熱い腕の中で過ごすひととき以上の幸せはない。
「ずっと夜のままならいいのに」
「ん? 夜のままだと、あんたの願いは叶わないぞ」
「願い?」
「生贄をアルゴスからなくさないと、またあんたは、儀式で嫌な役目を押し付けられる」
「あ……贄の儀式……」
アタランテは顔を覆った。
アルゴスから生贄を失くす。それは彼女の願いだったはず。
「私、最低ね。あなたに生贄を失くして欲しいとお願いしたのに、忘れて遊び惚けて……」
「そりゃよかった。あんたが遊び惚けてくれるのが俺の願いだ」
暗がりの中、アトレウスの声が優しく響く。
「よかった?」
男の指が、女の巻き毛に絡みつく。
「俺……あんたのこと、嫌な女だと思ってた」
「私、何かした?」
思わずアタランテは身を起こす。
「落ち着けよ。俺が辺境の戦いから王宮に戻るたび、戦士も魔法使いもあんたの噂ばかりでさ」
アトレウスは滔々と語る。
竜の娘は類まれな魔法使い。貴族や魔法使いの求婚をすべて斥ける、絶世の美女。奴隷上がりの戦士には無縁の女。
「大体、俺はお高く留まった美人より、自分を慕ってくれる普通の女が好きだったからな」
アタランテは申し訳ない気持ちになり、身を竦ませる。
「でも儀式の日、あんたは子供の怪我を治して笑って……俺の予想していた美女とは全然違って、参ったよ」
男は切なげに微笑む。
「あんたに会わなけりゃ良かったのにってね」
「ど、どうして!?」
「絶対に手に入らない女に本気で惚れるなんて、こんな苦しいことはないだろ」
女は口を尖らせた。
「私、言ったわ。たとえ奴隷でも、自分が決めた方にお仕えしますって!」
「あははは、泣かれるより怒られる方がいいな」
アトレウスは身を起こし、アタランテの唇を吸い取った。
「領地の見回りは落ちついた。しばらく毎晩あんたとこうしていられる」
青い双眸が月明かりに揺れる。
(私、このままでいいのかしら……でも、夜が明けるまでは、このままでいさせて……)
女は男の背に腕を回し、ぎゅっと力を込めた。




