74 普通の女
「キュニスカ、今日も食い意地の張ったわがままな王妃やるわよ」
「アタランテ様、そんな言い方しなくても……」
王妃は女戦士を連れて昼間の厨房へ向かい、「お腹空いたわ」と干しブドウとクルミを狙うが、いつもと様子が違った。
テーブルに小さなカップが二十個ほど並べてあり、干しブドウとクルミのほか山羊のチーズが混ぜてある。
アタランテが首を傾げていると、料理長の中年女が笑顔を向けた。
「そろそろ王妃様が来ると思って、戦士さんたちへの差し入れを用意しましたよ」
厨房の若い娘たちがテキパキとトレイにカップを載せ「中庭に持ってきますね」と出ていく。
女戦士は主人に笑いかけた。
「良かったですね。食い意地の張ったわがままな王妃と思われてなくて」
王妃は、キュニスカに困った顔を見せた。
「いつも夕餉の仕度で忙しそうにしてたから、黙ってたんだけど……」
若き王妃は料理長に礼を述べ、娘たちに着いていく。
中庭では、革の胸当てを着けた男たちが、ローブの若者を励ましている。
「そうだ。盾を素早く突き出せ」
「大分、筋が良くなってきたな。もっと大きく踏み込め」
厨房の娘の一人が、極上の笑顔を向けた。
「はーい! 疲れたでしょ? 王妃様からの差し入れですよ!」
年嵩の戦士が目を丸くする。
「おいおい、ぞろぞろとお前ら、どうした?」
「王妃様に下働きをさせたら、申し訳ないもの」
女たちはそれぞれカップを戦士や魔法使いに手渡す。中には見つめあい微笑を交わす男女もいた。
アタランテはキュニスカにそっと囁く。
「ねえ、もしかして私、いい感じに使われた?」
どうやら女たちには、それぞれお目当ての男がいるようだ。
「今は仕事中でしょうに。愛を語るなら、日が沈んでからにしてほしいですね」
「ふふ、みんな仲良しね。羨ましいわ」
王妃は眩しいもの見つめるように目を細める。
「何を言うんです、王宮の女たちみんな、アタランテ様を羨ましがってますよ。あ、ほら、そろそろ」
キュニスカは、渡り廊下に目を向けた。バタバタとサンダルの音が近づいてくる。
中庭にひときわ目立つ大きな男が現れた。
「アタランテ、ここにいたんだな!」
「アトレウス様。十日ぶりですね。怪我はしていない?」
男は妻の問いに答える前に、その身を引き寄せ強く抱きしめる。男の腕の中、アタランテは顔を赤らめた。
女たちは「アトレウス様、本当にアタランテ様がお好きなのね」「あたしも早くお嫁さんになりたい」と囃し立て、「じゃ、あたしたち、湯浴みの支度します」と渡り廊下に向かった。
王妃の護衛キュニスカも一礼して立ち去る。
残されたアタランテは「お湯が沸くまで、お休みください」と夫を促す。が、男は妻の視線を跳ね除け、戦士と魔法使いの元に近づき睨み付けた。
「お前らに、仲良くチーズを舐めろと言った覚えはない」
アタランテは慌てて駆け寄る。
「アトレウス様。差し入れは私が勝手にやったこと。どうか叱らないでください」
男は「あんたは優しいな」と微笑み妻の頬をなでるが、すぐ唇を引き締めた。
「お前ら、そんな馴れ合って戦えるのか?」
王は、若い魔法使いに不適な笑みを浮かべ、剣を抜いて鼻先に突き出す。
「杖でも剣でもいい。好きな方を取って戦え」
若者はブルブルと身を震わせ、杖を取った。
王は、杖を持つ若者の手首を掴み、ギリギリと締め付ける。若者は堪えきれず、手を開く。杖は落下し鈍い音を立てて転がった。
「杖は魔法使いの命だろ!」
若者は転がっていく杖を追いかけて拾う。
アトレウスは大きくため息を吐き、年嵩の戦士に向き直った。
「俺はお前らに、戦える魔法使いにしてやれと言った……一月経ってもこの様か……」
年嵩の戦士が、杖を抱えて戻った魔法使いの若者に怒鳴り散らす。
「お前ら、アトレウス様の前で、惨めな姿を晒しやがって!」
「竜に選ばれし我らを、なぜ侮辱する!」
せっかく仲良く鍛錬していたのに、また戦士と魔法使いが対立してしまった。
アタランテの緑色の眼が輝き出した。
「一緒にアトレウス様を守ろうって決めたのに、なに喧嘩してるの!」
戦士も魔法使いもその場で固まりよろよろと膝を突き、呆けた顔で王妃をうっとりと見つめる。
「王妃様、申し訳もありません」「わしらは、怒りっぽいんで」
アトレウスは一瞬呆然とするが、すぐさま我に返り、王妃を遮った。
「アタランテ、それ以上喋るな!」
アルゴスの新王は、王妃の足元に腰を下ろした。両腕を女の腰と膝裏に伸ばし、小さな身を抱え込む。
「アトレウス様……ちょ、ちょっと! やめて!!」
男は、呆気に取られる戦士や魔法使いを尻目に、若き王妃を横抱きにして宮の廊下を突き進み、浴室に向かった。
陶器の浴槽は、大柄なアトレウスには小さい。男は足を屈めて丸くなっていた。
アタランテは、男の長い三つ編みを解き、湯を流す。女たちは気を利かせたのか、浴室には誰もいない。
「ここんところ戦士たちの覇気がなかったのは、あんたの力か……」
「アトレウス様、せっかくみなさんが仲良くしてたのに……」
「戦士と魔法使いは仲悪いもんだ。憎み合い、悔しさを糧にして強くなってくれりゃいい」
アタランテは、夫の髪を丹念にこすり合わせる。
「魔法使いの人、魔法を戦士さんにぶつけるところだったのよ」
「ははは、それでいい。俺たち戦士も、魔法使いとの戦いを覚えないとな」
女は俯くしかなかった。
竜の娘の力で王宮の諍いを鎮める……それはアトレウスの意図には沿わないらしい。
「申し訳ありません。私……」
立ち込める湯気の中、アタランテは長い睫毛を伏せる。
「……子供を授かれませんでした」
アトレウスは口をぽっかり開け、硬直した。
「こっちに来てまだ三月だろ?」
「でも、デイアネイラ様に聞かれるんです」
「あの人にも困ったもんだ。いつか子供は欲しいさ。でも今は、あんたとこうして二人でいられりゃいい」
アトレウスはアタランテの手を取り、唇を這わせる。が、女は男の手を振り払った。全身を震わせ拳を握りしめる。
「戦士たちの仲を取り持ったら、余計なことと叱られる。王宮の女たちはデイアネイラ様が取り仕切り、子供もできない……私、役立たずじゃない!」
緑色の大きな眼から涙がひとしずく落ちる。
「落ち着けって。あんたは充分役に立ってる。今、俺の頭を洗ってるじゃないか。それに」
アトレウスは濡れた腕で王妃の肩を抱き寄せ囁く。
「十日も夜一人で我慢し、ずっとあんたが欲しかったんだぞ」
男の囁きは、アタランテをますます憂鬱にさせる。
「湯浴みのお世話や夜のお相手は、普通の女なら誰でもできます……」
「何言ってんだ。あんたは普通の女だろ?」
「私が普通の女?」
「生贄の儀式のあんたは、可哀想すぎて見ていられなかった、都の連中みんな、あんたに酷いこと押し付けやがった」
確かにアタランテにとって、生贄の儀式は苦痛以外の何物でもなかった。
「あんたは普通の女でいい。俺の役に立ちたいなら、笑ってくれ。俺がいない間も、あまりクヨクヨするな」
自分が普通の女……考えたこともなかった。物心ついた時から、自分が普通の子供ではないとわかっていた。両親はそんなアタランテに「竜がお前に与えた力だ。人のために使うんだぞ」と繰り返した
しかしアトレウスは、アタランテの特別な力を求めていない。
俯いていた女は顔を上げぎこちなくも微笑み、夫の腕を擦り始めた。
「……また、こんなところに痣を作って……いつも何をしているんです?」
王妃は口をとがらせるとともに、男の左腕に手をかざす。紫色に変色した皮膚がみるみるうちに小麦色の輝きを取り戻す。
「アトレウス様、私に笑ってほしいと言うなら、あなたも外で危険な真似しないで下さい!」
「あははは! 悪い悪い。気の荒い連中が多くてな」
「竜が罰を与える前に死んでしまいますよ」
「わかったよ。美人の嫁をもらったばかりで死ぬのはごめんだ」
アトレウスは笑いながら浴槽から出る。
妻は夫に洗いたてのキトンを手渡した。
「あんたが洗ってくれたのか?」
「はい、でも染みが落ちなくて……あ……」
女はなにか思いついたとばかり、ハッと顔を上げる。夫の肩に手を伸ばし、ピンで服を止める。
「さっきはごめんなさい。泣いたりして……」
男は妻の額に唇を寄せる。二人は連れ立って浴室を後にした。
(この人は戦士だから魔法が嫌い……もしかすると私の力も嫌い? なら私は、普通の女になるしかない……)
翌朝アタランテは夫を見送ると、機織り部屋を訪れた。
ティリンス村でアトレウスから借りた衣を洗った時の気持ちを思い出した。
彼に似合う真新しい衣を織る――アルゴス王らしい衣を。




