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73 王妃の務め

 新王アトレウスは、領地を巡り何日も都を留守にすることが多い。

 王宮に戻った夜は、若い妃の膝に頭を乗せて安らぐ。


「アトレウス様、また火傷をされたのね。お待ちください」


 アタランテは男の左手を取った。水ぶくれができた手の甲を優しくさすると、瞬く間に傷が消えた。


「あんたの魔法はすごいな。痛みがどっかへ行った」


 アトレウスは左手を軽く振って笑った。


「でもこの魔法は俺だけにしてくれよ。あんたの可愛い手を、他の男に触らせたくねえんだ」


「私は王妃よ。この力で宮の人たちの役に立ちたいの」


「あんたは優しいな。だが、そうやって簡単に治してしまうと、医師たちが手を抜き始めるかもしれねえ」


 アタランテは少し考え込んでから、納得したように大きく頷いた。


「わかりました。無暗に力を使わないようにします。だからアトレウス様も、怪我には気をつけてくださいね」


 女は男の長く編まれた黄金の髪をほどき、指を絡ませる。


「心配するな。俺は必ずアルゴスから生贄をなくしてみせる。あんたとの約束だ」


 アタランテは顔をほころばせた。


「嬉しいわ。心ある賢者様が竜に何度もお願いすれば、いつか叶います」


「いや、竜のご機嫌をうかがってるようじゃ、いつになるかはわからん」


 男はガバっと女の膝から跳ね起きた。


「生贄など出さなくて済むようにすりゃいいだけだ」


 アトレウスの青い双眸が鋭い光を放つ。


「日照りや不作に耐えられるよう、水や作物を溜めておけばいい。そうすりゃ、竜に脅されても耐えられるだろ?」


「素晴らしいわ、アトレウス様!」


「それには荒地に水をひいて耕し、収穫物を集める……人の力と知恵が必要だ」


「だからアトレウス様は領地をまわっているのね。私も連れてって。心ない魔法使いからの攻撃なら防げますし、領地の人たちに励ましの力を与えられるわ」


 アタランテは緑色の眼を細め、男のむき出しの胸に頭を寄せる。


「奴らは荒っぽいから、若い女は連れていけねえ。あんたにはもっと手伝ってほしいことがある」


 男は女を横抱きにして寝台に寝かせた。


「この仕事は、俺が生きてる間では終わらない。だから子供が必要だ」


 前王妃のデイアネイラと同じ望みを打ち明けられ、アタランテは顔を赤らめ身を捩る。


「で、でもメレアグロス様も誤解されていましたが、私の子が王になるとは限りません」


「王は竜が選べばいい。だが、俺の仕事を引き継ぐ人間が必要なんだ」


 アトレウスは、若い王妃の額や頬に口づけを繰り返す。

 女は男の背中に腕を回してしがみつき、目を閉じた。


(熱い腕で強く抱きしめられ……温かな胸に包まれ眠りたい、ずっと夜ならいいのに……何を考えているの? 私は王妃なのに、これではただの女……)


 アタランテが宮に入り、一月が経った。



 光が降り注ぐ王宮の中庭で、女の叫びが響き渡る。

 王妃は槍を突き出し、何度も掛け声をかけた。


「お妃様、今日はそのあたりにしておきましょう」


 革の胸当てを着けた大柄の女が、アタランテの槍を握りしめる。


「はあ、はあ、キュ、キュニスカ、まだ私、で、できるわよ」


 アタランテは息を弾ませ、膝をがっくり落とした。

 キュニスカは、生贄の儀式の夜、アタランテの客室の前で見張っていた戦士だ。


「アタランテ様に怪我をさせたら、私がアトレウス様に叱られてしまいます」


「でもこのままでは、私、アトレウス様を守れない……」


「アトレウス様はアルゴス一の戦士です。それに都から出る時は、強い戦士たちに守られていますよ」


 アタランテはキュニスカに手を取られて立ち上がる。


「でも、メレアグロス様みたいな魔法使いが襲ってきたら?」


「それでしたら、ほら、見てください」


 女戦士キュニスカは、王宮の渡り廊下の向こうに顔を向けた。

 見ると、屈強な戦士が五人ほど横一列に並び、大声を発している。戦士たちに向かい合うように、ローブを着けた若者が二十人が四方に並ぶ。


「前! 左! 前! 右!」


 戦士の怒号に合わせ、ローブの若者たちが足を踏み出している。


「魔法使いが戦士の訓練を受けているのかしら?」


「いずれあの使い手たちは、アトレウス様を守る魔法戦士となるでしょう」


「そ、そうね……魔法が使える戦士なら、アトレウス様も心強いわ」


 若い王妃は寂しげに微笑む。

 自分だけが持つ魔法を打ち消す力で王を守りたい。しかし魔法戦士を育てるということは、アタランテの力は不要ということか?


「私はあの人に、何を差し上げられるのかしら……」


「アタランテ様がにこやかに過ごされることを、アトレウス様はお望みです」


「私、楽しくしているわ。宮のみんなは優しいし、王宮の管理はデイアネイラ様がなされるし……ティリンス村にいたときより、ずっと楽よ」


 故郷の村では母から言われ、水汲みや糸紬をさせられていた。

 嫁いだころは、デイアネイラに付き従い厨房に顔を出していたが、前王妃やその侍女たちに「王妃様、ここはいいから、ゆっくりお休みください」と追いやられる。

 苦手な洗濯を手伝おうとしても、使用人たちは「デイアネイラ様に叱られます」と拒む。

 アトレウスは王宮でエケモスたちと難しい顔で話し込んでいる。政に参加したいと言っても王は「男らに任せろ」と取り合ってくれない。


「ありがとうね、キュニスカ。私に付き合ってくれて」


「アタランテ様をお守りするのが、私の仕事ですから」


 女二人が見つめあっていると、魔法使いを訓練する戦士たちが嵐のように激しく吠えだした。


「訓練大変そうね。私にできることは……そうだ、みんな疲れてるわね」


 アタランテははっと顔を上げ、キュニスカを連れて厨房に駆け込んだ。

 夕餉の支度に勤しむ女たちに「喉乾いたしお腹空いたわ」と断り、甕から一抱えある壺に水を汲み、キュニスカに持たせる。クルミと干しブドウを壺から取り出し、皿に混ぜて載せた。

 王妃は満足そうに笑い、食料を抱えて渡り廊下を進んだ。


「アタランテ様、これ、戦士たちへの差し入れですよね。厨房の女にちゃんと説明しないと、勘違いされますよ。食い意地の張ったわがままなお妃様って」


「あはははは! その通りよ。クルミと干しブドウって一緒に食べると美味しいの。故郷ではつまみ食いして、母に叱られたわ」


 中庭に戻り、アタランテたちは、訓練に勤しむ戦士と魔法使いの元に顔を出した。

 ますます戦士の怒号は激しさを増す。

 いや戦士だけではなく、若い魔法使いたちの甲高い声が聞こえてきた。


「お前たちの指図は受けない!」

「剣もロクに握れないひよっ子が、えらそーにすんじゃねえ!」


 ローブの若者が杖を拾い上げ、戦士に向ける。


「お前たちの口など、私の氷で封じ込めてやる!」


 今にも文字通り火花を散らしそうな様子に、アタランテは戸惑う。キュニカスに救いの眼差しを向けた。


「あの人たち、自分らは特別な人間と思っているから、怒鳴られるのは、我慢できないんでしょうね」


 魔法使いたちは戦士たちの訓練に誇りを砕かれ、耐えきれなくなったようだ。

 アタランテは争う若者たちの間に入っていった。


「やめなさい!」


 女は、杖を握りしめた若者の前に立ちはだかり両腕を広げる。慌てたキュニスカが「危険です!」と後を追う。

 戦士たちと魔法使いたちは、突然の若い王妃の乱入に、目を丸くする。

 年長の戦士がようやく口を開いた。


「王妃様、わしらの邪魔しないでください」


 アタランテは目を吊り上げた。


「あなたたちが物騒な喧嘩を始めるからでしょ!」


「冗談じゃないすよ。わしらはアトレウス様に命じられて、軟弱野郎を鍛えてやってんのに……奴隷の子供の方がずっと使えますよ」


「奴隷だと! 竜に選ばれし我らを侮るな!」


 魔法使いが反論するが、アタランテはさらに声を張った。


「いい加減になさい!!」


 アタランテの緑色の眼がギラギラと輝き出す。

 途端に戦士も魔法使いも動きを止め、へなへなと膝を崩した。

 中庭には、生贄の儀式で群衆に訴えた少女がいた。


「魔法使いには誇りがあるのよ! 頭ごなしに怒鳴りつけるだけじゃ駄目でしょ!」


 胸当てを着けた男たちは項垂れ、ローブの若者は得意げに胸を反らす。

 次に王妃は、若者を睨み付けた。


「でも魔法が使えるからといって、驕っていい理由にはならないわ。あなたたちは、子供のように見習う立場なのよ!」


 魔法使いたちも肩を落とす。

 静寂が訪れた。男たちの怒りは王妃の緑色の眼に吸い取られる。戦士も魔法使いも目を潤ませ、拝むように王妃を見上げた。


「わしらが間違ってました……」と戦士が呟き、「私たちこそ恥ずかしい」と魔法使いが続く。

 アタランテは微笑んだ。


「みんな、疲れたのよ。少し休んで、また力を合わせてアトレウス様をお守りしてね」


 王妃はクルミと干し葡萄の皿を、護衛のキュニスカは水の壺を差し出す。

 男たちは集まり、葡萄の甘みとクルミの香りを味わい、喉を潤す。穏やかな笑い声が、中庭に広がった。


「すまなかった。もう一度、剣の構えから教えてくれないか」

「いや、わしらも魔法攻撃に備えねえとな」


 キュニスカは「お妃様は本当に竜の娘なんですね。あんなに怒鳴り合ってた男どもが、子供みたいに笑ってる」と、尊敬の眼差しを向ける。

 若い王妃は満足げに頷いた。


(宮を平和に保ち、戦士と魔法使いを励ます……これもアトレウス様を守ることよ)


 王宮に入って一月経ち、アタランテは初めて王妃の顔を見せた。


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