72 婚礼の夜
戦士アトレウスがアルゴスの新たな王となって一か月経った。
朝、アタランテは、荷車と共に王宮に入った。
彼女を迎えたのは、当のアトレウスではなく、前王妃デイアネイラだった。
デイアネイラに「アトレウス様は、外に出ているの。戻るまで女同士、お話しましょうよ」と腕を引っ張られ、アタランテは前王妃の部屋で、ワインを酌み交わすこととなった。
少女はかつての王妃と向かい合うなり「申し訳もありません」と頭を下げた。
「あら、謝ることなくてよ」
「いいえ、メレアグロス様が私を王妃にしようとしなければ、デイアネイラ様は今も王妃でいらしたはず。私は恨まれても仕方ありません」
「いやあねえ、アタランテ様は悪くなくてよ。とっくにメレアグロスとあたくしは、終わってたの」
かつての王妃は、今の王妃に気を遣ってくれるのだろうか?
夫と離ればなれになり、本当は寂しいのでは?
「あ、あの……メレアグロス様が今、開墾されている北の荒れ地を、デイアネイラ様とご一緒に訪れたいのですが、いかがですか?」
「止めてちょうだい!」
女がピシャリと手を叩く。
前王妃の厳しい目つきからすると、メレアグロスと終わっていたのは本当なのか。
「アタランテ様、そんな荒れ地に行くより、王妃としてのお務めがありますでしょ?」
デイアネイラは真っ赤な唇を舌なめずりし、アタランテの頬を突っついた。
「あ、すみません……小さな村に生まれた私には、わからないことばかりです。侍女たちの采配とか、デイアネイラ様を見習わないと」
「ほほほ、そんなことは、これまで通りあたくしに任せて。アタランテ様には、もっと大切な仕事がありますでしょ?」
少女は唾を飲み込み、かつての王妃の言葉を待った。
「アトレウス様の心をつなぎとめて、一日も早く、お子を授かることよ」
「え? こ、子供?」
デイアネイラの生々しい助言に、成りたての王妃は目を丸くする。どう答えたらいいか言いあぐねていると、侍女が幼子を連れて入ってきた。
「ばば~」
子供はデイアネイラの膝に座り、はしゃいでいる。
アタランテが良く知る娘だ。
「まあ、クリュメネちゃん、ふふ、元気にお育ちで」
幼女クリュメネは、デイアネイラの長女の娘で初孫にあたる。アタランテは子供の誕生時から知っている。
「抱っこしてもいいですか?」
若い王妃は、前王妃の孫娘を愛おし気に抱きかかえた。
「重くなったわね。もう二歳ですもの。ねえ? クリュメネちゃん」
アタランテは幼子と顔を見合わせお道化てみせる。幼女クリュメネはきゃっきゃとはしゃいだ。
その様子をデイアネイラはうっとりと眺めた。
「あらあら王妃様。本当の母娘のようですわよ」
王妃の子が必ずしも王になれるわけではない。すべては竜が定める。
それでも。
(私……あの人の子を産みたい……)
と、サンダルが激しく石畳を叩く音が聞こえてきた。
「アタランテ! 本当に戻ってきたんだな!」
「アトレウス様!」
ひと月前と変わらない笑顔が、そこにあった。
昼間、王宮の広間で、婚礼の宴が開かれた。
アタランテは金の鎖を幾重にも巻いて着飾り、王アトレウスの隣に小さくかしこまって座る。
王宮の戦士たちに賢者、侍女や従者たちがこぞって集まった。琴や笛と女たちの歌声が、宴を一層華やかに飾る。ワインの甘い香りがあたりに立ち込めた。
従者たちは「アトレウス様、今日はいつになくご機嫌ですね」「アタランテ様に逃げられるんじゃないかって、ヒヤヒヤしていましたね」と、若い王をからかう。
賢者の長ランペイオスは「いくらアトレウス様でも、こんなに美しいお妃様がいれば、他の女は目に入らないだろう」と、ほくそ笑む。
戦士の長エケモスは「これなら女を盗られることはないだろう。今夜からみな、安心して寝られるぞ」と豪快に笑う。
アトレウスは「妃の前ではやめてくださいよ」と、苦笑いを浮かべた。
傍らでアタランテは「まあ、アトレウス様、何をなさっていたの?」と微笑みつつ、母の警告を早くも思い出した。
陽が傾き、アタランテは侍女たちに身を清められ、薄布一枚をまとい寝台に腰かけていた。
石壁にかけられたかがり火が揺らめき、風が窓からそっと吹き込んで布を揺らす。
と、腰に布を巻いたアトレウスが、寝室に入ってきた。分厚い胸板と割れた腹筋が炎に照らされ輝いている。
乙女は男の眩しさに目を細め、顔を背けた。
男は静かに彼女のとなりに腰を下ろす。寝台がきしみ、彼の体温が薄布越しに伝わってくる。
アタランテは、そっと王に折りたたんだ布を差し出した。
「アトレウス様、お借りしていた服です。ありがとうございます」
「あの時の服か。あんたは生贄の儀式で血まみれになって可哀想だった……」
男は手渡された布をしげしげと見つめる。
「きれいにしてくれたんだな。水洗いで手は荒れてないか?」
若き王は布をテーブルに置くと、アタランテの手を取った。大きな手が彼女の細い指を包み込む。頬を赤く染めたアタランテは、慌てて目を伏せる。
「あ、だ、大丈夫です。アトレウス様は、王宮のみなさまと仲がよいのね」
前王から王位を奪った男なのに、王宮の男も女も彼を慕っている。
「長くここにいただけさ。十五の歳でエケモス殿に連れられてここに来た。十年になるか。辺境の蛮族と戦わされたよ。メレアグロスの護衛になったのは半年前だ」
「私は半年ぶりに都の儀式に呼ばれました。私は前から王宮に出入りしていたけど、あなたはそのころ外で戦っていたのね」
アトレウスの青い眼に炎が揺らめいている。
アタランテはその光を見つめ返し、言葉を切り出した。
「あなたは私を助けるために、色々働いてくださったんでしょう? 本当にありがとうございます」
「たいしたことはしてねえ。偉い人に頼んだだけさ。そしたら、賢者のランペイオス殿が、身勝手なメレアグロスはいずれ竜に捨てられると断言した」
男の指が、女の滑らかな頬に触れる。アタランテは一瞬息を止めた。
「ジジイは自分の魔力にうぬぼれ、王宮中で嫌われてたからな。次に俺は、エケモス殿に相談した。ヤツを挑発させ攻撃魔法を使わせれば、竜に捨てられるだろうってね。そこでエケモス殿が、朝、お偉いさん方を集めて、ジジイを問い詰めたのさ」
アタランテの脳裏にあの日が蘇る。
「メレアグロス様の魔法は強力で……だからあなたは大きな盾を持っていたのね」
「あの盾はエケモス様から借りた。俺はあんたを危険な目に合わせたくなかったが、ジジイを挑発させるためだった。すまなかったな」
つまり、デイアネイラがアタランテとアトレウスが深い仲だと匂わせたのも、アトレウスの愛の告白も……メレアグロスを怒らせて魔法を使わせるため。竜に身勝手な男と思わせ、魔力と王位を奪わせるため。
メレアグロスはもともと王宮で疎まれていたようだ。アタランテの件は、玉座から追い落とすいい機会だったのだろう。
「では、私があなたを選ぶよう仕組まれたということ?」
「まさか……俺だっていきなり王に選ばれるとは思ってなかったさ。賢者たちの誰かが王になると思ってたよ」
アトレウスは苦笑し、俯いたアタランテの両頬を包み込む。男の息が近づき、彼女の心臓が激しく跳ねた。
「まっ、待って……その……」
慌てて若き王妃は両腕を男のむき出しの胸に押し付けて、顔を背けた。
アトレウスは王になるつもりはなかった。しかし、玉座の間でアタランテへの思慕を表したのは、メレアグロスを挑発するためだった。
宴の席でランペイオスやエケモスがからかっていたが、この美しい男には多くの恋人がいたようだ。
「あなたは仕方なく私と結婚するのね。本当は、他に好きな人がいるんでしょう?」
言ってしまってから、アタランテは唇を噛んだ。醜い嫉妬をぶつけたことに後悔が押し寄せる。
アトレウスはしばし硬直した後、のけぞって天井を仰ぎ、大声で笑い出した。
「わ、笑わないでください!」
「ははははは。あんたみたいに大勢の男から言い寄られてる女でも、そんなことを言うのか」
笑いながらアトレウスは、女を抱き寄せた。
「エケモス殿の言葉は気にするな。俺も二十五年生きてるから、何度か女に惚れたことはある。でも」
力強い腕が彼女を包み、耳元で囁く。
「あんたに会ってから、他の女には指一本触れてない。本気になったのは、あんただけだ」
「本当に私が好き? 王妃は私だけ? メレアグロス様みたいに、私が年取っても捨てたりしない?」
「ああ、俺が死ぬまで、あんたは俺のお妃様だ」
顔が引き寄せられ、唇が重なった。初めて知る柔らかな感触で、アタランテの頭が真っ白になる。
「俺の子を産んでくれないか」
「……はい……」
前王と前王妃の孫娘、クリュメネの温かな重みを思い出す。
自然と寝台で折り重なった。
「続きを教える約束だったな。待ちくたびれただろ?」
「ま、待ってなんかいません!」
炎が消えた。温かな暗闇に包まれ、娘は妻となった。




