70 新たな王、新たな王妃
火柱を盾で受け止めるアトレウスの前に、アタランテは迷わず身を躍らせた。
アルゴス王の放った炎は、その瞬間、跡形もなく消え去った。
(え? あれ? 私、どうしたの?)
「馬鹿野郎! 何やってんだ!」
突然、大きな男に身体を揺すぶられた。
「あ、アトレウスさん、大丈夫? 熱くなかった? 火傷してたら、私、治すから」
「そうじゃねえよ! 若い娘が危ねえだろ!」
「だ、だって……私……あなたが……」
少女の目に涙があふれる。考える間もなく、アタランテの身体は勝手に動いていた。ただ、この戦士を守りたい――その一心だった。
今まで魔法に立ち向かったことなどなかったし、その必要もなかった。アタランテはアルゴス王の魔法を打ち消したが、自分にそんな力があるとは知らなかった。
「あんたを守るって言ったのに、守られてちゃ世話ねえな」
男はアタランテのブルネットの巻き毛に指を滑らせた。
見つめ合う二人をよそに、炎の魔法を放ったはずのアルゴス王は、へなへなと床に座り込んだ。
「どういうことじゃ! 竜が……消えてしもうたぞ! 竜が見えん! 声も聞こえん! わしの魔力が……おおお!」
アルゴス王は両手を広げて震えながら、その場に崩れ落ちた。
五人の賢者は顔を天井へ向け、微かに唇を動かしていた。すると、賢者の長ランペイオス老が大きく頷いた。
「そうか。竜の娘アタランテは、王メレアグロスを拒み、アトレウスを選んだ。ゆえに竜は、アルゴス王を見捨てたのだな」
ランペイオスは言葉を続けた。
「たった今、竜が告げた……アタランテが選んだ男を、新たな王に立てよ、と」
賢者たちは、座り込んだままの王に向かって声を揃えた。
「メレアグロスよ! 王笏を、竜の娘が選んだ新王アトレウスに譲れ!」
「な、何じゃと!」
アルゴス王が立ち上がり、王笏をぎゅっと抱え込んだ。
すると、王妃の弟エケモスがその身体を押さえつけた。
「さあ、王様よ。あんたの杖をアトレウスに渡すんだ!」
「い、いやじゃ!」
しかし、エケモスは強引に王の身体を引きずり、アトレウスの前に立たせた。
金髪の戦士は軽くおどけてみせる。
「エケモス様、俺なんかが王になっていいんですかね?」
「お前さんを王にすると竜が決めたんだ。まあ、お前さんならメレアグロスよりは良い王になるだろうよ」
戦士は輝く三つ編みを揺らし、天井を睨みつけた。
「こんな方法で王になるつもりはなかったが……まあいい。竜の野郎、後悔するなよ」
戦士の長エケモスは、王笏を握るメレアグロスの手首をアトレウスの前に突き出した。
アトレウスは極上の笑みをかつての王に向けた。
「メレアグロス様、では私が次の王を務めさせていただきます」
「い、いやじゃああああ! これはわしの物じゃああ!」
アトレウスは、老いた男の抵抗をものともせず、か細い手から王笏をもぎ取った。
「たった今から、このアトレウスがアルゴス王だ!」
エケモスは、アトレウスに頭を垂れた。
「アトレウス様! 我らはあなた様に、全身全霊をもってお仕えします!」
他の戦士たちと賢者たちもこれに続いた。
「竜の娘アタランテ様が選びし方に、我らの魔力をすべて注ぎましょう!」
王の護衛だったアトレウスは、生まれながらの王者のように堂々と王笏を掲げた。
(え? 私が選んだ? アトレウスさんが王になったってどういうこと?)
群臣が新たな王を称える中、少女は呆然と立ち尽くす。いや、もう一人、新たな王に抵抗する者が叫んだ。
「認めん! わしは認めんぞ!」
エケモスが、手足を振り回すメレアグロスの身体を押さえつけた。
「さてアトレウス様。この者の扱い、いかがなさいます?」
「エケモス様に『様』と呼ばれるのは恥ずかしいが……昨日、俺のアタランテにしたことは許せねえ。荒野に置き去りにして狼の餌にしてやるのはどうです?」
メレアグロスは「ひいっ」と叫んで身体を丸め、かつての王妃にすがりついた。
「お前! こいつに何とか言ってやれ! お前とて、わしがいなくなれば困るだろうに!」
先ほどまで王妃だった女は、嫣然と笑みを浮かべた。
「あら、何をおっしゃるの? あたくしを捨てて、あの若い娘を妃にしようとした人が?」
女はアトレウスに向き直った。
「アトレウス様。この人のことはお任せしますわ。あたくしと子供たちが今までどおり暮らせるなら」
「デイアネイラ様、ありがとうございます」
アタランテは何とか事態を飲み込もうと頭を働かせた。
自分がメレアグロスの炎の魔法からアトレウスを守ったことで、竜はアトレウスを新たな王に選んだのだ。
魔法使いである両親は、よく娘にこう言っていた。
「いつも竜たちは、お前を気にかけとる」
「この子は竜にとって娘なのよ」
他の魔法使いも、竜との語らいから自然とアタランテを「竜の娘」と呼ぶようになった。
(私には竜が見えないのに……第一、王様を選ぶなんて責任の重いこと、私に任されても……)
戦士の長エケモスが「では、アトレウス様の命令だ」と部下たちにメレアグロスの捕縛を命じた。
かつての王は「やめろー!」と叫び、もがくばかりだった。
かつての王の惨めな姿を目の当たりにして、少女は我を取り戻した。今は悩んでいるときではない。
「待って! ひどいことしないで!」
緑色の瞳を持つ少女は、戦士たちを引き留めた。
「アタランテ、どうした? あんた、あいつのこと、あんなに嫌がってただろ?」
新王の問いに、少女は首を振った。
「でも、メレアグロス様を狼の餌にするのはあまりに気の毒です」
自分の行動がきっかけで、このか細い男は王位を失った。過酷な罰を与えるのは忍びない。
「メレアグロス様が王になる前は、小麦畑の農夫だった聞いています。元の身分に戻してあげてはどうでしょう?」
黄金の髪の青年は、アタランテの頬に指を滑らせた。
「あんたは優しいな」
アトレウスは戦士の長エケモスに向き直った。
「仕方ねえ。都の北の境目に荒れ地がありましたよね。奴隷たちと共に、この男に開墾させるのはどうです?」
「アトレウス様。王の護衛の務めだけでなく、領地のことも詳しいとは」
「はは。王の傍にいると、自然と話が入ってくるんですよ」
メレアグロスは「いやじゃ!」と叫ぶが、戦士たちに引きずられていった。
エケモスは満面の笑みでアトレウスの背をポンと叩いた。
「さて、邪魔者はいなくなった。あとは新しい王様と……」
戦士の長がアタランテに笑いかけた。
「新しい王妃様のお披露目ですな」
「は、はい? 私が王妃?」
少女は自分を指さして硬直した。
賢者の長ランペイオスも大きく頷いた。
「左様でございます。都の皆に、新たなる若き王の即位を知らしめねばなりません。竜の娘が、新たな王の伴侶となったことも」
アタランテは再び頭を巡らせた。
自分には特別な力がある。そのためか、竜が気にかけてくれるらしい。そして図らずも、アルゴス国の王を選ぶことになってしまった。
メレアグロスやエケモスの話からすると、アトレウスは身寄りのない奴隷だったらしい。魔力のない彼は、自分が王になるなど考えたこともなかっただろう。
新しい王は、傍らで戦士たちと笑いあっている。賢者たちも、彼を王として歓迎している。彼は、日頃の王宮の務めで、人々の信頼を得ているようだ。
アトレウスの即位には、問題はなさそうだ。
一方、自分は、王妃として問題はないのか?
アトレウスを見つめていたい。彼の傍にいたい。彼の妻になれるとは夢のようだ。
しかし、アタランテはただの妻ではない。
大国アルゴスの王妃が、自分に務まるのか?
確かにアタランテには特別な力があるが、王妃になるには別の才が必要なのではないか?
「ま、待ってください! 私はまだ王妃になるとは言っていません」
エケモスとランペイオスが「何をおっしゃる!」と少女に詰め寄った。
アトレウスが振り返り、アタランテの両肩を掴んで揺さぶった。
「アタランテ、俺のことが嫌いなのか?」
空のように澄んだ瞳で見つめられ、少女の胸が締め付けられる。
今にも泣き出しそうな男の顔につられ、かすかに首を振った。
するとアトレウスは弾けるように笑った。
「そうか。嫌いじゃないなら、それでいい」
男は少女をぎゅっと抱きしめた。途端に周囲から冷やかしの声が湧き上がり、アタランテは羞恥で身を固くした。この温かな腕にずっと包まれていたいが、王国の重鎮たちの視線が背中に突き刺さる。
戸惑うアタランテだったが、すんでのところで窮地を脱した。
サンダルの慌ただしい音とともに、中年男女が広間に駆け込んできたのだ。
「アタランテ! 何をやっとるんだ!」
「今、竜が教えてくれたよ。王様が交代して、あんたがお妃様になるって……大丈夫なの?」
少女の両親――ティリンス村長夫妻が目を吊り上げて、突っ立っていた。




