69 竜の目覚め
騒めきと共にアタランテは目覚めた。
客室の高窓から差し込んだ光の陰からすると、日がすでに高く昇っている。
扉を開けると、胸当てを着けた逞しい女が振り返り、ギロっと少女を睨み付けた。
「アタランテ様、お目覚めですね。では朝食をお持ちします」
が、通路を見渡すと、王宮の戦士たちや大臣らしき男、それに侍女たちが右往左往と走り回っている。儀式のため王宮を何度か訪れたが、このように朝から人々が走り回っていたことはなかった。
「あ、あのアトレウスさんは?」
昨晩彼は、「なんとかしてやる」と言っていた。王とアタランテの結婚を取り消してくれると。この騒ぎは、彼が起こしたのではないのか?
「アトレウス様を信じてお待ちください」
少女は、外の様子が気になるも、入り口で構える女戦士に阻まれ客室に閉じこもるしかなかった。侍女が運んできたパンとチーズを口に含む。王宮の朝食を味わいつつも、落ち着かない。
さらに日が高く昇ったころ、待ちかねた男が入ってきた。
見ると、物々しい兜を被り、青金に覆われた大きな盾を持っている。
「アトレウスさん!」
少女は金髪の戦士に駆け寄った。
「すまん。お嬢さんを怖がらせたくないが、助けてくれないか。今、玉座の間で、王妃様、エケモス様たちに賢者様たちが、ジジイにあんたのことを問い詰め、あんたの意志を聞きたいとうるさいんだ」
「賢者様……王様に仕える五人の魔法使いね。賢者様方は、私が王妃になる気持ちがあるか、知りたいのね」
アトレウスはアタランテに優しく微笑む。
「はは、俺を選んだ方がなにかと得だぞ」
「選ぶ!? わ、私にはよくわかりません」
途端に少女は顔を赤く染める。この男の働きなのか、王妃になる運命を拒む機会が与えられたようだ。
アタランテは戦士アトレウスに導かれ、王宮の大広間に入っていった。
中央奥に、王と王妃が座っている。王の顔はいつにも増して険しく、王妃は悲しげに眉を寄せている。
王妃のとなりには、皮の鎧と青金の兜を着けた巨体の中年男が、眉を吊り上げ立っている。王妃の弟で戦士の長であるエケモスだ。エケモスに続き十人ほどの戦士たちが、広間の左側を占めている。いずれもアルゴス国の英雄だ。
一方、王のとなりには、トーガを纏った細面の老人が立っている。五人の賢者の長であり、王に次ぐ魔力を誇るランペイオスだ。老人のそばには賢者たちが揃い、いずれも強力な魔法の使い手だ。
アルゴス国の重鎮が勢ぞろいする威圧感に圧され、アタランテは息を呑む。
アトレウスは、アタランテを王から少し離れたところに立たせ、王に跪いた。
「王様。アタランテ様をお連れしました」
「よい、アトレウス、ここへ」
金髪の戦士は頷くと、王と賢者の長ランペイオスの間に割って立った。
王はアタランテに微笑みかける。
「のう、アタランテよ。お前は確かに申したな? 我が妃になると」
戦士の長エケモスがアタランテを睨みつける。
「アタランテ、我が姉上は、長年王妃としてアルゴス王を支えてきた。我が姉を差し置いて王妃に成り代わりたいと言うのか?」
アタランテはエケモス睨み返す。
「やめて下さい! 私が心から王妃になりたいと思っているのですか? 妃にならなければ私の故郷は無事ですまされないと脅されたのです!」
戦士の長は厳しい表情をそのまま王に向けた。
「つまり王は、我が姉を蔑ろにして、竜の娘を脅したと。国に尽くした王妃を捨て、国の宝である乙女を脅して我が物にしようと……貴様はそれでも王か!」
今度は賢者の長、ランペイオス老がアタランテに向き直った。
「竜の娘よ。そなたはもう十八だ。王宮の貴族たちも含め、数多の若者がそなたとの婚姻を望んでいる。そろそろ相手を決めてはどうか? さすればアルゴスの若者どもの気持ちも王宮の混乱も、収まるであろう」
アタランテは胸を抑えて俯いた。王の傍らに立つ戦士を一瞥するが、この場で彼の名を告げれば……いや、国の重鎮たちが見守るなか男を選ぶなど、十八の乙女には恥ずかしくてできることではない。
この場で訴えたいことはただ一つ。
「結婚の前に望みがあります。それは、昨日の坊やが、アルゴス最後の生贄になることです。王様、賢者の皆様、どうか竜に私の願いを伝えてください」
王が目を剥いた。
「アタランテよ! わしとて好きで贄を捧げるわけではない。龍が望むのじゃ! そのようなことをして竜の機嫌を損ねたら、わが国は飢えと渇きと病に苦しめられよう」
「王様、アタランテ様の願いを聞き届けてはいただけませんか?」
割って入ったのは、王の傍に立つアトレウスだった。
王メレアグロスが、目を剥いている。
「……口を慎むのじゃ。政など何もわからぬ卑しい者のクセに」
「これは失礼しました。しかし、アタランテ様は昨日の儀式で素晴らしい働きをされ、都の誰もが崇めています。アタランテ様の願いを叶えれば、民はますます王を敬うでしょう」
「賢しらしいこと申すな。親のない奴隷はわしに黙って従えばいいのじゃ」
再び戦士の長エケモスが声を張り上げた。
「アトレウスはただの奴隷ではない。私が昔、国境で盗賊の一味に襲われた時、まだ子供だったこの男に助けられた。以後この男は、王宮の戦士として目覚ましい働きを重ねた。それゆえ私は王に、護衛として薦めたのです」
アタランテは、大きな盾を持つ金髪の戦士を、尊敬の念を持って見つめるばかり。
「……エケモス、わかっとる……ではアタランテ。お前がわしの妃になるなら、願いを聞いてやってもいいぞ」
「アタランテ殿! 我が姉上を差し置いて妃になるつもりか!」
少女は胸に手を当てて俯いた。王妃になれば、昨日のような哀れな子を二度と生み出すことはない。しかし、老いた王には指一本とて触れられたくない。できることなら、王のとなりで輝く盾を持つ戦士にもう一度抱きしめられたい。
乙女が答えに窮しているところ、思わぬところから助けが入った。
「アタランテは、あなたの妃にふさわしい女ではございません」
女の声が玉座の間に響く。
王妃デイアネイラが椅子から腰を上げ、王の足元にしゃがみ込んだ。
「デイアネイラよ。お主は、わかってくれたのではなかったのか?」
「ええ、あたくしはすっかり老いて王様の役には立てませぬ。アタランテのように若くて愛らしい娘こそ妃に相応しいと思い、あたくしは涙を飲んで身を引くことにしました」
「お主が悪いわけではない。アルゴス国のために、魔力持った王子が必要なだけじゃ」
「ですからこそ、アタランテはあなたの妃に相応しくないのです……もう孕っているかもしれませんもの」
玉座の間が沈黙に覆われた。
アタランテは顔を真っ赤にさせて両の拳を握りしめる。
「え? 王妃様! どうして私が?」
王妃は立ち上がり、椅子に座り直した。
「あたくし、侍女から聞きましたのよ。あなたがそこの護衛と二人きりで部屋に篭り時を過ごしたと」
王宮の廊下は誰かしらが歩いている。アトレウスに手を取られ客室に入ったところを見られてもおかしくない。
「違います! 私はアトレウスさんとお話をしただけで、変なことはしていません!」
「アトレウス『さん』? まあすっかり仲良しさんなのね……」
「ち、違います。そうではなくて……」
が、アタランテは言葉を続けられない。やましい行動こそないが、気持ちの面では潔白と言い切れず、ますます顔を赤らめる。
王メレアグロスは隣に立つ戦士を睨みつける。
「奴隷の分際で、竜の娘を汚したのか!」
アトレウスはアタランテのとなりに移り、王の前に跪き、盾を床に置いた。
「申し訳ありません。私は魔力を持たぬ一介の戦士にすぎませんが、アタランテ様にお会いした瞬間から恋焦がれております」
アタランテの胸がますます高鳴る。この美しい戦士が、自分を初めから好きでいてくれたとは。
が、今は浮かれている場合ではない。
「アトレウスさん! そんなこと言ったら、みんな誤解するでしょ!」
王妃が声をひそめて王に差囁く。
「アタランテと戦士、馴れ馴れしいと思いませんこと?」
「アトレウス! わしはお前を端から信じておらぬ。ただの護衛のくせに、王妃にエケモス、ランペイオスにも媚を売りおって、ついには……竜の娘を我が物にするとは!」
王メレアグロスは目を吊り上げ、王笏を握りしめ立ち上がった。
途端、「逃げろ!」の叫び声と同時にアタランテの身がふわっと浮き上がり、放り投げられる。少女は石畳の床に腰を強かに打ちつけた。
「い、たたた、ちょっと何するの!」
アタランテは立ち上がるなり、自分を酷い目に合わせた黄金の髪の戦士のいる方に顔を向ける。
信じ難い光景がそこにあった。
王が振り上げた笏から炎が吹き出し、アトレウスに襲いかかる。戦士は大きな盾をかざし炎から身を守っていた。
「あなた! やめて!」
「貴様、何しやがる!」
戦士の長エケモスが王を後ろから羽交締めにする。
「王よ! 身勝手にもほどがある!」
賢者の長ランペイオスは杖を振り上げ、水流を炎にぶつけている。
幾分か火柱は細くなったが、青金の盾は熱せられ、アトレウスの額に苦悶の汗が流れ落ちる。
「いやあああああ!」
アタランテは一目散に王と戦士の間に割り込み、火柱に身をかざし、両腕を前に突き出し両の掌を広げた。
燃え盛る炎の柱は瞬く間に消滅した。




