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68 初恋

 太陽よりも眩しい男が現れたのは、アタランテが全てを諦めたときだった。

 王は戸口で護衛をしていたはずの男を睨みつけ一喝する。

 しかし男アトレウスは怯まず、王に危急を告げた。


「王様、王妃様にこのことが知られてしまいました。まもなくここにお越しかと」


「な、なんじゃと! 誰があれに!」


「王妃様の弟君エケモス様は、戦士たちを束ねてますからね。エケモス様に仕える私の友が教えてくれました」


「しかし、いや……」


 王が右往左往している間に、アトレウスはアタランテの手を取った。


「私はアタランテ様を、部屋までお送りします。二人でいるところを王妃様に見られたら、あらぬ誤解を招くかと」


 男は王の返事を待たず、少女の手を引いて部屋を出た。そのままアタランテが泊まる客間に連れて、中に入る。

 少女は窮地を逃れたことに安堵するも、疑問が浮かぶ。

 王メレアグロスは、アタランテを新たな王妃にすると、王妃ディアネイラに伝えていなかったのか? そもそも誰が王妃に知らせたのか?

 

「アトレウスさん、もしかして、ヒッポメネスが王妃様に知らせてくれたのかしら?」


 幼馴染が王に逆らわず出ていったのは、助けを求めるためなのか?

 アタランテは期待の眼差しを護衛の戦士に向ける。


「お嬢さん、残念だが、あんたの男は逃げちまったよ。引きとめたが、村に帰るってさ」


 期待の眼差しから輝きが失せた。ヒッポメネスに曖昧な態度を取っていたのに、困った時だけ助けを求めるのは、虫が良すぎたかもしれない。


「そうですか……では、誰が王妃様に……」


「王妃様は、これから知るだろうな。俺の口でね」


 男は得意げに、自らを親指で指した。


「え? じゃあアトレウスさんが? ど、どうして?」


「あんたみたいな美人が叫んでたら、ほっとくわけにいかないだろ?」


 どうやらこの戦士は、アタランテを逃すために王に出任せを言ったようだ。


「戦士様! ありがとうございます! なんてお礼をしたらいいのか……」


 少女は深々と頭を下げる。王の護衛が、自分を助けるために嘘をついてくれたのだ。


「礼なんかいらねえ。惚れた女を、あんなジジイに盗られたくないだけだ」


「ほ、惚れ? そ、そんなこと言われても、わ、私は……」


 この輝かしい戦士が、自分に特別な気持ちを抱いているとは! アタランテの胸の鼓動が強くなる。


「気にすんな。あんた、少なくともジジイの女にはなりたくないだろ?」


「だって王様は私の父より年上……いえ」


 アタランテは首を振り嫌悪の表情を打ち消した。精一杯口の端を突っ張って笑みを浮かべる。


「私、王妃になります」


 少女は理解していた。アルゴス国一の魔力持ちである王の命令には逆らえない。今日はアトレウスの機転で逃げられたが、明日になればもう逃れられない。


「王妃になれば、王様にお願いできます」


 男の顔から輝きが失せた。


「……なら、妃になってせいぜい贅沢三昧するがいい。ジジイの女になるからには、それぐらいの役得はないとな」


「やめて!」


 少女は戦士を睨みつける。


「国の妃が贅沢するわけにはいきません! 私は……王様にこれ以上、竜の生贄を出さないよう、お願いします」


 二人きりの王宮の客間で、時が止まった。アトレウスは口を半開きにして、少女の眼を凝視する。


「……やはりあんたは、竜の娘なんて、やりたくなかったんだな」


 男はかすかに唇を震わせた。


「当たり前でしょ! 竜が望む? 雨が降らない? だからといって小さな男の子を殺すのは間違っている! でも私にできることなんて、みんなの悲しみを散らすことだけよ! あの子は英雄じゃない! いくら来世で幸せになれたって、今、幸せにならなければ意味がないのよ!」


 アタランテは両の拳を握りしめる。


「私が王妃になったら、お願いするわ。王様のように力ある魔法使いが竜と話せば、生贄を捧げなくてすむかもしれないわ」


 少女は力を込めてほほ笑んだ。涙をにじませて。


「わかった。生贄はやめさせる。でも、あんたがジジイのものになる必要はない!」


 アトレウスは少女の身を引き寄せ、強く抱きしめた。

 アタランテは男の腕の中で目を閉じる。なんとこの腕の中は心地よいのだろう。この温もりの中で永遠に眠ってしまいたい。

 しかし、それが許されるのは今日限り。


「いいのよ。アトレウスさんは、王様の護衛なんでしょう? 私が王妃になったら、私のことも守ってくれる?」


「あんたのことは、ずっと守ってやるよ」


「お願いしますね、戦士様」


 アトレウスがいつも付き従い守ってくれる……そんな未来を思い浮かべるだけで、心が弾む。この戦士をいつも見ていられるなら、王妃となった甲斐がある。抱きしめられることは二度とないが。

 アタランテは男の背中に腕を回してしがみつく。最初で最後の抱擁を心に刻みつけるために。


「俺に可能性はないのか?」


「可能性?」


「あんたの男になる可能性だよ……昼間、あんたは全くないと言ったが」


「……もうなくなったわ。私は王妃になるもの」


「じゃあ、今まではあったってことだな。そりゃありがたい」


 男は、軽々とアタランテの身を抱き上げた。

 少女は男の首にしがみ付き、体を震わせる。

 そのまま寝台に二人は移った。アトレウスはアタランテの身を横たわらせる。

 村長の娘は両の拳を固く握りしめ、目を瞑った。


(も、もしかしてこれって……)


 少女は頬を赤く染めた。村の若い女たちは、恋しい男と結ばれた夜の出来事をヒソヒソと自慢していた。アタランテは陰でこっそり噂話に耳を傾けていた。男は女を抱き上げ寝台に寝かせ、二人は抱き合い……。


 ふとアタランテは我に帰る。アトレウスとは、今日知り合った。二人は、言葉を少々交わしただけの間柄だ。

 彼は自分のことを竜の娘として知っているだろうが、自分は彼のことを何も知らない。彼の故郷も家族もわからない。

 彼には恋人や妻子がいるのかもしれない。アタランテを気に入っているようだが、このような美青年に恋人がいないとは考えにくい。


(し、信じられない。全然知らない男の人とこんなことするなんて……わ、私どうしたらいいの?)


 結婚を考えたヒッポメネスとも、固く抱き合ったことはない。なにかと触ろうとする幼馴染の手を、アタランテは払いのけていた。

 アトレウスの大きな手が、アタランテの額をそっと撫ぜる。少女はビクッと身を震わせた。


「明日、俺が迎えに来るまで、あんたはここでじっとしてろ。戸口には見張りをつけておく」


「え?」


 予想と違った男の行動に少女は脱力する。瞼を開いて身を起こした。


「お嬢さん、そんな顔するなよ。よっぽど俺と寝たいんだな」


「ば! 馬鹿! 下品なこと言わないで!」


 図星を刺されたアタランテは、頬を真っ赤に染める。


「わかったわかった。今度教えてやるから、楽しみにとっときな」


「楽しみになんかしてません! それに……私は王妃になるのよ……」


 少女の真っ赤に染まった頬が、みるみるうちに青白くなる。彼と結ばれる日は永遠に来ないのだ。


「お嬢さんがジジイの女になることはない。俺がなんとかしてやるから、あんたはここで待ってろ」


「なんとか? だって……」


「もう、大人しく寝てろ。絶対に自分から部屋を空けるんじゃないぞ」


 金髪の戦士は、少女の眼差しを振り切って出ていった。

 アトレウスは、王を説得するつもりなのか? アルゴス王の魔力は強大だが、あの逞しい戦士なら自分を王の魔手から救ってくれるかもしれない。彼の輝く笑顔は、不可能を可能にする力に満ちている。


 アタランテは、儀式のときに彼がかけてくれた布で身を包む。アトレウスの腕に抱かれているよう。

 なにも怖くなかった。

 この日少女は、村の女たちの噂する恋がどういうものか、身をもって知った。


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