66 犠牲
アタランテは三つ編みの戦士に連れられ、広場に設けられた祭壇にたどり着いた。幼馴染のヒッポメネスが杖を手にして後ろを歩く。
祭壇の周りに、アルゴスの王と王妃が腰掛けていた。二人の王子に二人の王女に彼らの配偶、そして五人の賢者と戦士たちが王と王妃を囲むように立っている。
アタランテを導いた金髪の戦士は、王の背後に直立した。
少女は王の前に進み出て頭を垂れた。
アタランテとヒッポメネスが犠牲の式に呼ばれるのは、これで三度目だ。
「半年ぶりかの。お前はますます美しくなった」
アルゴス王メレアグロスは、今年で五十五歳になる。王者の杖を握りしめる手には深く皺が刻まれている。トーガからのぞく手首は、骨に皮が張り付いているかのよう。窪んだ眼の下はたるみ、年よりも老いて見える。
「王様、王妃様、久方ぶりでございます。天に召される魂が安らぐよう、力を尽くします」
王妃デイアネイラは妖艶な笑みをアタランテに向けた。
「本当に可愛らしいお嬢さんだこと。アルゴス一の魔力持ちとは思えないわねえ、おほほ」
妃は王と歳はさほど変わらないはずだが、華奢で若々しくニンフのようだ。すでに孫もいるが年を感じさせず、腰が引き締まっており、女の色香を漂わせている。
(本当の美女って王妃様のような方よね)
アタランテは男たちが自分と結婚したがるのは、彼女の魔力にあると自覚していた。
王メレアグロスは椅子からゆっくりと立ち上がり、手を上げた。
「では、捧げものをここへ」
女と子供が戦士たちに連れられ、王に跪いた。
アタランテは目を見開き、顔を覆う。
(転んで泣いていたあの子だ! では、せっかく手当てしてあげたのに……)
ふらつく少女を、幼馴染の青年が支える。
「アタランテ、僕が着いているから」
「ありがとう、ヒッポメネス」
王メレアグロスは子供の前に進み、王者の杖を掲げ天を仰ぐ。
「我ら人の子に力を授けてくださる天の竜よ。我らの宝を捧げよう。願わくば雨を降らせたまえ」
女は子供を強く抱きしめ泣きじゃくる。
「な、どうして、どうしてこの子を、な、なぜ?」
戦士らが引き離そうと女の腕を強引に掴むが、ますます女は抵抗する。
アルゴスの王がアタランテに強く呼びかけた。
「竜の遣わし娘アタランテよ」
「かしこまりました」
少女は、戦士たちに「乱暴はやめて」と制し、女に近づいた。
アタランテは緑色の眼を輝かせた。
「あなた様は、このアルゴスで誰よりも尊い業を成し遂げました。この選ばれし子を産み育てられたのです」
「選ばれたくなかったわよ! 小麦もワインもいらない!」
少女は女の頬に指を滑らす。
「坊やは天に一度は還りますが、またこの地上に蘇ります。次の世では誰よりも幸せに満ちた生を歩むでしょう。お母様、坊やの門出を祝い、見送ってください。この子は、私たちアルゴスの民を救う英雄なのです」
娘の言葉を耳にするや否や、母親の表情が一変した。怒りはどこかへ消え失せ、恍惚とした喜びを面に湛えている。
「あ、ああ、なんとありがたい! 竜の娘よ!」
女は抱きかかえた子供を地に降ろす。
「坊や、行ってくるんだ。今度は、幸せに生まれ変わるんだよ。あんたはあたしの誇りだよ」
母親に突き放された幼子は、あたりを見回す。巨大な斧を持つ男と視線があった途端、泣きじゃくった。
何も知らない幼子だが、自らの運命を悟ったのだろう。
アタランテは子供の元にしゃがみ込み、つぶらな瞳をじっと見つめる。すると子供はたちまちのうちに泣き止んだ。少女は子供の真っすぐな髪を撫でて微笑んだ。
「何も怖がることはないのよ。あなたはね、このアルゴスで誰よりも立派な人になったのよ。次の世界であなたは、食べ物も住む家も困ることなく生きられるのよ」
アタランテは立ち上がり、子供の手を引いて祭壇に導き、斧を持つ男に委ねた。子供は気だるそうに、祭壇の上に横たわる。アタランテは子供に近づいた。
斧を持つ男は「そこだと、返り血を浴びますよ」と、少女に警告した。
「構いません。私は、この子が最後の時まで安らぐよう、祈ります」
すべての仕度が整うと、王メレアグロスは「竜に、この清らかな魂を捧げる」と高らかに謳いあげる。
アタランテは、子供の眼に意識の全てを集中させた。
斧が振り下ろされ、小さな首が切り落とされる。
人々の恐怖の叫びが、祭壇に響く。
血飛沫を浴びたアタランテは、泣き崩れる女に駆け寄り、抱きしめた。
「お母様、あなたの尊い犠牲がアルゴスを救ったのです」
「竜の娘よ。なんとお優しい」
アタランテは、母親を落ち着かせると立ち上がり、広場の人々に呼びかけた。
「みなさま! どうかこの尊い母と子を讃えてください。恐れることはありません。この子は竜に選ばれた英雄なのです」
群衆の叫びは恐怖から歓喜に変わり、犠牲となった母と子を讃える。歓声の中に、「アタランテ様!」「竜の娘!」と少女への賛辞が混じる。
王は「ヒッポメネスよ」と、呼びかけた。アタランテは、血まみれの斧を持つ男の傍に退いた。
ヒッポメネスは祭壇の前に立ち杖を掲げた。と、杖から炎が吹き出し、犠牲の幼子の体を燃やす。
彼は、感嘆の声を上げる群衆に向き、また杖をかざした。と、人々の頭上に、大きな翼の形をした炎が舞い踊る。
「竜だ!」
人々は、炎の竜を出現させた若い魔法使いを、尊敬の眼差しで見つめる。
次にアルゴス王が、痩せた体を引きずり、中央に立った。ヒッポメネスは後ろに下がる。
王メレアグロスは杖を掲げて天に祈る。
「炎により犠牲の血は清められた。願わくば偉大なる竜よ! アルゴスの民に雨をもたらせ給え!」
炎の竜は消え失せる。王の祈りとともにむら雲が現れ、ひと時ではあったが温かな雨が都を湿らした。
ひと時とはいえ、ひと月ぶりの雨は人々に喜びをもたらす。むら雲は去り、光が射した。歓声が、都の四方八方に広がった。
アタランテは人々の喜びをよそに眉を寄せ、斧を持つ男に近づき手を伸ばす。
男は「女! 何をする?」と身を固くした。
「幼い子の命を絶ったあなたこそ、誰よりも辛いでしょう。しかしあなたはその苦しさを乗り越え、人々に幸せをもたらしたのです」
途端に斧の男は地に崩れて泣きじゃくる。
「あああ! 人殺しと忌み嫌われる俺にまでなんと……竜の娘は天の使いか!」
アタランテは男に合わせてしゃがみ込み、優しく背中を撫でた。
サンダルの音が近づいてきた。見上げると、先ほど炎の竜を出現させたヒッポメネスが、口を捻じ曲げている。
「首切り人にまで君の力を使うことはない」
少女は立ち上がってヒッポメネスの袖を引っ張り、祭壇から離れた。
「ヒッポメネス! あの場で、あんなこと言うなんて、人の心がないの?」
「アタランテ怒るなよ。僕は君の優しさに感動したんだ」
「そうではなくて! 首切り人だって私たちと同じ人なのよ!」
優しくて賢いはずのヒッポメネスがなぜわからないのか、少女は苛立ちを募らせる。
強い口調で幼馴染を責めたてた。
畳みかけるように攻撃を繰り返すアタランテだったが、一瞬で言葉を止めた。
温かいものがふわっと降りてきたのだ。
大きな布を頭から被せられた。見上げると、金髪を編み上げた男が気難しい顔をしている。
アタランテを祭壇に連れてきたあの戦士だ。
が、先ほどとは違い、上半身をあらわにし、腰布だけを巻いた姿で立っている。
盛り上がった胸や引き締まった腰。これほど逞しい体つきの男は、村では見たことがない。アタランテの胸が高鳴るが、自分を包んだ布はつまり……。
「これって戦士様の服?」
アタランテは慌てて布を取り、金髪の男に戻す。
が、男は首を振った。
「若い娘が、いつまでも血まみれの格好をさらすな」
そう言って男はアタランテの頬をゴシゴシと拭う。
ヒッポメネスが目を吊り上げた。
「さっきの男か! 言っただろ! アタランテは僕の婚約者だ!」
「婚約者というなら、女を守るんだな。俺なら、惚れた女にこんなことはさせないが」
「こんなこと? アタランテは僕らティリンス村の誇りだ! 王の儀式に参加できるとは、名誉ではないか!」
「名誉? そこのお嬢さんは、そんなこと思ってないだろ?」
見知らぬ男と幼馴染の諍いに、少女は目を吊り上げる。
「やめてください! 私はただ、少しでも皆さんの気持ちが楽になれば良いと思っただけ」
「ごめんよアタランテ」
ヒッポメネスは長い巻き毛に手を伸ばすが、少女は幼馴染から離れ、戦士に頭を下げる。
「戦士様、お気遣いありがとうございます。この服は洗って返しますので、お名前を」
男はニヤッと笑った。
「返さなくてもいいが、美女に名前を聞かれたら答えないわけにいかねえな。俺は、王の護衛アトレウスだ」
「アトレウスさん……よいお名前ですね」
「無礼な戦士には過ぎる名だ」
「お嬢さんこそ、いい女だ。そのお坊ちゃまにはもったいない。部屋に戻って休みな。あとで王様に褒美をたっぷりねだるんだな」
「ヒッポメネスは素晴らしい魔法使いです! それに私は、褒美が欲しくて来たわけではありません!」
男はカラカラ笑い、王の元へ去った。
「アタランテ、王宮の戦士は嫌なやつだ。僕らが田舎者だと馬鹿にしているんだね」
「そうね。失礼な人……」
少女は口元を緩め、自らを包むアトレウスの服の温もりを、きゅっと掴んだ。




