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65 出会い

――これから私は、何の罪もない幼い子を殺す。


 少女アタランテは、アルゴス王宮前の広場で身を固くし震わせた。

 広場の前には何千人もの群衆が集まっている。王宮の前に大きな祭壇が築かれ、アルゴスの王と王妃、王子と王女、賢者たちと護衛の戦士たちが取り囲んでいる。

 ゴンドレシア大陸には大小二十の王国があるが、アルゴスはその中でも群を抜いた大国だった。


「大丈夫かい? アタランテ」


 長い杖を持った青年が茶色い眉を寄せ、空いた手で少女の肩をさすった。


「あ、平気よ。ヒッポメネス」


 アタランテは青年の手をはらった。


「そんな固くならないでよ。僕らは結婚するのだから」


 少女は大げさに首を振る。


「まだ結婚するとは決まっていないわ」


 ヒッポメネスは灰色の目を細めて、寂しげに笑う。


「アタランテ、君のお父さんもお母さんも、僕らの結婚を許してくれたよ」


「で、でも……」


 アタランテは十八歳、ヒッポメネスはニ十歳。二人は、アルゴス郊外のティリンス村で育った幼馴染だ。


「村長の娘は、僕みたいな豚飼いの息子は、嫌なんだろうね」


 アタランテはため息を吐く。同い年の女たちはもう母になっているが、彼女はまだ結婚に踏み切れなかった。


「違うわ! そういうことではないのよ」


 彼女が結婚を焦る必要はなかった。彼女には大勢の求婚者がいた。故郷ティリンス村のみならず、となりの村や都の貴族からも申し込みが後を絶たない。

 なるほどアタランテは美少女であった。ブルネットの長い巻き毛は豊かで艶やか、緑色の眼は大きく輝く。意志の強そうな眉毛に蠱惑的な唇。ティリンス村一の美女は、王都でも色あせることなく、道を歩けば誰もが振り返る。

 が、田舎の村長の娘に求婚が殺到する理由は、美貌ではなかった。


「お父さんもお母さんも、ヒッポメネスはアルゴス一の魔法使いって褒めているわ」


「アタランテ。君の魔力には敵わないよ」


「ヒッポメネス。私……自分でもこの力がわからないの。あなたやお父さんお母さんと違って、私には竜が見えないのよ」


 少女は自分の左手を広げた。となりの青年も両親も魔法使いだ。彼らは風火水土の力を操り、村人のために役立てている。魔法使いとは、天に住む竜を地に呼び出す者。ただ人には見えない竜が魔法使いたちには見え、声を聞き、力を借りる。


「君の力は本当に不思議だ。風火水土のどれでもなく、杖も使わない。なのに君のお陰で、ティリンスのみんなは病知らずだ」


 青年はアタランテの髪に指を滑せるが、彼女は頭を振ってするっと逃げた。両親の言葉を思い出す。


(ヒッポメネスはいい若者じゃない。働き者で見栄えもいいわ)


(そうだな。なんといっても、ヒッポメネスの火の魔法は見事だ。お前のような娘が結婚するなら、魔法使いに限るぞ)


 父母の気持ちは痛いほどわかる。殺到する求婚者の応対に辟易しているのだろう。

 両親がヒッポメネスとの結婚を強く勧める理由も納得できる。見知らぬ土地の貴族に嫁がれるより、同じ村のよく知った若者を婿に迎える方が、親としては安心に違いない。

 それにヒッポメネスは美男子で、優しくアタランテを気遣ってくれる。理想的な夫になるだろう。


(でも……私は、恋というのがよくわからない。恋を知らないで結婚していいの?)


 村の娘たちは顔を赤らめ男たちの噂に興ずるが、アタランテにはよくわからない。恋をすると胸が高鳴り一日中その人を想い焦がれ苦しくなるというが、ヒッポメネスに対してそのような感情を持ったことはない。

 幼い時から兄妹のように接してきたためだろうか。時がくればそのような気持ちを抱くかもしれないと待っているうちに、十八歳になってしまった。


「さて、僕らはあそこの祭壇に向かえばいいんだよね」


 二人は、ティリンス村から十日かけてアルゴス王宮までやってきた。彼らが王都を訪れたのは遊びではなく、王命で呼び出されたからだ。

 未婚の男女の二人旅を、アタランテの両親は反対するどころか『あたしたちは後で行くから。儀式が終わったころ、迎えに行くよ』と、送り出した。

 父母はなにがなんでも二人を結び付けたいのだろう。幸いヒッポメネスは、道中、未婚の男女の枠を超えることなく、紳士的に振舞ってくれた。


「じゃあ、人混みではぐれないように」


 ヒッポメネスはアタランテの手を握りしめた。


「ええ、あ、でも待って!」


 少女は手を振り切って、人混みの中を分け入って進む。ヒッポメネスも急ぎ足で追いかけた。四歳ぐらいの男の子が、一人ぼっちで泣いていた。


「うわーん、うわーん。いたいよー」


 アタランテは子供の足元にしゃがみ込んだ。と、子の膝から、血が一筋垂れている。


「走って転んだのかしら。これは痛いわ。待ってて」


 少女は子供の膝に手を翳し、じっと血の流れを見つめた。瞬く間に血は止まった。荷袋から布切れを出して、子供の膝をサッと拭う。血の痕跡は消え去った。


「いたいの、きえちゃった」


 子供がポカンと少女を見つめる。女がバタバタと駆け付けてきた。


「坊や~! 勝手にどっか行かないで!」


 女は子供を抱きかかえ、アタランテたちに頭を下げ、雑踏の中に消えていった。


「本当に君の癒しの力は素晴らしい。瞬く間に子供の怪我を治してしまった」


 ヒッポメネスは笑顔で少女の頭を撫でた。アタランテは「ありがとう……行きましょう」と頭を振って、祭壇の方に顔を向けた。

 そこに、ひと際背の高い男が立っていた。


 男は皮の胸当てを身に着け、腰に剣を履いている。長い金髪を三つ編みにまとめて垂らしている。男はヒッポメネスより年が上のようだ。

 彼は青い眼でアタランテたちをじっと見つめていた。


「なるほど。あんたがアタランテか」


 ヒッポメネスは、アタランテを庇うように立った。

 男が顔を崩して目を細めた。


「そんな怖い顔すんなよ。俺は王様に頼まれて迎えに来た。王宮のあんたらが泊っている部屋に使いをやったら、空っぽだったからな」


 三つ編みの男は、王宮の戦士のようだ。

 幼馴染が少女を睨みつけた。


「だから言っただろ! 勝手に部屋を抜けるのはまずいって」


 アタランテとヒッポメネスは、村に迎えに来た王の使いに導かれ、昨日の昼間、王宮に到着した。王と王妃自ら二人の若者を歓待し、昨晩、馳走にあずかる。二人はそれぞれ用意された客間に泊まった。

 少女は居住まいを正し、向き直った。


「申し訳ございません。儀式の前に、この広場に集まるみなさまの心を知りたかったのです」


 背の高い戦士は弾けるような笑顔を見せた。


「お嬢さん、あんたは大した女だな。さっきの泣きべそのガキは、あっという間にご機嫌だ。俺には魔法というのがさっぱりわからないがね。さて」


 金髪の男が手を差し伸べた。


「準備ができたら、王様んとこ行くが」


 アタランテは右手を握りしめ、男の大きな手をじっと見つめる。澄み切った青い瞳。屈託のない笑顔。


「で、では……よろしくお願いします」


 少女はゆっくりと男と手を重ねた。


「これが、竜の娘の手ってやつか。小さいんだな」


「おい! 彼女は僕の婚約者だぞ!」


 ヒッポメネスが目を剥いた。


「まだ決まってないでしょ!」


 アタランテは目を吊り上げる。


「あはは、そうか。なら、俺にも可能性があるってことか」


 途端、少女の顔が真っ赤に染まった。


「な! 可能性って何を言ってるんです!」


 皮の胸当てを着けた男は、笑顔を崩さない。


「アタランテさん。俺の仕えている貴族のお坊ちゃまもあんたの不思議な力に惚れて、嫁にしたいと騒いでる。あんたはそこのお坊ちゃんに拘ることなく、優れた男を選べばいい」


「馬鹿にするな! 僕は小さい時からアタランテを知っている」


「やめて! ヒッポメネスも、戦士様も!」


 アタランテは知っていた。彼女に求婚者が殺到する理由は、美貌ではなく自分の力が原因だと。

 アルゴス国のみならず、ゴンドレシア大陸では、竜の力を媒介する魔法使いたちが民を支配していた。王族も村長もみな魔法使いだ。両親が平民でも、魔力さえあれば貴族や王になれる。それゆえ誰もが男女問わず、魔法使いの配偶になりたがる。

 しかも普通の魔法使いのように竜から風火水土の力を借りるのではなく、杖もなく自らの意志で人の病や怪我を治癒する使い手は、アタランテだけだった。


「戦士様、私は、優れた方に嫁ごうなど考えてはおりません。私はたとえ乞食でも、自分で決めた方にお仕えします」


 少女は美しい唇を尖らせて、金髪の戦士を睨み付けた。


「間違いないのは、あなたには可能性が全くないことです!」


「あはは、そりゃ残念だな。あんたを王様の元に連れて行けるだけで、よしとするか」


 男はアタランテの手をぎゅっと握りしめ、雑踏から連れ出した。

 少女の手と胸が熱くなってきた。

 この大きくて温かな手に包まれていたい。祭壇までの道のりのなんと短いことか。


(名前も知らない男の人なのに、私はどうしたの? 私は何を考えているの? 駄目! そんな風に浮かれてはいけない!)


 アタランテとヒッポメネスは、これから始まる儀式のため王に呼ばれた。

 このアルゴスでは、ひと月も雨が降らず、人々は渇きに苦しんでいた。

 王が竜に問うと、幼子の命と引き換えに雨を降らすとのお告げがあった。

 間もなく広場の祭壇で、犠牲の式が始まる。


――これから私は、何の罪もない幼い子を殺す。


 アタランテは男の手の温もりから抜け出し、祭壇をじっと見つめた。


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