59 薔薇の庭園
ほのかに漂うオレンジの香りが、王太子ロバートを目覚めさせた。
よく馴染んでいる香り。愛おしい香り。
目を開ければ思ったとおり、窓から差し込む月明かりに照らされた恋人の顔が見えた。
意志の強そうな目元と鼻筋。エメラルドのように輝く眼。
「メアリ、どうしたんだい?」
婚約者が太子宮に泊まった時は、ロバートのベッドで抱き合う。が、朝目覚めると、彼女は隣にはいない。ロバートが眠りにつくと、メアリに用意された部屋に帰っているようだ。残念なことに。
しかしメアリは今、真夜中に忍び込んできた。
彼女も自分と同じように一人の夜が寂しくなったのか。
王太子はベッドから身を起こした。
「僕のアタランテ。朝まで一緒にいよう」
「いけません、ロバート様。私はアタランテ……様ではございません」
「でも僕にとって君は、聖なる妃だ」
「だ、駄目ですわ。私はただ、ロバート様のご様子を伺いにきたので……お休みのところお邪魔して申し訳ありません……」
頬に触れようと手を伸ばすが、メアリは消えてしまう。追いかけたいのに体が動かない。強い眠気に襲われ、ベッドに引き戻される。
(メアリ、なぜ行く? 君にとって僕は、同じ前世を分つ者……のはず……)
彼の問いかけは、婚約者に届かなかった。
「おはようございます」
メアリが王太子の寝室に、ワゴンを押して入ってきた。
ロバートは、ベッドから身を起こした。
婚約者は、サイドテーブルにティーセットを置いて、砂時計をじっと見つめている。
「メアリ、その……昨夜は……」
「いかがなさいましたか?」
メアリがあまりに無邪気な顔を向けるものだから、なぜ昨晩、寝室に忍び込んできたのか、聞きづらい。
ロバートは「いや、なんでもない」と言葉を濁した。
砂時計が紅茶を入れる時間を、音もなく告げる。
メアリは白い手で紅茶をカップにゆっくりと注ぎ、薔薇の花びらを浮かべた。
「宮殿には薔薇の温室があるんですね。シェフがおっしゃっていました」
王子はサイドテーブルからカップを取り、薔薇の香りに鼻をくぐらせる。
「温室では、装飾用の薔薇も食用の薔薇も育てている。この花びらも温室で摘んだものだ。メアリにはまだ温室を見せていなかったね」
「いつか案内してくださいね」
「いつかと言わず、朝食が終わったら行こうか」
「でも、ロバート様、今日はお忙しいのでは?」
メアリはワゴンから新聞を取り出し、記事を見せた。
「新聞に載っていますよ。ロバート様が今日出席される原子論学会ですね」
「夕方のパーティーはメアリも一緒だ」
「え、ええ……私、科学が苦手ですが、がんばります」
「君の前世では、このネールガンドよりずっと科学が進んでいたのだろう?」
「はい……でも私、化学式を見ると逃げ出していました。もっと勉強すれば、ロバート様のお役に立てたのに」
ロバートはカップを置いて、ベッドから抜け出した。
新聞を整理して並べる婚約者を後ろから抱きしめる。
「僕が君に望むのは、一緒に朝を迎えることだ」
メアリはロバートの腕の中で、肩を震わせた。
「で、でも……侍女のみなさまに、朝、一緒にいるところを見られるのは、恥ずかしくて……」
「恥ずかしいもなにも、君はもう僕の妃だ」
太子の婚約者は身をよじって、ロバートの腕の中から抜け出す。
「あ、あの……あとでワゴンを下げに参りますね」
逃げ出そうとするメアリの腕をロバートは捕らえた。
「後ほど、薔薇の温室に行こう」
女は耳まで赤くして小さく頷いた。
昨晩忍び込んできたメアリは、するっと逃げた。
が、今朝のメアリは、ロバートがよく知るメアリだ。逃げ出そうとしても容易く捕まえられる。
いつものメアリだ。何も変わらない……ロバートが同じ「チキュウ」からの生まれ変わりだと信じているメアリだ。
冬の冷たい風がネールガンド王宮の庭園を通り抜ける。
「メアリ、こっちにおいで」
ロバートはメアリの肩を抱き寄せ、薔薇の温室に向かう。
「庭園の薔薇は、春になると見事な花を咲かせますね」
「父上が、薔薇の季節に庭園を公開したいとおっしゃっていた」
「陛下はいつも国民のことを考えてくださいます。このようにゆっくりお散歩できるのは、今のうちですね」
メアリがブルネットの頭をロバートに押し付けてきた。
彼女が一途に慕ってくれることは間違いない。恐れることはなにもない。
「ロバート様。薔薇の庭園というと、聖王様と聖妃様を思い出します」
「僕もだ。聖妃様は薔薇を好み、ご自分で世話をされていた。その薔薇が枯れて悲しみ、病になった。聖王様は聖妃様を元気づけようと、国中から庭師を呼び寄せ、見事な薔薇の庭園を造らせた。聖妃様は聖王様に大いに感謝したという伝説だね」
「ええ、でもそのあとがお気の毒で……せっかく聖王様が薔薇の園を造らせたのに、聖妃様はお亡くなりになります。聖王様は悲しみのあまり、王子イドメネウス様に王位を譲り、毎日、聖妃様のお墓参りをされたのですね」
木枯らしが吹きつける。二人はさらに肩を寄せ合った。
「それほどまでに聖王様は聖妃様を愛されたのですね。どのような薔薇園か見てみたいわ」
「メアリ、残念だが、この王宮の薔薇園に比べると、聖王の薔薇園は寂しいものだったはずだ。二千年前の薔薇は今より小振りだったからね。大輪の薔薇は、品種改良を重ねた結果だよ」
王子の婚約者は頬を膨らませた。
「もう! ロバート様、夢のないことをおっしゃらないで。きっと色とりどりで香り漂う薔薇の園だったんです!」
「はは、また僕は間違えたな。セバスチャンに叱られる……温室に着いたか」
巨大な温室が、吹き付ける風に耐えている。ガラスに着いた水滴のため、中はあまり見えない。
「ここが入り口だが……鍵がかかっているな」
ロバートは真鍮のドアノブを回そうとしたが、動かない。
「すまないメアリ。宮に戻って、庭師に開けさせよう」
「いいえロバート様。原子論学会が始まってしまいます。庭師の方を煩わせては申し訳もありません」
「今度は、庭師のスケジュールを確認してから行くよ」
「気になさらないで。ほら、曇ったガラスに薔薇の色がにじんで……赤やピンクに白に黄色……きれい……ロバート様のおっしゃるとおり。聖王様が造った薔薇園より、この温室の方がずっと美しいわ」
ロバートはメアリのブルネットの巻き毛に指を滑り込ませた。
「でも……僕はメアリに、聖王様のように大きな薔薇園を造ってあげることはできない」
「ロバート様、なにをおっしゃるの? こんな立派な温室があるのに?」
王子は悔しそうに唇を噛み締める。
「これは代々王家に伝わる温室で、僕の物ではない。僕は聖王様とは違って、君になにもあげられない……古代に比べて薔薇は美しくなったが、王の力は失われた」
「違います! 王様の力が少なくなったということは、民の力が増えたということでしょう? 力を振りかざす王様より、力がなくても国民を思ってくださる王様の方が、遥かに優れていると思います」
メアリは微笑み、ロバートの腕に自らの腕を絡ませた。
「それに私はもう、充分すぎるほど、ロバート様からいただいています……朝、一緒に王宮の庭園を散歩できるなんて、夢のようです」
「僕のアタランテ……君は優しいな……」
ロバートは、潤んでいる緑色の眼に誘われるように、唇を重ねた。
セバスチャンの呼び声が聞こえるまで、二人は寒空の下で抱き合っていた。




