3 開祖への祈り
ネールガンド王国に王子が生まれて半年後、カートレット家に女児が生まれた。
メアリは、幼いころからしばしば前世の夢を見てきた。そして、ロバートの婚約者候補に選ばれたと知り、彼女は目覚めた。
ここは、前世で耽溺した婚約破棄物語の世界だと。自分の役割は、王子に断罪される悪役令嬢だと。自分の容姿も悪役令嬢らしいではないか。
メアリはロバートの元から離れるつもりだった。
転生者である自分は、彼の妃に相応しくない。この世界のために、むしろ別の生き方をすべきではないか?
が、ロバートが同じ地球からの転生者だと知り、メアリは彼の傍で生きようと決意した。
敬虔なエリオン教徒であるロバートにとって、転生者であることは苦しみでしかない。が、メアリにとっては、望外の喜びであった。
彼女は、恋しい人が自分と同じ転生者であると知り、彼の記憶について尋ねた。食べ物や街並みに気候など、こと細かく尋ねた。メアリは、彼の前世でどの国に生まれたのか知りたかった。
彼に金を恵んだ日本人男性の容姿について詳しく聞いたら「細かくは覚えていない。立派な身なりで帽子も立派だった」と言う。
ネールガンドの男性は外出ときに帽子を被るが、メアリの前世の日本では、男女共に帽子はファッションアイテムのひとつにすぎない。男性が帽子を日常的に被っていた時代となると、日本の戦前だろうか。帽子を被った日本人男性が、現地の子に金を恵む……戦前のアジアかもしれない。
メアリはこれらの推理をロバートに披露するが、彼は泣きそうな顔を見せるだけだった。
「本当にすまない。僕が覚えているのはその一日だけなんだ」
望外の喜びは続かなかった。
なぜロバートの記憶はその日だけなのか?
エリオン教を守護する王太子の立場から、転生の記憶を封じ込めているのだろうが、メアリはひとつの可能性を思いついた。
彼の前世である乞食の子供は、成人することなく亡くなったのだろう。
メアリは、ロバートに地球の月の模様や、オリオン座の星の配置を絵に描いて見せたが、何の反応も見せなかった。地球人なら誰もが知る形なのに。
彼は、夜空を見上げて心を慰めることもできなかった。犯罪組織に絡めとられ、日常的に虐待されていたのかもしれない。
悲惨な人生の中で、異国の紳士と接した一日だけが喜びだった……だからロバートは、日本の紳士との出会いしか思い出せないのだ。
彼と出会って一年経った。目まぐるしい一年だった。今、ロバートはメアリのとなりで安らかに眠っている。長い睫毛に透き通る肌。古代の神像のように美しい。
自分は彼のとなりで眠る資格があるのか?
メアリはそっとベッドを抜け出し、ナイトガウンを羽織って静かに廊下に出た。自分に割り当てられた向かいの部屋に戻る。歴代の王女の寝室が、今、メアリの宿泊室として使われている。
「私、やはりロバート様から離れるべきかしら?」
かつて王女たちが眠ったベッドにメアリは腰を下ろした。
「転生者である私がお傍に仕えることで、ロバート様を少しでもお慰めできればと思ったけれど……」
だが、ロバートの前世は悲惨な人生だった。転生者であるメアリの影響で記憶を取り戻したら、苦しみが増すのではないか?
「で、でも……もう私は、あの人から離れられない……」
憧れの王太子と結ばれ二か月が経った。幾度も彼と夜をすごしメアリは想いを募らせる。
彼女の好むロマンス小説や前世で親しんだ異世界恋愛コミックでも、ヒロインはヒーローと結ばれてから愛を自覚する。
メアリは立ち上がり、サイドボードに向かった。家具の上には、手のひらほどの小さな木彫り像が置かれている。開祖エリオンの木像だ。
巻き毛の青年は、ゆったりとしたローブに身を包み、七つの小さな石を繋げた首飾りをかけている。
「エリオン様。私の醜い心を叱ってください。私は、あの方を独り占めしたいのです。将来、私よりずっと妃に相応しい方が現れ、あの方が私を捨てたら……今度こそ私は、真の悪役令嬢になるでしょう」
悪役令嬢は、嫉妬のあまり王子をなじる。王子の新たな恋人に嫌がらせを繰り返す。メアリは醜い自分を想像し、自身の恐ろしさに震えた。
彼女は史師エリオンに祈り続けた。ベッドに戻っても、眠りにつくまで祈り続けた。
眠ったはずのメアリは、ムクっと起き上がった。
「面倒な女だ」
男のような声がメアリの口からこぼれた。
「祈られても困るな」
メアリの白い手は、ブルネットの巻き毛をグシャグシャとかき回す。
立ち上がって廊下に出た。
先ほどまで愛を交わした男の元に、身を運ぶ。
夜回りの侍女は、王子の寝室に忍び込むメアリを見かけたが、当然、気が吐かない振りをする。
女は、眠るロバートの傍らに椅子を置いて、腰かけた。
「セオドアの末裔よ、お前はわかっていない。残念ながらエリオンは、潔白な男ではないのだ」
メアリの唇は、男のような声でロバートの耳元に囁いた。
「メアリの言うとおりだ。エリオンにとってカリマは、欠かせない女だった」
女の緑色の眼は閉ざされた。眉間に皺が刻まれる。その皺は、若い伯爵令嬢のそれではなく、老婆のようであった。