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97 華やかな宴

 春の日差しがアルゴス王宮前の広場に降り注ぐ。朝から群衆が詰めかけ、都は喧騒に満ちていた。

 大国アルゴスの第一王子イドメネウスと高貴なクリュメネの結婚を祝おうと、アルゴス中から人々が詰めかけた。その中には、ティリンス村長の夫妻、タラオスとメロペもいた。王妃の両親は重臣たちと共に祭壇の近くに立った。老いた夫婦は初孫の結婚に涙を浮かべる。


 もうひと組の祖父母、先の王メレアグロスと先の王妃デイアネイラは、煌びやかな威厳を放っていた。デイアネイラは、幾日も前からメレアグロスの衣に刺繍を施し、彼の首飾りを吟味していた。王宮の侍女たちに号令をかけ、夫の湯浴みをさせていた。まるで誰の結婚式かわからないほどの大騒ぎだった。

 かつての王と王妃は、時折微笑みを交わし、仲睦まじい様子だ。二十年近くも別れて暮らしていたようには見えない。


 八十歳を超えた賢者ランペイオスは、政務からは退いていたが、王子たちに祈りを捧げたいと、老体をおしての参加となった。

 アトレウスの治世十七年を迎えたアルゴスは、とどまるところを知らず栄えていた。


 祭壇の周囲には賢者たちが香を焚く。竜の像の前にワインを注いだカップが置かれた。

 中央に立った賢者ランペイオスが、竜に祈りを捧げる。


 その両脇に、花婿イドメネウスと花嫁クリュメネが立っていた。クリュメネは白いベールをかぶり、黄金の首飾りを幾重にも巻いている。白いキトゥンの襞は流れ裾を長く引きずっている。

 花婿イドメネウスも大国アルゴスの王子らしく、金の首飾りをかけ、色とりどりの宝石をはめ込んだベルトを腰に巻いている。


 サフィラが薔薇の冠をイドメネウスに渡す。花婿が花嫁に薔薇の冠を被せる。その薔薇は、花嫁の祖父が丹精を込めて育てたもの。

 賢者たちが杖を掲げると、空に炎と水の竜が現れ、尾を絡めて舞った。都中が歓声に沸いた。


 人々には、魔法で作られた特別なパンが配られた。土の魔法の釜に、魔法の水を入れ、魔法の火を起こし、魔法の風を吹き込む。群衆は、儀式の時でなければ作られない魔法の味を、噛み締めていた。


 広場での祈りが済み、王宮の中庭で豪華な宴が開かれた。

 竪琴が恋心を奏でたかと思うと、軽快な笛の音と太鼓の響きが重なり宴を盛り上げる。続いて、異国の女たちが楽に合わせて踊り、ひらひらと布が舞う。


 テーブルには、蜂蜜をかけたパン、ほかにもオリーブとオレンジが盛られた皿が並んでいる。

 この日のご馳走も魔力を注いでこしらえたものだ。

 しかしアタランテの隣でアトレウスは小声で「そんなに旨いか? 俺のパンの方が旨いだろ?」と耳打ちする。女は「どうか、めでたい席ではお控えください」と嗜める。


 サフィラは厨房から香ばしく焼けた牛の肉を運んだ。

 リディアはワインを注いで回っている。

 夫の愛を独り占めした女の腰は、まだ目立っていない。それでも目が離せない。アトレウスがどんな目であの女を見ているのか――知りたくもないのに、気になって仕方がない。


(皮肉なものね。愛していない女を隣に座らせて、愛した女に給仕をさせているなんて)


 アタランテはテーブルの中央に並ぶ花婿と花嫁に顔を向けた。二人とも緊張しているのか、ほとんど食事に手をつけていない。

 パンをひとくち齧った。魔法のパンは美味しいはずだ。水は清らかだし、火加減も調整されている。なのに……。

 女は傍らの男が焼いたパンの味を思い出す。つわりで伏せっている朝、彼は朝食を妻のために用意し寝床に運んでくれた。


(そうね……あなたの焼いたパンの方がおいしいわ……言うつもりはないけど)


 もう二度と彼が王妃のためにパンを焼くことはない。ああ、もしかすると彼は今、リディアのために甲斐甲斐しく食事を用意しているのかもしれない。


(いいの? 竜に誓った夫婦が愛し合うことなく、夫と妻を装って……)


 褐色の肌をした少女が近づいてきた。


「王妃様。もう一切れ、どうですか?」


 サフィラが笑顔で、パンを載せた籠を見せた。

 息子が初めて愛した少女、息子を愛してくれた少女。


「ええ、いただくわ」


 アタランテは一切れのパンを取って皿に移す。

 そして立ち上がり、少女の耳元で囁いた。


「サフィラ、今までありがとう。でも……ごめんなさい……私は王妃で、竜の娘なの」


 声を潜めて少女に詫びた。少女はキョトンと首をかしげている。

 裾を翻し、結ばれたばかりの若い夫婦のもとへ向かった。

 俯いていたクリュメネが、パッと顔を輝かせる。その笑顔は、救いを求めているかのようであった。


「王妃様!」


 幼いときから、息子が生まれる前から娘のように可愛がってきた少女。よく見ると目尻にうっすら涙が輝いている。


(あなたも悲しいの? 愛のない結婚が? いえ、違うわ。この子は……)


「母上、ありがとうございます」


 女は重々しく頷いた。


(イドメネウス、許して……)


 アタランテは、チラッと背後の夫を振り返った。


(アトレウス様は、私をますます疎ましく思うかしら……でも、もういいわ……)


「あなたたち、立ちなさい。並んで、私の目を見て」


 若い二人は訝しげに顔を見合わせるも、母に従う。


「イドメネウスは右手を、クリュメネは左手を出して」


 二人は躊躇いがちに、手を伸ばした。アタランテは二人の手を握りしめて、自らの額に押し付け固く目を閉じ、天の竜に祈りを捧げた。

 淡い優しい光が二人を包んだ。


 宴に居合わせた賢者ランペイオスが「おお! 竜たちの歌声が聞こえる」と恍惚の表情を浮かべる。他の賢者たちも次々に「竜が祝福している」と歓喜の声をあげる。

 竜と言葉を交わせない人々も、若い二人、そして王妃の奇跡の技を讃えた。

 そっとアタランテは、二人から手を離し、目を開けた。息子と娘は頬を赤く染め、見つめ合っている。

 王妃は二人に慈愛を湛えて微笑んだ。


「二人が幸せになることを、母は願います」


 若い花婿と花嫁は、静かに重々しく頷いた。

 元の席に戻ると、アトレウスが「惚れ薬でも飲ませたみたいだな」と、下卑た笑みを浮かべて妻を迎えた。

 アタランテは、夫に顔を向けず下卑た笑いに応えた。


「あなた様の許しを得ず、竜の娘の力を使いました。申し訳ございません」


「それならあの二人に、初めから力を使えば良かっただろ? お前は苦労していたが」


 アタランテは咄嗟に唇を噛んだ。


「私に力を禁じたのはあなた様ではなくて?」


「ああ、そうだ……が、人を幸せにする力もあるんだな」


「いいえ、サフィラには気の毒なことをしました……それに、惚れ薬などではございません。私はただ、小さな愛の種を蒔いただけです。芽吹くかはあの二人次第です」


「言っただろ? あの年の男は、狭い部屋に娘と閉じ込めておけば、どうにでもなる」


「あなた様は、そういう子供だったのですね。でも、イドメネウスは違います」


 そういう子供なら、サフィラとの結婚は考えなかっただろう。


「はは、イドメネウスの見た目は俺にそっくりだが、中身はお前に似たんだな」


 アタランテはようやく夫に顔を向けた。イドメネウス、そしてアイトラにミュリネ、ヒュロスにメノン。みな、アトレウスの青い目と金の髪を受け継いでいる。

 末のメノンを産んだとき、こんな寂しいときが訪れるとは考えもしなかったが、子供たちはこの男との愛の証なのだ。かつて存在し、今は失われた愛の証。


 女たちが、イドメネウスとクリュメネを立たせて手を取った。

 これから二人は初めての夜を迎える……偽りの夜を。

 花嫁クリュメネは「サフィラ、あなたも手伝って!」と、花婿の愛する娘に笑顔を向けた。褐色の少女は背を丸めて、小走りに近寄る。

 このあと、イドメネウスと共に夜を過ごすのはサフィラでありクリュメネではない。花嫁には別に部屋が用意されている。クリュメネがアタランテに、別室の準備を強く願った。


『イドメネウスたちとは離れた部屋で休ませてください。可愛い弟の新婚を邪魔したくありませんから』


(どうなるかしら……私の力で、イドメネウスの気持ちは変わるかしら)


 サフィラも含め侍女を従えた二人は、宴の間の奥の扉から出ていった。


 宴はまだ続いていたが、若い二人が消えた扉の奥から、すすり泣く女の声が聞こえてきた。


(あの娘の声はどちら?)


 途端に場は騒めいた。イドメネウスを巡る二人の若い娘のことは、誰もが知っている。

 アタランテは再び立ち上がった。


「みなさま、私たちの子供たちを祝福してくださり、お礼を申し上げます。どうぞ、もうゆるりとお休みください」


 アトレウスが続く。


「みなの案ずる気持ちはよくわかる。が、ここは任せてくれないか。アルゴスを支えるみなに見守られた我が息子イドメネウスと、娘となったクリュメネは、アルゴス一の幸せ者であろう」


 王と王妃の笑顔の底知れぬ迫力に圧され、錚々たるアルゴスの重鎮たちは、好奇心に蓋をして、渋々と退散することとなった。

 子供たちも侍女たちに促されて席を立った。長女アイトラがアタランテに「クリュメネ姉様大丈夫かしら?」と案じる。母は「あなたの姉上は強い人よ。今日は、弟たちと妹の面倒を見てくれて、ありがとうね」と、娘を労った。


 奥の扉が開いた。現れたのは、イドメネウスとサフィラの二人だった。

 この二人が並んで現れるとは、アタランテの予想外だ。

 王妃は、皿を片付ける女たちに命じる。


「みな、今すぐここから立ち去りなさい。片付けは明日の朝でよろしい」


 女たちは心得て、持てるだけの皿を抱え退出した。

 酒や焼けた肉の匂いが残る広間に、二組の男女が向かい合う。

 褐色の少女は俯き、唇を引き締め身体を震わせている。


(どうしてこの二人が? 私の力が及ばないほど愛し合っているの?)


 親子の間に、緊張の時間が流れる。

 ついにイドメネウスは、意を決したように口を開いた。


「僕とサフィラは、今日で終わりにします」


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