91 二つの忠誠
アルゴス王宮を支えてきた名門の長エケモスは、豪奢な広間の隅で膝を抱え、わなわなと身を震わせていた。
王妃アタランテが両の腕を掲げると、その身から竜の娘としての力が奔流のように放たれる。
「アルゴスの戦士の長たる者が、王の理想を妨げ私欲に溺れるとは、実に嘆かわしい。だが、まだ道はある。今この場で、王への忠誠と民への慈悲を誓うか。それとも……」
金色に輝くアタランテの眼が、さらに凄みを増した。
「……アルゴスの歴史から、その名を永遠に消し去られたいか?」
「ひぃいいいいいい!」
かの戦士の長が、まるで赤子のように泣き喚いている。
「さすれば、お前が抱える竜の石の秘術を、広く民に知らしめるが良い!」
「いやじゃ! それだけは……あわわわ……助け……でも竜の石は……いやじゃ……」
エケモスは巨体を床に転がし、獣のようにのたうち回った。
「なんと業深き執着であることか。このままではお前の魂は天に昇れず、未来永劫、地をさまよう亡霊となるであろう!」
男の口から泡が噴き出る。
「や……い……あ……だ、竜の石は……」
(なぜそこまでして、竜の石の秘密に固執するの? 普通の人ならもう心が折れ、私の言葉に従うはずなのに……)
その時だった。入り口から争う声が聞こえてきた。
「キュニスカ、どけ! アルゴス王の命だぞ!」
(うそ! アトレウス様の声だわ! どうして!?)
「いいえ! たとえ王の命でも、この場は引けません!」
「刃を交えることになってもよいのか、キュニスカ!」
「この命に替えても、王妃様をお守りします!」
(いくらキュニスカでもアトレウス様には勝てない! このままでは――)
アタランテはうずくまるエケモスを放置して一目散にかける。勢いよく扉を開け放った。
扉の先には、キュニスカを先頭に十人の女戦士たちが槍を構え、アトレウス率いる戦士たちと鋭く対峙していた。
王の命と王妃の命――忠誠を誓うべき二つの存在の間で板挟みとなった戦士たちは、今にも刃を交えようとしていた。
なぜ火山地帯へ向かったはずのアトレウスが、今ここに? そして、キュニスカが率いるこの十人の女戦士たちは、いつの間に集ったというの?
いくつもの疑問がアタランテの頭に浮かぶ。しかし、今はその疑問を解決する時ではない。
「やめてキュニスカ! お願い、下がって! あなたが死んでしまうわ!」
「アタランテ様、こちらへ来てはなりません! どうか、早くお戻りを!」
「やめて! いくらあなたたちでも、アトレウス様には勝てない! あなたいつも言ってるじゃない! アトレウス様はアルゴス一の戦士だと!」
「私はアトレウス様に五年もお仕えしていました。あの方の戦い方の癖は熟知しております。アタランテ様がエケモス様を説得なさる間、私が時間を稼いでみせます!」
「よくも言えるな! 槍も剣も、俺が教えてやっただろ!」
アトレウスは一歩踏み込み鋭く剣を振り下ろし、キュニスカの手から槍を弾き飛ばした。
「さあ、どうやってこれから時間を稼ぐ?」
女戦士は短剣を抜き構えた。
「アタランテ様! アルゴスのため、どうかお戻りください!」
王は鋭く青い目を光らせ、王妃をにらみつけた。
「アタランテ! キュニスカが死にアルゴスが分裂してもいいのか!」
女は震えながら自らを抱きしめ、周囲を見渡した。
十人の女戦士は、アトレウスの率いる男戦士に追い詰められている。
言うべきことはひとつしかない。
王妃は息を整え、背筋を伸ばした。
「みんな、私はここをどくから、もう争いは止めてちょうだい!」
「アタランテ様! 私たちのことはお構いなく!」
他の女戦士も「王妃様! どうかここはお任せを!」とキュニスカに続く。
(ああ、みんな……こんな愚かな私のために……)
アタランテの目にうっすら涙がにじむ。が、王妃は首を上げる。
「ならぬ! アルゴス王妃の命だ。武器を下ろし、あとは王命に従え!」
女たちは膝をつき「王妃様、キュニスカ様、申し訳もありません」と無念をこぼす。男戦士が女たちを取り囲む。
キュニスカがアタランテに頭を垂れた。
「万が一のことがあってはと密かに仲間を集めておりましたが、まさかアトレウス様ご本人がお戻りになるとは思いもよらず……全ては私の力が足りなかった……アタランテ様にご迷惑をおかけし、申し訳ございません……」
王妃は女の広い背にしがみついた。
「私が浅はかだったのよ! こんなことになるなんて考えもしなかった。本当にごめんなさい!」
王妃は、長年仕えてくれた護衛を、いつまでも抱き締めていたかった。
が、抱擁の時は、男の低い呟きで止められる。
「そろそろいいか、キュニスカ?」
アタランテは、アトレウスに有無を言わさず肩を鷲掴みにされ、キュニスカから引き離された。
王は妻の身を抱えたまま、男の戦士たちに命じた。
「キュニスカら女たちから武器と鎧を取り上げ、地下牢に繋げ」
王妃の忠実な護衛は、男戦士に羽交い絞めにされる。
女の緑色の眼がはっと見開かれる。跪いて王の手に取りすがった。
「お願いアトレウス様! キュニスカや女たちに罪はありません! 罰するならどうか私を!」
「王妃が、自分を罰しろなど軽々しく口にするな!」
王はアタランテを強引に立たせ、かつて共に辺境を駆けた女戦士に声をかけた。
「キュニスカ、お前が俺に逆らったのは、初めてだったな」
「王様! アタランテ様は、ただアルゴスのため、そして何よりあなた様のために、そのお務めを果たそうとされたのです! どうか、それだけはご理解を!」
女戦士は引きずられながらも、王妃の真意を叫び続けていた。
アタランテは去り行く忠実な護衛を見つめ「ご、ごめんなさい、本当に……」と呟くばかり。
アトレウスが手をさっと挙げる。
屋敷の奥からワラワラと、エケモス邸の召し使いたちが現れる。その中には、アトレウスの侍女、リディアがいた。
侍女リディアは唇を固く引き締め、まっすぐに王へ近づくと、二人は無言で視線を交わし、何かを確かめ合うように頷きあった。
(リディア? どうしてここに……。アトレウス様と、何が?)
リディアは屋敷の召し使いたちと共に広間に入る。「いやあああ、お父様!」との痛ましい叫びが、アタランテの胸に突き刺さる。
アトレウスは、残った戦士に命じた。
「王妃は疲れている。早く王宮に連れ帰り休ませろ。いや、その前に」
アトレウスは、自らを覆うキトンの端を引き裂いた。帯状の布でアタランテの目を覆い頭の後ろで縛りつける。
王妃の輝く眼は、闇に閉ざされた。
「あ、あなた、待って! 私は……」
両側から戦士たちに腕を捕まれた。
「力を使われたら厄介だからな。あとで薬師を寄こす」
夫の冷たい声が遠ざかる。
「王妃様、足元をお気を付けください」と、戦士たちに誘導されて歩かされる。
屋敷の広間からは、「リディア、泣いてはならぬ!」「旦那様! どうかご無事で!」「お父様! 目をお開けください!」と、エケモスの容態を案ずる侍女や家人たちの悲痛な声が途切れることなく聞こえてくる。
遠ざかる喧騒が、アタランテの耳にこびりついて離れなかった。
アタランテは目隠しをされたまま、寝室にひとり残された。
扉の開く音が鳴ると共に、土のような匂いが鼻をついた。
「王妃様、失礼いたします」
よく知る女薬師の声だ。アタランテの背後に回ったらしい。と、間もなく目隠しから解放された。
テーブルの上に茶色い液体が注がれたカップが置かれている。土の匂いの元らしい。
「どうぞ、これで気を鎮めてくださいませ」
アタランテは「ふふ、アトレウス様は毒でも仰げとおっしゃるのかしら」と自嘲する。
「なにをおっしゃるのです! 王様はただ王妃様を案じてらっしゃるだけです」
広間でアトレウスは、何度も「リディア!」と悲痛な調子で励ましていた。夫の声が頭の中で何度もこだまする。
「どうかしらね。あの方が案じてらっしゃるの別の方かも……いえ、何でもないわ。王様のありがたい厚意、いただきます」
王妃は、茶色い温かな液体を一気に喉に流し込んだ。土の匂いは、眠れない夜に飲む鹿の子草の匂いと同じだった。
足音と共に、アタランテは目を覚ました。
「……少しは眠れたか。薬が効いたようだな」
月明かりに照らされ、アトレウスが腕を組んで立っていた。青い眼が、光を帯びて静かに輝いている。
女は身を起こし、両手を広げてじっと見つめた。
(……私、生きている。あのお茶は毒じゃなくて、本当に、眠りに効く鹿の子草のお茶だったのね)
唇を湿らせ、恐る恐る問いかける。
「あの……エケモス様は、どうなさって……?」
男は金色の前髪をかき上げ、ふっと首を振った。
「泡を吹いて倒れたかと思えば、突然獣のように暴れだし、支離滅裂なことを喚き散らしていた。今は縄で寝台に括りつけてある。……気の毒だが、やむを得まい」
淡々とした声に、冷たさが滲む。アトレウスは腕を組んだまま、憮然と告げた。
アタランテは両手を握りしめた。指先がかすかに震えはじめる。
取り返しのつかないことをしてしまった。後悔が、じわじわと王妃の胸を締めつけていった。




