90 禁じられた力
我が子の行く末に思い悩むアタランテの前に現れたのは、よりによって侍女のリディアだった。
ミントの爽やかな香りが寝室に広がる。
「まあ、リディアったら……ミントティーね。夜にお湯を沸かすのは大変でしょうに」
アタランテはぎこちなく微笑んだ。
侍女は細い腕を伸ばし、そっとテーブルにカップを置いた。
アトレウスがそれを取り上げ、香りを確かめた。
「明日からしばらく、お前の茶が飲めないのか。辛い旅になりそうだ、はは……」
アトレウスはそう言って笑い、青い目を細める。
明日、彼が旅立つことは知っている。けれど、アタランテの胸はざわついていた。
その声が、まるで侍女との別れを惜しむように聞こえたからだ。
侍女は、アタランテの胸の内に気づいているのかいないのか、小さく首をかしげて微笑む。
「まあ、王様にとって一番お辛いのは、王妃様と離れてお過ごしになることではなくて?」
「おいおい、やめてくれよ、リディア」
「そうよリディア。行き先は国境の火山地帯よ。いつ噴火するとも知れぬ山を前にしては、私のことなど思い出す暇もないでしょうね」
アトレウスがあえて危険を冒してまで火山へ向かうと聞いても、アタランテは止めなかった。彼の竜の石にかける想い、そして国を富ませたいという強い気持ちが、痛いほどわかるからだ。
リディアがうなずく。
「ええ。王様はおっしゃっていました……火山には、竜の石の手がかりがあると」
(竜の石ですって……?)
アタランテの鼓動が高鳴った。
アトレウスはミントティーを一気に飲み干した。空のカップをテーブルに置く乾いた音が、静かな部屋に響いた。
「仕方ない。お前の父エケモスが、頑として竜の石の秘密を明かそうとしないからな。……おい、リディア、そんな顔をするな。お前を責めてるわけじゃない」
そう言って、アトレウスは人差し指の爪で、リディアの頬を軽くなぞった。
頬が染まったのは、気のせいだろうか。
けれどリディアはすぐに姿勢を正し、銀のトレイを胸に抱え直して深々と一礼した。
「王妃様、ご心配なさらずとも、王様はアルゴス一のお方。必ずご無事で戻られます。私も、王妃様とご一緒に、竜に祈りを捧げますわ」
リディアが部屋を出て扉が閉まる。
アタランテはミントティーで喉を潤したが、胸のざわめきは鎮まらなかった。
夫が侍女に触れたことも気になる。
だがそれ以上に、リディアの言葉が胸に突き刺さる。
(竜の石は星の光が地に落としたもの。もしかすると火の山の中にも、竜の石が眠っているかもしれない……この人は、そう考えたのよ。命を懸けてでも、それを確かめたいのね)
アトレウスが語る竜の石への執念は、妻である自分だけが深く理解していると、アタランテは思い込んでいた。彼の国の未来を思う強い信念を、女の身でありながら一番近くで支え、分かち合えるのは自分だけなのだと。
(それなのに……エケモスの娘とはいえ、母は奴隷の身。そのような身分の低い侍女に、この人は政の奥底にある本音を語っているというの……?)
アタランテは静かにカップを置き、夫に向き直る。
「もし、あなたが火山で竜の石を見つけることができたら……イドメネウスとクリュメネを、無理に結婚させなくてすむかもしれないわね」
「またその話か。そううまくいくものか。たとえ竜の石が見つかっても、それを黒鉄に変える魔法の秘密がエケモスの一族から明かされない限り、どうにもならんだろ?」
アトレウスは寝台に体を投げ出し、背を向けた。
「お前はいつもイドメネウスのことばかりだな。俺のことは、もうどうでもよいのか……ああ、そうだな。お前はもう五人の子の母だ。リディアのように甲斐甲斐しくは……いや、何でもない」
アタランテは息を呑んだ。
「あなた……イドメネウスとクリュメネの結婚は、もう竜によって定められた、変えられない運命なの?」
「……わかっているだろ。お前も、もう休め」
アタランテは寝台の端に腰を下ろし、頭を抱える。
(イドメネウスがサフィラを妾にすれば、クリュメネだってどれほど苦しむか……今の私でさえ、この人の心が他の女に向かうことには耐えられないのに。リディアがこの人にもしこれ以上近づくようなことがあれば……私は、きっと……)
気づけば、夫の背中にしがみついていた。
「どうした?」
驚いたように振り返った男が、そっと囁いた。
「明日から……しばらく傍にいられなくなるのね……寂しくなるわ」
「……そんな風に甘えられたのは、いつだったか……十年、いやもっと前か」
アタランテは夫の頬を両手で包み、唇を重ねた。
「困った女だな」
「私……いつまでもあなたの傍にいたい……どうか、早く帰ってきてね」
甘えるように囁きながら、アタランテの中に、密かな決意が芽を出していた。
翌朝、王宮の門前で、アタランテは子供たち五人と共に、王アトレウスの旅立ちを見送った。
王に続くのは五人の戦士と、荷車を引く二人の使用人のみ。アルゴスは彼が王となってから国土を広げたが、アトレウス自身は大げさな隊列を好まなかった。
薔薇の刺繍で縁どられた青いマントが、王の身を包んでいる。アタランテが嫁いだ頃、機織りの女たちと共に織った特別な衣だ。
かつて王妃の想いが込められたこのマントは、魔法使いたちの反乱の際、炎の竜の攻撃からアトレウスを守った。
あの反乱から十五年が過ぎても、その衣は色褪せることなく、変わらぬ想いを映すように輝きを放っている。
「どうか、ご無事で……」
王妃は王の背に腕を回し、強く抱きしめた。
「昨日から、お前らしくないぞ」
男は、女の額にそっと唇を寄せた。
アタランテは子供たちに、「さあ、皆でお父様のご無事を祈りましょう」と優しく促した。
三人の王子と二人の王女は、それぞれの年頃にふさわしいやり方で父を見送る。
荷車のきしむ音が、都の通りに響き渡った。
アトレウスが旅立って三日が経った。
「もういいわね。しばらくあの人は戻らないでしょう」
王妃は傍らの女戦士をじっと見つめる。
「キュニスカ。以前にも話したけれど、これからエケモス様の元に伺うわ。あなたの力を貸してくれるかしら?」
「はい、アタランテ様。いかなる者も侵入させません」
忠実な護衛は、王妃の決意を眼に映し、力強く頷いた。
「ふふ、そんなに物々しく構えなくても大丈夫よ。あなたがそこに立っているだけで、並の男戦士など逃げ出すでしょう。それほど、あなたは力強いもの」
アタランテはからからと笑い、王宮の隅にあるエケモスの私邸を訪れた。キュニスカは槍を手にして王妃に従う。
広い屋敷の通路を案内され、奥の間に通された。
アルゴス王宮の実務を一手に引き受ける重臣が、口を引き締めて立っていた。槍を持った戦士を一人従えている。
「これはこれは王妃様。わざわざお越しとは。お呼びくだされば、すぐに参ったものを」
言葉遣いこそ恭しいが、その声色にはアタランテへの敬意など微塵も感じられない。
アタランテは深々と頭を下げた。
「イドメネウスの件、真に申し訳なく思っております。クリュメネ様にも多くの不安とご迷惑をおかけしました」
「いやいやいやいや、王子様のように高貴な若者にとって、賤しい娘が物珍しいだけでしょう」
エケモスは笑顔を向けるが、眼は冷ややかだ。
息子の純粋な想いを「物珍しい」と切り捨てるその言葉に、アタランテは反論したくなったが、今は平静を装うしかなかった。
「そのことでお願いがございます。エケモス様と、二人でお話ができれば」
アタランテは、エケモスの傍らに立つ護衛へ、それとなく視線を送った。
「構いませんが、王様にあとで何か言われませんかね。私も年を取りましたが、一応男ですぞ」
「エケモス様は、アトレウス様が父のように頼りにされているお方。その父とも言える方と娘である私が二人きりで話すことに、何の問題がありましょう? それに、万が一のことがあれば、このキュニスカが私を守りますわ」
王妃の護衛は心得たと頷く。エケモスが傍らの戦士に顎を向けると、二人の戦士はそろって部屋を退出した。
王妃と重臣の二人だけとなった広間に、ピリリとした緊張が走る。不意に、エケモスが歪んだ笑みを浮かべ、頬を緩めた。
「結婚前のアトレウス様は、若い娘たちとの噂が絶えなかったものですが、あなた様が王宮に来られてからは、ぱったりとそれが治まりましたな。さすがに王の閨に侍る女が王妃ひとりではお寂しかろうと、娘のリディアを差し上げたのに、一向に手を付けられるご様子がない」
よくも妃の前でそんなことを、とアタランテは唇を噛み締めたが、エケモスの前に一歩進んだ。
「どうして竜の石の秘密を明かしてくださらないの? アトレウス様のお気持ちはご存じでしょうに」
「何度も申し上げますが、黒鉄の力を賤しい者に広めたら、王宮の威信は地に落ちますぞ」
「アトレウス様はおっしゃっています。黒鉄の力を広めることこそ、アルゴスを豊かにする道だと。そうなれば、竜に生贄を捧げなくてすむのです」
「生贄? 賤しい者の命ひとつで、アルゴスの平和が約束されるなら安いもんです」
アタランテは我が耳を疑った。
この男は、何の罪もない民の命を、その程度にしか考えていなかったのか。いや、おそらく彼だけではない。アルゴスの代々の王たちや仕える者たちの多くが、同じ考えなのだろう。
情理を尽くせば、この男の心を動かせるかもしれないと期待したが――この者は、辺境で水汲みに明け暮れる民にも、心があるとは思いもしないのだ。
(アトレウス様には禁じられていたけれど……ごめんなさい)
アタランテはおもむろに両の腕を掲げた。緑の眼が淡い金に染まり、神聖な気配が室内に広がる。
「エケモス……いつからお前は、人の命を駒のように扱うようになった?」
竜の娘の重々しい声と共に、眼から金の輝きが放たれる。広間は、眩いばかりの光に満たされた。




