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彼女の前世がニホンジン? 2 聖妃二千年の愛  作者: さんかくひかる
8章 アタランテ(母の試練と門出)
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89 王子の花嫁

――いつまであなたは、王の夜の相手を務めるの?


 息子の結婚が決まり、前王妃の圧力から解放されると思ったら、そうはいかなかった。

 一年前デイアネイラは、自分の姪、エケモスの娘リディアをアトレウスに差し出した。幸い、今に至るまで、二人は王と侍女の関係を保っている。


「アトレウス様の夜の相手は、王ご自身がお決めになることです……」


 緑色の眼が小刻みに揺れる。語尾の震えが隠せない。


「あたくしね、あなた様が心配ですの。王宮の誰もが噂しているのよ。王妃様は三十歳を超したのに、王様に二人目の女を許さない。なんとも恐ろしい女だと」


 目の前がただ白くなった。自分が恐ろしい女? 前王妃に気を配り、母として妻として十五年務め、王宮の奴隷たちにも気を配ってきた自分が?


「リディアは、よくアトレウス様に仕えているわ。あの娘なら、アタランテ様を悪評から救うでしょうよ」


 それから先、どんな言葉を交わしたかアタランテに記憶はない。

 気がついたら、ひとけのない夕暮れの裏庭に足が向かっていた。

 この時間なら、いつも庭の手入れをしているメレアグロスも休んでいるだろう。

 ミントの香りがアタランテの心の膿を流す。


 庭には先客がいた。

 若い男女が寄り添い薔薇を眺めている。


(またあの子たち!)


 イドメネウスと厨房の娘サフィラが、顔を見合わせ笑い、薔薇を指差し語り合っていた。


「僕、昔、年上の奴らに生意気だって殴られてさ、父上はそれぐらい自分で何とかしろって……わかってる。僕はアルゴスの戦士の上に立つんだ……ごめん、こんな話つまらないよね」


「ううん、イドの話、もっともっと聞きたいよ。あたし、ここに来る前、王子様やお姫様は、お腹いっぱい食べられてきれいな服着れていいなって思ってたの。でも……」


 娘は頭を王子の肩に寄せた。


「イドは、ずっと頑張って頑張って、でも王子だからそれが当たり前ってみんな思って……それってきっと、お腹空くより悲しいよね」


「サフィラ……ぼ、僕は、ごめん……くっ……」


 押し殺すような泣き声が、夕闇の薔薇を震わせる。少女は、少年の震える背中を優しくさすった。


 母アタランテは、口を押さえてその場を立ち去った。

 この心優しい娘を息子から引き離す――それは本当に正しいことなのか?


 アタランテはふらふらと寝室に戻る。と、男の豪快な笑い声と、その隙間を埋めるように囁く女の声が耳についた。


「おいおいリディア。いい加減にしてくれないか」


「王様、もう一度、いきますわよ」


(私は息子のことで頭がいっぱいなのに……あなたは他の女と楽しそうに……)


 アトレウスと彼女は何を話しこんでいる? いや妻である自分は、堂々と部屋に入ればいいのだ。

 極上の笑みを張り付けて「今戻りましたわ」と高らかに声を響かせる。

 足を踏み入れた途端、心臓が縮み上がる。

 腰布だけ巻いたアトレウスと、リディアが向かい合っていたのだ。


 張り付いた笑顔の下で、アタランテは思考を巡らす。いくらなんでも、国王夫妻の寝室で王が侍女に手を出すはずがない。


「まあリディア。いつもありがとう。アトレウス様の着替えを手伝っているのかしら?」


「はい。王妃様に喜んでいただけるには、どのようにキトンを巻いたらいいか、試しておりました」


 見ればリディアは、アトレウスのキトンを手にまとめている。

 アトレウスはカラカラと笑った。


「だからといって、五回も布を巻いては解いてを繰り返すのは、勘弁してくれよ」


 リディアはアトレウスの胸に手を滑らして、ゆっくりと布を回す。


「いいえ、王妃様のために王様は、美しく身を飾らねばなりません」


 侍女はアトレウスの背中にピッタリと身体をつけている。王を着替えさせているだけで、何ら不自然な動作ではない。

 しかし先程のデイアネイラとのやり取りが、耳にこびりついて離れない。

 王妃は笑顔のままアトレウスの手を取った。そっと腕にもたれかかり、唇を寄せる。


「リディア、そのままでいいわ。どうせアトレウス様はすぐ、衣を脱いでしまわれるもの」


「まあ、王様と王妃様の仲睦まじいこと、羨ましいです」


 若い侍女は微笑み頭を垂れて、アルゴス王夫妻の寝室から立ち去った。

 アトレウスは、妻の頬を優しくさすり、首を傾げる。


「どうした? お前らしくないぞ」


 醜い嫉妬の嵐が、アタランテの全身を駆け巡る。

 女は、無言で夫の腰にしがみ付いた。


(私がこんなに心をすり減らしているのに……あなたは、まるで何事もないように、女と笑いあって……)



 一年が経過した。アトレウスと侍女リディアは、アタランテの案ずる関係にはならなかった。

 が、もう一つ案じていた事態が的中する。


 十四歳になった長男イドメネウスは、朝の会議を終えたアトレウスを引き留めた。どうしても両親に伝えたいことがあると言う。

 別室で、王と王妃は長子と相対した。

 イドメネウスは礼儀正しく頭を垂れた。


「父上、母上。申し訳もありません。僕は、クリュメネではなく、サフィラと結婚します」


 アタランテはさほど驚かなかった。クリュメネと結婚を決意したはずの王子には、相変わらず奴隷娘サフィラとの噂が付きまとっていた。

 母はついに来たかと覚悟を決めた。


「父上と母上が育ててくださった恩を、仇で返すことになり、申し訳もありません。宮を追い出され、奴隷に身に落とされても構いません」


「あなた……そこまでクリュメネが嫌なの?」


 長子は父親譲りの美しい顔を歪ませる。


「クリュメネのことは嫌いではありません。彼女は僕が立派な王子になれるよう、姉のように励ましてくれた。感謝しています。でも……結婚はできない」


 母親は長いため息を吐く。息子の初恋を見守りたくもあるが、このままではクリュメネが哀れだ。

 アタランテは、隣のアトレウスをチラッと見やる。沈黙を保っていた夫がぼそっとつぶやいた。


「好きにしろ」


 え? 母と息子は顔を見合わせた。夫は何がなんでも、息子をエケモスの一族と結婚させたかったのではないのか?


「サフィラなら問題ない。クリュメネには何度も頭を下げるんだな」


 イドメネウスはおずおずと切り出す。


「そ、その……クリュメネに話したら、父上と母上が許すなら受け入れるって」


「さすがエケモスの一族の娘だ。なかなか肝が据わっている」


 アトレウスはアタランテにニヤッと笑った。


「お前の母はいまだに、妾の一人も許さないからな」


「この子の前で軽々しくそんなことをおっしゃらないで。今、そんな話をする時ではないでしょう」


 父親は豪快に笑う。


「アルゴスの王子なら、新婚早々、妾の奴隷女がいても、さほどおかしくないだろ」


 母と息子の顔色が、さっと青ざめた。


「あ、あなた、サフィラを妾にして、クリュメネと予定通り結婚しろと?」


「イドメネウスの女がクリュメネと同じ高貴な姫なら困ったことになるが、奴隷なら妾でなんら問題はない」


「父上、違います! 妾じゃない! 僕はサフィラを妻にしたいんです!」


「ならぬ!」


 怒号が室内に響き渡る。


「お前には、なぜエケモスの一族との結婚が必要か、説明したはずだ」


「父上、わかっております。それでも僕はサフィラと離れられないんだ」


 息子の目から涙が流れる。

 アタランテは堪えきれず、立ち上がった。


「イドメネウス、お前の気持ちはわかったわ。私たちに考える時間をくれないかしら? お前も勝手に宮を出たりしないで、もう一度考えるのよ」


「僕の気持ちは変わりません」


「俺の考えも変わらん! 女に浮かれるのも大概にしろ!」


 親子三人の話し合いは、物別れに終わった。



 その夜、アルゴス王夫妻は寝室で、愛を交わす暇もなく、長子の将来について話し込んだ。


「とりあえず、イドメネウスとサフィラには監視をつけさせた。……どうりでエケモスが今朝からやけに俺に当たりが強かったわけだ」


「……あなた、申し訳もありません。イドメネウスにクリュメネを好きになってもらおうと、私、二人でゆっくり話す機会を設けたのですが……結局、裏目に出てしまいました」


 イドメネウスがサフィラと出会ったのは、アタランテが彼を裏庭に誘導したからだった。息子に何かしてやりたい一心だった――それが、かえって彼の心を別の娘に向けてしまったのだ。


「イドメネウスはいい子だったわ。弟たちと妹たちの面倒をよく見て……ふふ、あの子が私たちを悩ませる日が来るなんてね……」


 アタランテは顔を覆う。彼は初めて、両親に望みを訴えた。これまで王子として自身を抑えてきた息子の願い、できることなら叶えてやりたい。が、叶えるにはあまりに犠牲が大きい。


「お前はこれ以上悩むな。イドメネウスは、王宮には珍しい娘だから興味を持っただけだろう」


「でも……妾にしろなんて、そんな……サフィラも、いいえクリュメネだって可哀想よ」


「アルゴスの姫なら、それくらい割り切れる。あの娘は肝が据わってる。大丈夫だ」


「いいえ! まだ新婚なのよ。そんな仕打ち、どうして耐えられるっていうの?」


 若い娘だけではない。結婚して十六年、三十代半ばとなったアタランテにとっても、夫に妾がいるなど耐えられない。


「いいからもう休め」と、アトレウスがアタランテの背を軽くさすったときだった。

 ミントの爽やかな香りが、夜気に混じって漂ってくる。


「失礼いたします」


 銀のトレイを手に、侍女リディアが、アルゴス王夫妻の寝室に姿を現した。


――その瞬間、部屋の空気が変わった。


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