『顔』
そろそろ、夜が明けようとしている。
美加は、最後の一枚の添削を終え、答案用紙が生徒数分あることを確認すると、茶封筒に入れた。
美加のクラスの生徒の答案用紙は、いつも赤字のコメントで埋め尽くされる。
生徒は、美加のことを“赤ペン先生”などと呼ぶ。
「ふぅ・・・・。」
気持ちを落ち着かせるように吐息した、美加。
そのまま炬燵にもぐり込み、腕を枕に目を閉じる。
ぬっくりとした炬燵の暖は、徹夜明けの美加を心地良い眠りへと誘う。
半年前、美加は、母娘二人が住み慣れたY市内の自宅を引き払い、この町に越してきた。
母親の絵里が、三年前に、このA市にある施設に入所していたのである。
二人が住み慣れた家は離れ難かったが、母娘二人きり、出来るだけ母の近くに居たかった。
美加の父親、桜井慎介は、戦場のカメラマンだった。
慎介は、ニ十九年前のあの日、外国の地に旅立ったまま、妻と娘のもとに帰って来ていない。
半年が過ぎても慎介の消息は杳として知れず、慎介の会社は、残された妻娘の暮らしを慮り、当面、給与を保証するという恩情を示してくれたが、夫の身を案じながら待つ妻の悲しみは、癒えることはなかった。
だが、絵里は、悲しんでばかりいられなかった。
美加が自立して生きて行けるように、育てなければならない。
絵里は自らの気持ちを奮い立たせるように、両腕の中で無邪気に笑う美加を抱きしめた。
そこには、子育てに一切手を抜かない、絵里の姿があった。
三つ子の魂百まで、という。
絵里は、美加が歩きはじめてから、箸やフォーク、スプーン、ナイフの持ち方、使い方を教え、一人で食事をさせ、独り着替え、洗顔、歯磨きなどを習慣づけていく。
絵里は、嫌がってぐずる美加を、よく言い聞かせながら、根気よく躾けていった。
美加が二歳になる少し前から、ひらがな、片仮名、アルファベット、数字を教えはじめた。
美加は、この時は、むしろ、自らすすんで学習するようになっていく。
物覚えの良い美加は、足し算引き算、九九の計算から掛け算、割り算、英語、漢字など、どんどん吸収し、より難易度の高い学習ドリルを欲しがった。
美加は、好奇心も旺盛だった。
疑問に思ったことはすぐに絵里に訊き、それでも分からない時は、自分なりに調べようとする。
絵里は、その度に、関連する絵本や児童書籍を探して、買い与えた。
こうして、美加が二歳半を過ぎた頃には、ひらがな、片仮名を覚え、九九を覚え、足し算引き算ができ、掛け算と割り算のやり方を覚え、母と娘が交わすような日常英会話、小学生一年生、二年生程度で習う漢字なら、読み書き出来るまでになっていたのである。
母娘二人、恙ない毎日が過ぎ、美加が三歳になる少し前のことだった。
美加は、突然、保育士の顔を見て泣き出すようになった。
絵里は、突然、美加に泣かれ、落ち込んでしまった保育士を宥め、美加を自宅に連れ帰った。
「美加、大丈夫? 何かあったの?」
と絵里の声掛けに、美加は
「ううん、なんでもない。だいじょうぶだよ。」
と言って、何事もなかったかのように、すまし顔で絵本を読みはじめる。
二日目、美加は、今度は別の保育士の顔を見て泣き出し、三日目は、また別の保育士の顔を見て泣き出し、保育園では、美加ちゃん泣き出し事件として、ちょっとした騒動になった。
不思議なことに、美加が泣き出さない保育士が二人いて、結局、この二人の保育士が、美加の面倒を見ることになり・・・・。
園長は、
「少し、人見知りが強くなっただけでしょう。そのうち、収まりますよ。」と言ってくれたのだが、絵里は気が気ではなかった。
一週間、二週間・・様子をみても、美加の症状は収まる気配がなく、
たまたま出掛けた外出先で、見ず知らずの他人の顔を見て泣きじゃくり、夜眠りにつけば、うなされて目を覚ますようになる。
それから、一カ月、二カ月経っても、美加の症状は収まる気配を見せず、
いよいよ心配になった絵里は、隣町で評判の小児科の女医のもとに、美加を連れて行ったのである。
その日の夕方―
絵里が医院の入口ドアを少し開け覗き見ると、待合室には二組の親子が待っている。
美加と同い年くらいの男子が二人、二人ともマスクをし、目を潤ませ熱っぽい額をしている。
絵里は、軽く会釈しながら、そそくさと美加の顔を自分の懐に隠し受付まで足を運び、受付嬢と一言二言言葉を交わすと、問診票に記入をはじめた。
美加の両目を覆っていた絵里の右の掌が離れた隙に、美加と若い受付嬢の目が合う。
すると、受付嬢の微笑みかける顔を覆うように、涙して悲しむ表情がボーッと浮かんだ。
「はっ!」
と、美加が目を見開いた途端、美加の両目は、絵里の左の掌に、サッと覆われてしまった。
記入を済ませた絵里は、問診票と母子手帳を受付嬢に渡し、美加の顔を自分の懐に隠しながら二組の親子の隣のソファーに坐った。
「目を瞑って、じっとしているのよ。いい?」
と、絵里は美加の耳元で囁く。
美加は眼を瞑ったものの、どうしても気になって、薄目を開けて受付を見る。
だが、そこに受付嬢はいない。
一旦、眼を瞑り、今度は、二人の母親を絵里越しにチラッと見る。
すぐさま絵里にキッと睨みつけられ、美加は仕方なく眼を瞑った。
二組目の親子が診察を終え、待合室を出ようとした時だった。
親子の通りすがりに、美加が薄目を開けると、その母親の顔に能面のような表情が浮かんでいる。
『あっ!』
美加が目を見開き、口を半開きにし見ていると、その母親は、出入口の扉の閉まり際に美加の方に振り返り、
『じゃーね。』
とばかりに、ニヤッと笑ったのである。
その表情を見ても、美加は泣くことはなかった。
何故なら、能面は絵本で何度も見たことがあり、恐いというより興味があったから。
「どうしたの?」
絵里は、美加の耳元で、小声に早口で言った。
「ううん。なんでもない。」
と言って、美加は再び目を瞑った。
名前を呼ばれ、絵里は美加をつれて診察室に入った。二人して、スツールに坐る。
「桜井美加ちゃんね。こんにちは。」
と、五十絡みの女医は、美加を見てニコッとする。
「うん。」
と、美加はこっくりと頷いて、女医の顔をじっと見ているが、泣きだしもせず落ち着いているものだから、絵里はホッとした顔をしている。
「よろしく、お願いします。」
絵里はあらたまって言った。
「さて、今日はどうしたのかな?」
女医が言うと、絵里は美加の日頃の暮らしぶりや保育園での様子を説明し、今日の相談事の、人の顔を見て泣き出すようになったことを話す。
女医は、何度も頷きながら、絵里の話に耳を傾けている。
「とにかく、何の前触れもなく、二カ月前のその日から急に、なんです。
今まで、ずっと面倒をみてもらっている保育園の先生の顔を見て、急に泣き出したみたいで・・外出した時も、見知らぬ人の顔を見て、泣き出すようになって。」
「ふむ。二カ月前から急にね。とすると、夜泣きもあるわよね。」
「はい。時折、泣き出して起きてしまいます。」
女医はカルテにペンを走らせながら、頷く。
「ふむ・・美加ちゃんの体調で、気になるところはある?」
「いいえ。体温は安定していますし、どこか痛がることもありません。食事もきちんと摂れています。」
「なるほどね、分りました。」
女医はそう言って母子手帳を閉じ、絵里に向く。
「それで、この二か月間、保育園ではどう過ごしているの?」
「はい。それでも、美加が懐いている先生はいて、その先生が面倒をみてくれてはいるのですけれど。」
絵里はそう言いながら、視線を床に落とした。
「ふむ、その先生は、一人? それとも二人?」
「二人いて、交代で面倒をみてくれています。」
「つまり、保育園では、その二人の先生のどっちかと、一緒にいるわけね?」
「はい。ほとんど一緒にいてくれているようですが、他の子の事で手が離せない時は、一人で本を読んでいることもあるようです。」
「ふむ、本を・・美加ちゃん、本を読むのが好きなの?」
「えぇ、もう大好きで。私が黙っていれば、一日中でも本を読んでいますね。」
「一日中、本を?」
「えぇ、食事も摂らずに一日中。」
絵里は、呆れ顔で言った。
「なるほど、そうか、面倒をみてくれる先生の存在はあるけれども、美加ちゃんが保育園に行くのを嫌がらないのは、それが理由だわね、きっと。」
女医は言うと、美加を見て微笑んだ。
「えぇ。通園を嫌がらないのは、懐いている先生が傍にいてくれて、好きな事を自由にさせてくれるからだと思います。それは、本当に助かりますし、有難いのですけれど。」
絵里はそう言って、首を傾げた。
美加は自分が懐く二人の先生に面倒をみてもらっているが、このままその好意に甘えていて良いのだろうかと、絵里自身悩んでいたのである。
「そうね、分かるわ。母親としては、気になるし、気兼ねもするでしょうね。」
「えぇ、このまま通わせて良いものかどうか。かと言って、こういう園はなかなか見つけられないでしょうし、預けられなくなって、仕事に出られなくなるのも困りますし・・・・。」
「悩むところよね。でも、そこは、良い園に巡り合えたと思って、遠慮せずに、小学校に上がるまで面倒みてもらえば良いと思うわよ。」
女医は忌憚なく言った。
「さて、さて、美加ちゃん、先生、ちょっと身体に触るけど、いい?」
と、女医が言うと、美加は、
「うん。」
と返事をしながら、頷く。
女医は、美加の額からこめかみに掛けて優しく掌をあて、耳の裏、首回りを軽く押しながら触診し、瞼の裏を診、舌圧子を取り出して『あ~んして』と言いながら、美加の口中を覗き込んだ。
「次は、胸の音を聞かせてね。」
と、女医が舌圧子を処分して小声で言うと、絵里は急いで美加の上着を脱がせた。
女医は、美加の肌着の上から胸と背中の何カ所かに、静かに聴診器を当てる。
「うむ、よし。お洋服着ていいわよ。」
女医は聴診器を首に掛けて言った。美加は、絵里に手伝われながら上着を着終える。
「そうしたら、美加ちゃん、先生から、少し訊いてもいいかな?」
女医は、美加と目線を合わせ、微笑みながら言った。
「うん。」
美加は返事をした。
「うむ。じゃぁね、先ず、美加ちゃんは、何歳かな?」
「もうすぐ、三さい。」
「うむ、もうすぐ三歳ね。保育園に、通っているのね。」
「うん。」
「保育園は、楽しい?」
「楽しい時もあるよ。」
「そう。何をしている時が楽しいの?」
「ご本を読んでいるとき。」
「そう、美加ちゃんは本が好きなのね。どんな本が好きなの?」
「むかし話のご本がすき。」
「昔話の本って、花咲か爺さんとか、さるかに合戦とか、桃太郎のようなお話の?」
「うん。でも、ほかにもいっぱいすきな本がある。」
「へぇー、そうなんだ。すごいね、そんなに一杯、好きな本があるんだ。
本は、お友達と一緒に読むの?」
「ううん、一人。先生が、美加がすきな時に、ご本を読んでいいって。」
「そう。一人で本を読んで、寂しくない?」
「ううん、さみしくない。」
と、美加は即座に返事をした。
「ふ~ん・・・・」
と女医は言って、一息つくと続けた。
「でも、先生は、お友達と一緒に本を読んだ方が、楽しいと思うけどな。」
「ううん、楽しくなんかない。ご本はひとりで読んだほうがいいもん。」
と、美加が口をとんがらがして言うと、
「そうか、一人で読んだ方がいいか・・・・」
と、女医はニコッとして言い、話題を変えた。
「それじゃぁね、美加ちゃん、保育園に好きな先生はいる?」
「うん、いる。ミキ先生と、ヨッコ先生がすき。」
美加は顔を上げて言った。
「この二人の先生が、そうなのね?」
女医は絵里に向かって言った。
「えぇ、そうです。二人ともベテランの保育士さんですね。」
絵里は言った。
「ふ~ん・・ミキ先生とヨッコ先生は、どんな先生?」
「こまった時にたすけてくれる、やさしい先生。」
「そう、美加ちゃんが困った時に助けてくれるの?」
「美加のこともたすけてくれるけど、ほかの子がこまっている時もたすけてくれる。」
「そう、それは、いい先生だね。」
「うん、そうだよ。」
「ミキ先生とヨッコ先生は、きれいな先生?」
「うん、とてもきれいな先生だよ。」
「そう、きれいで優しい先生ね。いいね、そういう先生がいてくれて。」
女医が言うと、美加は二ッとした。
「じゃぁ、他に好きな先生はいる?」
「ううん、いない。ほかの先生は、すきじゃない。」
美加は首を横に振りながら言った。
「ふ~ん・・美加ちゃんは、どうして他の先生は好きじゃないの?」
女医は、そう言いながら微笑みかけた。
「う、ううん・・すきじゃないから、すきじゃないの。」
美加は口ごもりながらも、首を大きく振って言った。
「うん、うん、分かったわ、美加ちゃん。もう、終わりにしようね。」
女医はそう言って微笑んだ。
「すみません、先生。美加、一体、どうしたの?」
絵里は、美加の背中をさすりながら言った。
「美加ちゃん、その二人の先生以外の先生との関係はどうなのかしらね。嫌な思いをさせられたことがあるのかしらね。」
「いいえ、他の先生が美加と接することはないと思います。
それに、あの園の先生は、他の保護者から褒められ感謝されはしても、苦情の一言も聞いたことがないくらい評判が良いですから。」
「なるほどね。」
「先生・・やはり、この子、病気なのでしょうか。」
絵里は、女医の顔色を伺うように言った。
「いいえ。そうではないと思うわ。ただ・・・」
女医は、そう言いながら居住まいを正す。
「ただ、何です?」
「ふむ、人見知りで泣き出すのとは、違うわね。」
「と、いうと・・・」
絵里は言いながら、女医の顔色を伺った。
「子供の人見知りというのは、簡単に言うと、親と他人の顔の区別がついて、親以外の人の顔を見て、はにかんだり恐がって泣いたりすることね。
物心付く前の子供の多くに見られるけれど、ほとんどの場合、成長していくにつれ、自然と収まってくるものなのね。でも、美加ちゃんの場合は、三歳前から人の顔を見て泣き出すようになった。
しかも、顔を見て、泣き出す人と、そうではない人がいる、ということなのよね。」
と、女医は腕組みを解き、続けた。
「・・ふむ、美加ちゃんが泣き出す人の顔には、美加ちゃんが恐いと思うような何かが見えるのではないかしらね。」
「えっ! それは、いったい・・・」
絵里は、女医の思いもよらぬ言動に昏乱した。
「信じられないでしょうけれど、そう考えれば、美加ちゃんが、その人の顔を見て泣き出す説明がつくわね。」
女医は冷静に言った。女医には、そう考える知見と臨床経験があったのである。
「まさか・・・」
絵里が呆然とした表情で言えば、美加は不安げに、じっと絵里を顔を見ている。
「・・・でも、どうして、何故、そんな恐い顔が、急に見えるように?」
「うむ。人間は、知識と経験の積み重ねや、人と接することで、喜怒哀楽や恐怖などの様々な感情を学ぶものなのね。つまり、人間は、生まれてしばらくの間は、恐いもの知らずなのよ。」
女医は、そう言いながら、聴診器を首から外し収納皿に置いた。
絵里は、早く話してと言わんばかりの目をして、女医を見ている。
「美加ちゃんは、生まれて目が見えるようになった時から、人の顔に別の何かが見えていたのかも知れないわね。まだ赤ちゃんだった美加ちゃんには、何事も認識できなかっただけだと思う。」
「生まれた時、から・・・」
「これは、私の推測だけれどもね。
そして、いろいろと分かってくる年齢になって、恐いと認識する顔・・別の表情と言った方がいいわね、その表情を見て、泣き出すようになったのではないかしらね。」
女医は言った。
「でも、どうして、どうして、美加が・・・」
「うむ、そうよね、分かるわ。そう簡単には、受け入れられないわね。
でも、美加ちゃんのような症例があるのは、事実なのよ。私が、直接関わっていただけでも三件。
これは、海外での症例だけれどもね。
亡くなった人の姿が見えたり、美加ちゃんのように、人の顔に別な表情が見える子供達ね。
だから、推測や仮定で言っている訳ではないのよ。」
「美加以外にも、そういう子が・・・」
女医の話すことに耳を傾け、思いを巡らせる絵里。
「うむ。若いころ、海外の精神病理に関する研究施設に留学してね。そういう子供達に出会ったのは、その時。
もともと関心があった分野だったけれども、やっぱり、最初は半信半疑だったわね。
でも、臨床を通じて、子供達が生まれながらに持つ能力に驚くと同時に、欲しくもない能力で苦しんでいる姿を目の当たりにして、思ったのよ。
この子達にも、差別されたり、色眼鏡で見られることなく、自分が選んだ人生を送る権利がある、手助けしないといけない、とね。」
「それで・・そういう子供達が、どういう将来を?」
「うむ。本人がそれに向き合う努力をしていることは勿論だけれども、親御さんや兄弟姉妹、そして近しい人達の理解と協力もあって、それぞれの人生を歩めるようになっているわよ。
美加ちゃんのように、人の顔に別の表情が見える子は、その人の心の内が見えると考えられていてね。
内容は言えないけれど、この能力を活かして、陰ながらも、社会の役に立っている子もいるのよ。」
「社会の役に、立つ・・・」
「そう。でも、先ず大事なのは、そういう能力を持って生まれた以上、これから先も背負って生きて行かなきゃならないわけだから、先ずは自分の能力を受け入れ、向き合えるようになる事なのよ。」
「生まれながらに持つ、能力・・・」
絵里は、独りごとのように言った。
「大丈夫。賢くて気丈な美加ちゃんの事だから、成長していけば、その人の顔に何か見えるにしても、向き合えるようになるし、感情をコントロールできるようになると思うわよ。」
と、女医は絵里の心情を思い、言った。
『美加、あなたにはどういう顔が見えるというの? どうしてママに言えないの?』
絵里は、美加の背中をさすりながら思った。
絵里は、美加の症状がいまだ信じられず、理解もできず、混乱と苛立ちの中にいたのである。
「気になると思うけれども、母親として、美加ちゃんに何が見えているのか、あまり無理に訊かない方がいいし、無下に言い聞かせない方がいいわね。
母親のあなたに心配かけまいとして、美加ちゃんなりに精一杯我慢しているのかも知れない。
今は、美加ちゃんの辛さを分かってあげて、とにかく見守ってあげる事ね。
いつか、どういう表情が見えるのか、話してくれるかも知れないわよ。」
絵里は、俯き加減のまま、女医の話を聞いている。
「大丈夫?」
女医は声を掛けた。
「えっ? えぇ、はい・・・」
「ねぇ、どうかしら、美加ちゃんのような症状に、私より詳しいドクターがいるのだけれど、会ってみては?
専門家の意見を聞くことで、症状がより理解できるようになるでしょうし、美加ちゃんとどう関われば良いのか、参考になると思うわよ。」
女医は言った
「いいえ、それは・・母親として、見守るしかないですから。」
と、絵里は返した。
「うむ、そうね。それが、一番大事ね。
心配でしょうけど、お母さん自身が、あまり神経質にならないようにね。」
「そう、ですね。分かりました。」
「それから、分かっているとは思うけれど、美加ちゃんの事は、誰にも言わない事ね。
信じてもらえないし、色眼鏡で見られるだけだから。」
「えぇ、分かっています。」
と絵里が言うと、美加は、
「ほいくえんに、かようよ。」
と言った。
「うん。そうね。」
絵里は頷きながら、美加の頭を撫でた。
診察が終わり、絵里が美加を連れて診察室を出る時、
女医は、
「心配事や気になる事があれば、いつでも連れて来なさい。」
と、言った。
絵里は、女医の診察を受けてからというもの、人と顔を合わせないように、美加を外出に連れ出すことをしなくなった。
通園時には、大好きな先生二人に寄り添われながら好きな本を読み過ごし、自宅で眠りについても、時折、夜中にうなされて目を覚ます程度に、症状は収まってきていた。
絵里は、ホッと胸を撫で下ろすのだが・・・。
これも巡り合わせの悪さなのか、それから半年の内に、ミキ先生が年老いた母親を看るために地方の実家に帰り、ヨッコ先生が、保育士を続けられなくなるほど体調を崩し保育園を去ってしまうと、美加の通園に暗い影が差しはじめる。
大好きな先生二人が立て続けに自分の傍からいなくなり、美加は少し不安げな表情を見せながらも保育園に通い続けるのだが、夏休みに入る前の事だった。
突然、美加は先生を目の前にして、再び、泣き出すようになったのである。
大目に見ていた園長も、次第に表情を曇らせるようになった。
先生達は美加に近付くことを躊躇うようになり、美加は保育園で一人ポツンと、絵本を読む機会が多くなっていく。
美加は平気な顔をして通っていたが、絵里は、保育園に送り迎えの折、先生達のあまりによそよそしい態度に、即座に、美加が置かれている立場に気が付く。
美加に訊くと、他の園児が運動やお遊戯している時、一人で絵本を読んでいると言う。
『やっぱり、そうなのね・・・』
絵里はそう思いながら、ミキ先生とヨッコ先生がいた時のように、このまま、保育園が美加に好きな事をさせ過ごさせてくれればと、祈るような気持ちになるのだが・・・。
美加が特別扱いされることをやっかむ他の園児の母親から、
『保育園の先生達が、美加ちゃんの扱いに困っているみたいね。』と心無い耳打ちをされると、絵里は精神的に追い込まれてしまう。
転園など出来るはずがないのに、あちこちの保育園を下見してみる絵里。だが、気休めにもならない。今になって思えば、この保育園で美加が過ごした一年半は、奇跡だったのだろう。
ミキ先生やヨッコ先生のように、美加が懐くような先生がいる保育園など、あろうはずがなかったのである。
絵里は、ほとほと、困り果ててしまった。
美加が二歳になる少し前、慎介の会社は、慎介を海外行方不明者退職扱いとして退職金を上乗せ支給し、一旦、会社との直接的関係は終わっていた。
絵里は、その頃から、パートの仕事を掛け持ちし働いていたのだが、四カ月前、英会話教室を開く元CAの同僚から講師の声が掛かり、そこで働き始めていたのである。
絵里のネイキッドに近い発音を誰よりも認めていた元同僚が、いの一番に声を掛けてくれたのだった。
さらに、この教室の独特の指導法が評判を呼び生徒が順調に増え、半年後には、二つ目の教室が開かれることになり、絵里がこの教室の運営を任されたのである。
美加を保育園に預けることが出来なければ、仕事を続けることが難しくなってしまう。
周囲への気兼ね、仕事を失う事での生活への不安、そして娘の将来への不安、娘を理解できない焦りは困惑から苛立ちへと変わり、とうとう絵里の堪忍袋の緒は切れてしまう。
「優しい先生ばかりなのに、どうしてそんなに泣くの!」
と、絵里は感情のおもむくまま美加をしかりつけたが、美加は銅像のように押し黙ったままだった。
絵里は、無気にしかりつけてしまったことをすぐに後悔し、
「ごめんね。」と言って、美加を優しく抱きしめつつも、
女医から言われたことをすっかり忘れ、独りよがりに、保育園で泣いて先生を困らせないように美加を懇懇と諭したのである。だが、それは無意味な事だった。
しばらくすると、いよいよ持て余すようになった保育園は、美加が登園するとすぐに絵本を与え、一人部屋に入れるという扱いをするようになった。
他の園児の母親からその事を聞かされ、絵里は、さすがにこの扱いには腹を立て、後先考えずに、美加を保育園に通わせるのを止めてしまったのだが・・・。
絵里は仕事に出かける時、美加をどうしたのかというと、
自宅で、一人留守居させたのである。
幼子を、長時間一人留守居させる母親はいない。
だが、それを敢えてやらなければならないほど、絵里は切羽詰まっていたのである。
一人留守居させる前、もし人が訪ねてきてもドアを開けてはいけない、電話にも出てはいけないなどと、しつこいくらい絵里に因果を含められるほど、美加は思う。
『一人でいればいいだけなのに、どうしてママはなんども言うのだろう。』と。
美加を一人留守居させた一日目、絵里が仕事を定時に終え、息を切らして帰ってみると、
美加は、茶の間にある本棚を背もたれに足を投げ出した格好で、絵本を読んでいる。
「ただいま。」
と、絵里が息を呑みながら言うと、美加は、
「おかえり。」
と、絵里をチラッと見て、言う。
畳上の座卓を見れば、上には、算数ドリルと漢字練習帳が広げられ、下には、何冊もの絵本や児童書籍が重ねてある。
絵里が作り置いた昼食を盛りつけた大小の皿が、食器棚に片付けられている。
美加は、食べた後、自分で食器を洗って片付けたのだ。
絵里は、目を丸くして驚く。
美加は、まだ教えてもいないのに皿と箸を洗い片付け、一日中、算数ドリルの学習と漢字の練習をし、好きな本を読み、過ごしていたのである。
「今日は、何か変わったことはあった?」
と絵里に訊かれると、
「ううん、何もなかったよ。」
と、美加は涼しい顔をして答えたのだった。
絵里は、これほど肝の坐った子はいないと思った。
一体、人の顔に、美加が泣き出すほどの、どんな恐い表情が見えるというのだろうか。
美加の一人留守居は小学校に上がるまで続くのだが、絵里は、仕事が休みの時は、必ず、美加を外に連れ出すようになった。
公園に行って身体を動かしたり、遊園地に行って遊んだり、
スーパーやデパートに買い物に出掛けたり、美加の好きな本を買いに本屋まで出掛けたりと、すべては、美加を世間の風に慣れさせ、人の顔と向き合わせるためだった。
地域の学童保育にも連れて行き、同じ年代の子供たちと交流を計ろうとした事もあった。
絵里は、不安だったのである。
いつまでも、人の顔を見て泣き出すようでは、小学校に通うことが出来なくなってしまうのではないか、通えたにしても、友達も出来ず、周囲から白い目で見られ、嫌われるのではないか、
中学校、高校、大学への進学ができるのだろうか、社会人として自立して生きていくことも難しくなるのではないか・・・絵里は、心配で心配で、堪らなかったのである。
時には、嫌がる美加の手を引っ張って外に連れ出した。
人波の中に出掛ける度に不安げにそわそわし、特定の人の顔をじっと睨んでは泣き出す美加。
学童保育に連れて行っても、他の子供たちと馴染めず、先生や他の子の親の顔を見て泣きだすこともしばしばだった。
絵里は、その度に、優しく抱き寄せて、
「大丈夫よ、何も恐がることはないのよ。誰も、あなたに悪い事なんてしないから。」
と、美加の気持ちが鎮まるように、宥め続けたのである。
こうして月日は過ぎ、その症状は、次第に収まってきているように、絵里には見えたのだが・・・
美加が小学校生活が送れるかどうか、絵里は確信が得られないまま、入学の日を迎えてしまう。
美加の通学初日―
この日、絵里は、気掛かりでならず、仕事を休んだ。
絵里は、真新しい青いランドセルを背負った美加と一緒に家を出た。
学校まで、数百メートルの道のりである。
学校前の通りに入ると、二人の上級生を先頭に、四、五人の新入生を連れた登校班が、十数メートル先を歩いている。
だが、美加は近づくことをしない。
絵里は、美加の一人登校について、学校に伝えていなかった。
仕事の行きがけに、学校の門前まで自分が一緒に付いて行けば良い、と絵里は考えたのだ。
美加には、学校が終わったら真っすぐ家に帰るように、言い聞かせてある。
「気を付けるのよ。」
「うん。」
その日、絵里は美加に学校の門前で声をかけ、青いランドセルが校内に入るのを見定めて、帰宅した。
美加が学校から帰ってきたのは、昼前。
「ただいま。」
美加は、玄関で靴を脱ぎ揃え置き、さっさと机に行って、手際よくランドセルの中身を取り出し片付けながら、明日の授業に必要な教科書や文具を机に並べている。
「おかえり。どう、だった?」
絵里は、美加の顔を覗き込みながら、それとなく声を掛けた。
「どうだったって?」
美加は言う。
「先生はどう? 優しそうな人?」
「うん、やさしそうな人だよ。」
「そう・・大丈夫?」
「うん、だいじょうぶだよ。心ぱいしなくっていいよ。」
「そう・・分かったわ。」
「ねぇ、ママ、ほしい本があるから、いっしょに本やさんに行って。」
「う、うん。お昼ご飯食べたら、行こうね。」
こうして、美加の小学校生活ははじまったのだが、この頃から、美加は、稀に、夜中にうなされて目を覚ますことはあっても、人の顔を見て泣き出す姿を見せなくなっていた。
美加は物心付いた時から、人の顔にその本性を見続け、そこに恐い表情が見えれば泣き出し、恐い夢を見てはうなされていた。
これは、美加が生まれながらにして持つ、特殊な能力だった。
絵里に近づく下心見え見えの男、住宅街をジョギングしながら下見する泥棒など、彼奴らの顔には、ジョーカーのように嫌らしく薄気味悪い表情や、悪辣な妖怪のような表情が浮かんでいたし、保育園の保育士や幼稚園の先生の中には、老獪な婆のような、ずる賢そうな化狐のような表情を浮かべる人もいた。
たまたま二人で通りかかった街頭で、きれいごと並び立てる著名な政治家の顔には、鬼のような形相が浮かび・・・。
美加は、その顔に恐い表情が見えれば泣き出し、少し大きくなってはぎりぎりまで我慢し、小学校に入ってからは、気丈にその顔と向き合うようになったのである。
小学校通学初日、自分の席に坐った美加は、恐々と教室内を見渡してみる。
何人かのクラスメイトの顔が、ボーッとしたり歪んだり見えるものの、顔に別の表情を浮かべるクラスメイトはいない。
ところが、月日が過ぎていくと、その顔に別な表情を浮かべるクラスメイトが増えてくる。
ニコニコしながら眉間にしわを寄せ、いじわるそうな表情が浮かべる女子生徒、真面目な優等生のように振る舞う男子生徒の顔には、ひょっとこのような剽軽な表情が浮かび・・・
どう表現して良いのか分からない表情も、教室内のそっちこっちで浮かんでいる。
そんな表情ばかり見えるのだが、時には、美加の興味を引くような表情が見える事があった。
ハッとして、ついじっと見てしまうと、その見返りとして、相手に睨み返されるか、
気の強い女子生徒には、
「あたしに、何かもんくでもあるの!」
と、喧嘩腰に言われることも。
美加に好意的なクラスメイトもいたのだが、声を掛けられても、美加は無言のまま無視し、やがて、誰も近づかなくなった。
美加は、自然、自分の殻に閉じこもるようになってしまう。
学校という共同生活の中で、一人。
寂しさや孤独を感じたことはない、と言えば嘘になる。
だが、幼い頃から、人の顔に別の表情を見て来た美加。
現れた表情は、心を映し出す鏡、
嫌な表情が見える友達なんていらない、美加はそう思った。
昼休みは、校庭で戯れるクラスメイトや、教室内で仲良しグループが談笑している姿を尻目に、一人、涼しい顔で本を読む美加。
最初の頃は、美加の態度が気に入らず、美加の陰口を言い、睨みつけもするクラスメイトがいたが、月日が過ぎていくうちに、そういうクラスメイトは一人もいなくなった。
誰よりも勉強ができ、自分が正しいと思う意見をしっかり言える美加は、暗に、しかし確かに、クラスメイト達に一目も二目も置かれる存在になったのである。
そんな美加でも、新しい担任の先生の事となると、その顔を見るまで、ドキドキしてしまう。
美加にとって、担任の先生の顔にどういう表情が見えるかで、学校生活が針の筵にも絨毯にもなるのである。
一、二年の担任の年配の女先生は、顔に優しい笑顔が浮かぶ先生だった。いつも一人でいる美加を気に掛け、声を掛けてくれた。
三、四年の担任の男先生は、いつも『何かあったら、先生に言えよ。』と、声を掛けてくれた。この先生の顔には、穏やかなダルマのような表情が浮かんでいた。
五、六年の担任の若い女先生は、『美加ちゃんは、よく勉強しているね。』と声を掛けてくれ、
『この問題解いてみて。』と言って、授業とは違う面白い算数の問題を出してくれ、答えを書いて渡すと、『よく出来たね。』と褒められた。
この先生の顔には、こけしのような表情が浮かんでいた。
どの先生も、美加を色眼鏡で見ることなく、常に気に掛けてくれたことは、美加にとって何よりの幸運だった。
こうして、
終了ベルが鳴るとそそくさと教室を出て、寄り道せずに家に帰り、
家に帰れば、その日の授業の復習と明日の授業の予習をし、好きな本を読み、
そうして、絵里の帰りを待つ。
小学校時代は、ありふれていても恙ない毎日を、美加は送る事が出来ていたのである。
そんな、ある日のこと。
美加が小学校五年の夏、母娘ではじめて、軽井沢に泊りがけの旅行に出掛けた時のことだった。
以前、美加が、その顔を見て、泣きじゃくった人物に偶然出くわしたことがあった。
その人物は、絵里が夫以外に唯一心動かされた男性だったが、夫のことを忘れられない絵里の心情が、男性との一線を越えさせなかった。
殊更に、美加がその男性の顔を見て、異常に泣きじゃくる姿が男性を遠ざけ、二人の関係は自然消滅していたが、絵里の心中ではとうに過去の出来事として整理されていた。
「久しぶりだね。あの頃と、ちっとも変わってない。」
男性は、ニンマリとして言った。
「相変わらず、お世辞が上手ね。」
絵里は、皮肉っぽく言った。
「僕は、お世辞は言わないよ。」
男性はよそよそしく言った。
「そうかしら。」
絵里が言うと、男性は作り笑いをした。
「八年かな、かれこれ。」
「そうね、この子が三歳の時だったかしらね。」
「そうだったね。大きくなったね。おじさんが、分かるかい?」
と、男性が上半身を屈めて言っても、美加は今にも泣き出しそうに、口をへの字に押し黙ったまま。
「やれやれ・・・いまだに、僕のことが嫌いのようだね。」
男性は、呆れ顔で言いながら姿勢を戻した。
通りの向こうで、茶髪で派手な出で立ちの女性が、背伸びしながら手を振っている。
「あぁ、今行く。」
男性は、顎を突き上げる独特の仕草をしながら返事をすると、美加を一瞬、ジロッと睨みつけた。
「じゃ、元気で。」
男性は言って、未練がましく絵里を見ると、女性のもとに行った。
「さよなら。」
絵里は、小声で言った。
美加は、絵里の傍らに立って、口をへの字に、男性の後姿を睨み付けている。
「美加、どうしたの?」
絵里は怪訝に言った。
「ママ、あの人はダメ、悪い人よ。だって、鵺のような、恐い顔してるもの。」
美加は男性の後姿を指差しながら、真剣な眼差しで言った。
「鵺って・・・・」
鵺は、美加がお気に入りの妖怪大図鑑にある、頭は猿、胴は狸、足は虎、尾は蛇、声はとらつぐみに似た化け物であった。
妖怪大図鑑は、美加が幼稚園に入園した頃、園にあった一反木綿や、からかさ小僧などの妖怪絵本を見て妖怪に興味を持った美加が、絵里にねだって買ってもらったものだった。
「美加、ほんとうに、見えるの、そんな風に・・・」
絵里が怪訝な表情で聞くと、美加は大粒の涙を一筋流して、頷いた。
「まさか・・・」
絵里は、信じられなかった。
だが、娘の真剣な眼差しを見れば、到底、嘘を言っているとは思えない。
こうして、絵里はようやく理解し、悟ったのである。
「ごめんね、美加・・辛かったね、寂しかったね。本当に、ごめんね・・・」
絵里は美加を包み込むように抱きしめ、涙した。
いつも一人の美加だったが、小学校六年になってクラス替えになった時、美加にしきりに声を掛けてきた、女子のクラスメイトがいた。
いつもこの子が一方的にしゃべり、美加は頷きながら聞いているだけという、傍から見れば風変わりな友達関係だった。
この子の顔には何も現れなかった事はあったが、この子の話を聞いている時、美加は妙な心地良さを感じていたのである。
この子は、まだ幼い時に母親を亡くし、父親と二人きりだった。
毎日、一緒に下校し、本屋や文房具店に寄ったり、時々遠回りの道草もして、いつもの分かれ道で、『また、明日ね。』と互いに言葉を交わし、それぞれの家路につく。
だが、こういう唯一の関係は長続きしないもの。
夏休みに入って、この子は、父親の仕事の都合で遠い他県へと引っ越してしまう。
「じゃ、美加、元気でね。」
別れ際に、その子は涙を浮かべて言った。
「うん。紗代ちゃんもね。」
美加はそう返事をして、見送った。
そして、また、美加は学校で一人になった。
年が変わって、美加は公立の中学校に上がった。
クラスで知った顔は、同じ小学校の同じクラスから上がって来た男子一人きりだった。
美加は、小学校に入学したばかりの頃を思い出していた。
あの時も、こうやって、教室の中を見渡していた。
見えたのは、ボーッとしたり歪んだりする顔だけ。
だが、今日は、はっきりと、お多福のような、猿のような、目が吊り上がった意地悪そうな、いろいろな表情が浮かんでいる。
甲高い声が聞こえ後ろを振り返ってみると、男子生徒の顔に、目つきが陰険で底意地が悪そうに嗤う表情がボーッと浮かんでは消え、またボーッと浮かんでは消えを繰り返している。
『こういう表情が浮かぶ人が、いじめの張本人になるのかも知れない。』
美加はそう思った。
他にも、いろいろな表情が見えるのだが、ほとんどが、その時々の喜怒哀楽の情や、劣等感や優越感、嫌悪感、羨望、羞恥、嫉妬、欺瞞、憎悪などの感情がその時々に現れることでしかなかったのだが・・・・。
『先生の顔・・・・』
そう思った瞬間、美加はまたドキドキしてしまった。
一時限目のホームルームの時、自己紹介した女性の担任の道徳の先生の優しそうな顔に、極端に年老いた老婆の表情が浮かんだ。
二時限目、男性の国語の先生の柔和そうな顔には、総髪の頬に傷のある落ち武者のような表情が浮かび、三時限目、女性の英語の先生の整った顔には、福笑いのような表情が浮かび、
四時限目、男性の社会の先生の丸顔には、海坊主のような表情が浮かんだ。
五時限目、男性の数学の先生の将棋のような角ばった顔には、怒ったような表情が浮かび、
六時限目、女性の理科の先生の面長な顔には、泣きべそをかくような表情が浮かんだ。
角刈りの男性の保健体育の先生の顔には、へらへらと嗤う表情が浮かび、
長髪の男性の技術・家庭科の先生の顔には、白目をむいた道化師のような表情が浮かんだ。
女性の音楽の先生の色白の顔には、物悲しそうな表情が浮かび、唯一、神秘的雰囲気を醸し出す女性の美術の先生の顔には何も浮かばなかった。
いろいろありそうだが、中学校生活も、どうにか送れそうである。
一先ず、ホッとする美加だった。
だが、この頃から、美加は、恐ろしい形相をした人間と、それを取り囲む集団の人姿や、暗く広大な空間の中で正体不明の何ものかが蠢く姿を、夢の中で見るようになるのである。
高校進学の初日、窓側の最後部の席には、教室内をつぶさに見渡たす美加の姿があった。
真新しい紺のブレザーを身に付け、澄まして着席しているクラスメイト達の顔に、二つとしてない表情が見える。
美加の視線が、あるクラスメイトに固定した。
ケラケラと笑っている男子生徒の顔に、目つきの悪い蒼白な表情が、ボーッと浮かんでいるのが見える。それは、全く、血の気を感じさせない表情だった。
『あの顔・・・・』
美加は、何か事件が起こりそうな不吉な予感がした。
それはそのはず、この男子生徒こそ、後に、自らの取り巻きを得て、気に入らない生徒に、陰湿で卑劣ないじめを実行する首謀者になるのである。
この男子生徒によるいじめは上級生になるほどエスカレートし、やがて、いじめが原因で生徒が自殺するという大事件に発展していく。
我が子を失った両親の訴えによって、警察機関まで介入したこの事件は、ある勇気ある生徒の証言によって、陰惨ないじめの実態が白日の下に晒されたのだが、学校側はのらりくらりとした態度に終始し、明確に、自らの責任を認めようとしなかった。
結局、首謀者の男子生徒は退学、少年鑑別所送りとなり、取り巻きの生徒達も退学処分となって、県内随一の名門高校建学以来の大事件は終わりを告げたのだが・・・・。
美加の不吉な予感は、消えることがなかった。
この男子生徒達の退学の陰で、目つきの悪い蒼白の表情で、不気味に嗤う新入生がいたのである。
先生の顔・・・・。
そこにも、いろいろな表情が見える。
担任の先生の顔に浮かぶ老獪な仙人のような表情、その顔に悲し気な表情をいつも浮かべている音楽の女性の先生、数学の男性の先生の顔には、いつも怒っているような表情が・・・・
だが、その顔にどんな表情が見えようと、美加はもう気にしない。
その顔に現われた表情は、心を映し出す鏡。
嘘やごまかし言う人に、共通する表情がある。
人を騙そうとする人に、共通する表情がある。
身内を虐待する人や暴力を振るう人に、共通する表情がある。
精神を病む人に、共通する表情がある。
その心に悪魔が棲む人に、共通する表情がある。
どんなに気取っていても、澄ましていても、善人を装っていても、美加は、その心に巣くう本性を見抜いてしまうのである。
だが、この能力は、誰にも言えないことだった。
美加が高校に入学する時、絵里は言う。
「あなたの能力を、誰かに言ったところで、薄気味悪がられるだけよ。
だから、将来、あなたが、どんなに信頼する人が現れても、決して言うべきではないし、言う必要もないわ。
あなたは、人の内面が分かる能力を持っているの。それを、自分のために、そして、善き人のために活かすべきよ。」
絵里はそう言ったが、未だに自分自身が崩れ落ちないように向き合う事で精一杯なのに、人のために活かすなんて、と美加は思った。
将来の進路を決めなければならない時も、美加は悩み抜く。
民間企業であれ何であれ、欲得渦巻く人間の組織に、足を踏み入れられるはずがない事は、美加自身が一番分かっていた。
そんな時、ふと、小学校時代を思い出した美加は、小学校の教師なら出来るかも知れない、と思うようになる。
まだ年端が行かない子供ならば、そうそう禍々しい表情が見えることもないだろう、絵里はそう考えたのである。
そのことを絵里に言うと、
「あなたが、決めることなら。」
と絵里は返して、頷いた。
美加が進学したのは、国立の某名門大学の教育学部だった。
この大学は、政財界に多くの人材を輩出していた。その中には、引退後も隠然と影響力を持ち続ける大物が存在する。
美加は、大学の正門を通り抜けると道筋の端に立ち止まり、通り過ぎる学生たちの表情を窺った。
多くの学生の顔は、希望に満ち満ちた笑顔で溢れている。
だが、すぐに、美加はある事に気付く。
笑顔と重なるように、にやけた三白眼をした、いかにも冷酷そうな表情を浮かべている学生がいるのである。
その学生は、自分は将来を約束された特別の人間だ、と言わんばかりに横柄な態度を取り、周りの学生に、見下すような視線を向ける者がいる。
こういう人間が、いずれこの国を動かしていくことになるのだろうか、と美加は不審を抱き、妙な胸騒ぎがしたのだった。
『嫌な顔。一体、何様のつもりなの。』
美加は、通り過ぎた彼の後姿を見ながら、心の中で呟いた。
大学の三年間は、あっという間に過ぎていった。
美加は勉学に励み、大学の二年次と三年次は首席を通した。
四年次、いよいよ、教育実習が行われる年である。美加の心中は、期待と不安が入り混じっていた。
美加は、地元の小学校を実習の場所として選び、二学年を担当することになった。
担任に紹介され、教壇に立った美加は、小学校に入学したばかりの頃を思い起こしていた。
教室のあちこちで、様々な表情が浮かんでいる。だが、全く悪意は感じられない。
「桜井美加と言います。これから四週間、皆さんと一緒に勉強したいと思いますので、よろしくお願いします。」
と、美加が生徒に丁寧に言葉を掛けると、「よろしくお願いします。」
と、一斉唱和に返事が返ってくる。
美加は、この時、言葉では言い表せない手応えを感じたのだが・・・。
四週間の教育実習は、一日一日、着実に、滞りなく過ぎていった。
ところが、あと数日で終わろうとしていた時だった。
美加は、急に、教師、生徒、保護者の三竦みの人間関係に不穏な将来が待ち受けているような気がして、教師になることに躊躇いが生じるほど、不安を感じるようになったのである。
自分に対して気を遣ってくれる先輩の先生達、そこには、嫌な表情も悪意ある表情も見えない。
自分は、先輩の先生達の期待に応えようと努力しているし、生徒達に慕われるように努力もしている。
教育実習は、一日一日、問題なく消化しているし、指導を担当する教師からは良い評価をもらっている。
なにより、覚悟を決めて教師の道を選んだはずなのに、今さら、何故尻込みするのか、美加の焦燥感は募っていく。
すると、
「あなたは、一体、どういう覚悟を決めたというの。」
美加が悩んでいることに気が付いた絵里は、静かな中にも重々しい口調で言う。
その時、絵里の顔に、目を吊り上げ、眉間にしわを寄せた怒りの表情が見えた。
『はっ!』
美加は、驚きと畏れの中で、言葉なく叫んだ。
今まで、絵里の顔に、こういう表情が浮かぶことはなかったのである。
美加は、目が覚めた思いだった。
同時に、教師として、自分が生きていく術に、気が付いたのである。
こうして、美加は、あらためて覚悟を決め、K県の教員採用試験を受験、合格し、大学を卒業して一カ月後、H市内郊外の町にある小学校に赴任したのだった。
美加が受け持つことになったのは二学年、まだ一年生の意識が抜けない子供達だった。
新米教師の美加には、教育係として教務主任が付いた。
この教務主任のキリッとした顔には、美加を上から下まで値踏みするかのように視る、狐のような表情が浮かんでいる。
「子供だと思って、甘く見ちゃ駄目よ。」
挨拶もそこそこに、教師歴二十五年のベテラン女性教務主任の塚原は言った。
「それは、どういうことですか。」
美加は真顔で言った。
「最初から、あまり脅かしちゃいけなかったかしらね。
つまり、子供達と、ちゃんと向き合わなければ駄目ってこと。純粋な心は怖いもの、目を背ければ、すぐに足元を見られてしまうわよ。」
塚原は謎掛けのように言い、微笑んだ。
「はぁ・・・。」
美加は、生半可な返事をしながら塚原を見返した。
こうして、美加の教師生活は始まった。
初めて教壇に立ち、子供たちの顔を見渡せば、そこには、様々な別の表情が浮かんでいる。
そこから、美加は、睨み付けるような、不安げな、何かを訴えかけるような、興味津々な、探るような、様々な視線を感じる。
生徒も、新任の先生である美加の事を、値踏みしているのである。
美加は、一人ひとりの子供が見せる表情から内面を知り、寄り添える教師になろうと決心する。
裏腹に、美加は、生徒の保護者、同僚や先輩の教師との関係に、常に一線を引いた。
美加の、同僚、先輩教師と保護者に対する態度は余りに素っ気無く、塚原を呆れさせる事もしばしばだったが、美加は気に留めなかった。
時に、その顔に悪意ある表情が見える同僚、先輩教師や保護者はいたが、どの人とも同じように接するように努めたのである。
生徒が良く理解できるように授業の工夫をし、学習に遅れる生徒がいれば、理解できるまで根気よく教え続ける美加。学習が遅れた生徒の自宅まで行き補習したことも、二度や三度ではない。
同僚や先輩の教師に、
「やり過ぎは良くないよ。」と、皮肉を言われることはあったが、自分が巻き込まれることが嫌なだけの同僚、先輩教師の言うことなど、美加は気にしなかった。
やがて、美加の愛想がなく素っ気ない態度を快く思っていない保護者も、子供たちに公平に接し、慕われ、落ちこぼれる生徒を一人も出さない、美加の教師としての実力を認めざるを得なくなった。
「うるさ方の保護者に認めさせるなんて、大したものだわ。将来が楽しみだわね。
教育係の私としても、鼻が高いというものよ。」
塚原は美加を持ち上げて言いながら、
「でも、どうしてかしらね。あなたがそんなに、ガードが固いのは。」
と続け、塚原は美加に鋭い視線を向けた。
塚原は、人を寄せ付けない美加の態度が、自分自身を庇護するためであることだけは見抜いていたのだ。
美加は、
『私は、人の顔にその本性が見えるのです。』
などと言えるわけがないし、偏屈な変わり者と陰口を言われたところで、
『言いたければ言わせておけば良い。』
と、気にも掛けなかった。
「まぁ、いいわ。無理に聞こうとは思わない。でもね、助けたり助けられたり、これが人間というものよ。そうじゃない? じゃ、お先に。」
塚原は、そう言って教務室を後にすると、
「分かってもらおうとは思わないわ。」
と、その後ろ姿を見ながら、美加はつれなく呟いたのである。
「はっ・・・夢・・・」
美加は目覚めた。
今日見た夢は、幼き頃、絵里と一緒に、買い物や旅行に出掛けた時の懐かしい夢だった。
自分の顔ははっきり見えるのだが、絵里の顔がボーっとしてよく見えないまま、夢は終わった。
『何故、こんな夢を・・・。』
目覚まし時計の針は、午前八時過ぎを指している。
日曜日の朝というのに、窓側の通りから、コツコツ・・・と、ひっきりなしに、小気味よく響く靴音が聞こえる。
美加は、小気味よいリズムを刻む靴音を聞きながら、ぬっくりとした炬燵の暖に浸かり続ける。
今日は、絵里に会う日である。
この一カ月、学校行事が目白押しで、絵里の顔を見ていなかった。
絵里は、四年前、医師から若年性アルツハイマー型認知症と診断され、今では人の手を借りなければならないほど弱くなっていた。
絵里が医者の診断を仰いだ契機は、突如起きた記憶力の減退と記憶の混乱だった。
美加は、絵里に多くの心配と苦労を掛けた報いだと思った。
絵里は失意のうちに塞ぎ込み、当時、関東圏内二十数カ所に拡大した英会話教室のエリアマネジャーの仕事を、周囲に迷惑をかけるからと、あっさりと辞めてしまったのである。
ところが、絵里が投薬治療とリハビリのために定期的に通院をはじめて、半年が過ぎた頃だった。
医師から処方を受けた薬の服用とリハビリに驚くほど効用があり、それ以後、絵里は、症状がほとんど表れることはなく普通に生活を送れていたのである。
医師は顕著な症状の改善に驚く一方、予断は許さないと言ったが、絵里は英会話講師への復帰を考えるまでになり、美加もホッと一安心したところだった。
だが、それも長くは続かなかった。
或る日、夕方前には帰宅すると言って友人宅に出かけた絵里が、夕刻になっても帰宅しないことがあった。
その日、友人宅を後にし帰宅の途についた絵里は、突然前後不覚となり、自宅への帰り道はおろか、
自宅の住所、電話番号、携帯電話を持っていることも忘れてしまったのである。
絵里は、街中を彷徨するしかなかった。
美加が絵里の訪問先に連絡を入れると、絵里は午後四時前には暇を告げ出たという。
美加は、何度も、何度も、絵里の携帯電話に掛けたが、気が付かないのか出てくれない。
美加は、訪問先から自宅までの経路を必死に捜し回ったが見つけられない。
一体、絵里はどこに行ったのか、絵里に何が起こったのか・・・。
「まさか・・・」
美加の脳裏に不安がよぎった。
時節は厳寒の真冬、しかも絵里が向かったのは、友人宅からの帰路から反対方向に数キロ離れた、昼間でも人通りの少ない街路だった。
この街路は、夜になると人通りがほとんど途絶えてしまう。
運が悪ければ路傍の躯という中、絵里は英会話講師をしていた頃の教え子に偶然に出会い助けられた。
絵里の様子が尋常ではないことを察した教え子は、絵里が持っていた携帯電話で美加に連絡してくれたのだ。
人通りが途絶える夜更けの街路で、たまたま通りかかった教え子に助けられるとは、奇跡としか言いようがなかった。
その一騒動以後、絵里は落ち着きを見せてはいたが、絵里の病気の特徴は、進行が早い上に、同じ症状が繰り返し現れながら重篤化していく傾向にある、と医師に告げられた。
そして、絵里を目の行き届く施設に入れることを、医師は薦めたのである。
美加は悩んだ。
絵里を施設などに入れたくはない。
だが、絵里の容態が悪化すれば、介護のために、仕事を辞めなければならなくなるかも知れない。
そうなれば安定した収入が得られなくなり、将来の生活が成り立たなくなってしまう。
絵里は、美加が悩んでいることを察して、自分から施設に入所したいと言い出していた。
美加は、絵里が娘に負担を掛けたくない思いから、言い出したことは分かっていた。
だが、絵里は頑なだった。
美加が幼い時から、こういう時が来た時の自分の身の振り方を決めていて、そのための蓄えもしていたのである。
「そんな事言わないで。お母さんは心配しなくていいのよ。」
と、その度に美加は絵里を宥めてきたが、しばらくして、絵里はA市にある施設のパンフレットを美加に見せ、
「契約してきたわ。半年後には入居よ。」と、平然と言ったのである。
「娘の私に何の相談もなく、勝手な事を!」
と、美加が怒り心頭に怒鳴っても、絵里は頑として引かず、
「自分の事を自分で決めて何が悪いのよ! そのくらいのお金だって、あるのよ!」
と、怒鳴り返す。
母親は一歩も引かず毅然としているが、美加はすでに泣き崩れている。
そうして、二人は最初で最後の親子喧嘩は、
「ねぇ、美加。お願いだから、私の好きにさせて。」
と、絵里の言葉で収束する。
「何処で暮らしても親子は親子、美加は私の自慢の娘よ。」
と、絵里がいつもの優しい笑顔を浮かべて、泣き崩れる美加の肩を抱くと、美加は胸が熱くなり、絵里の胸で別の涙を流したのである。
それから半年後、絵里はA市にある施設に入居したのだった。
美加は絵里を他人の手に委ねることに後ろ髪を引かれる思いだったが、設備が整い、専門のスタッフが揃っている施設であれば、安心して絵里を任せられる、これは絵里を守るためと、自分自身を納得させたのである。
そろそろ、絵里に会いに行く時間である。
『母は、娘のことを忘れてしまっているかも知れない。』
美加は込み上げる不安を打ち消しながら、炬燵から身体を起こし身支度をはじめた。
海の見える小高い丘にある施設は、六百坪ほどの敷地に、五階建てのマンション風の建物だった。
海沿いにある温泉の町という土地柄から、入居者は海を眺められる個室があてがわれ、幾つもある掛け流しの温泉浴場の他に、海を一望できる屋上階や視聴覚室や娯楽施設まで完備する、という快適さだった。
美加が部屋に行くと、絵里はいない。美加は、迷わず屋上に向かった。
絵里は、いつもの通り、南側のベンチに坐り、遠くの地平線を眺めていた。
絵里の隣に、女性の介護士が付き添ってくれている。
絵里は、天気の良い時は、必ずこの屋上で日向ぼっこをする。
美加が後ろからベンチに近づき絵里の肩にそっと手を置くと、絵里は少し不安げな表情をしながら手を置かれた肩の方を見上げた。
女性の介護士は、頷きながらニコッと笑顔を見せると、施設内に戻っていった。
「おや、美加。来てくれたのね。」
絵里の顔が笑顔に変わった。美加は、内心ホッとした。
今日は、少しは体調が良いのだろう。
絵里は、時折、記憶が交錯するらしく何年も前のことを昨日のことのように話したり、同じ事を何度も訊くことがあった。
それは、症状が悪化している証のように思え、美加は気懸かりだった。
「生徒さんとは、上手くいっているの?」
絵里は、遠くを見つめながら言った。
「えぇ、いい子達ばかりよ。」
「そう、それはよかったわ。」
そう言って、絵里は微笑を返す。
美加は絵里に同じ事を聞かれても、同じ返事をする。
いつもの光景である。
そうして、絵里は寂しそうに遠くの彼方を見つめる。美加も、絵里に倣い遠い彼方に目を馳せる。
絵里は、遠くの彼方を見つめながら、異国の地で忽然と姿を消した夫を思っているのだろうか。
絵里が、この施設に入ってしばらく経ってからのことだった。
「お父さんは、お前が生まれたばかりの頃外国に行ったきり。今頃、何処でどうしているのかしらね。」
と、絵里は涙を浮かべながら、悲しみに打ちひしがれたような表情で言った事がある。
それは、今まで美加が見たことがない母の表情だった。
その時美加は、母が娘のために、どれほど気丈に、そして、いかに尽瘁に生きて来たかを知った。
ふと見上げれば、灰色の雲が西から東の空に集まり、陽が翳り始めている。
「寒く、ない?」
「そうね。」
「部屋に戻る?」
「ううん、もう少し。」
「分かったわ。」
美加は、絵里の耳元で囁いた。
見る間に太陽は雲間に隠れ、肌寒くなってきた。
美加は、絵里に再び耳打ちすると、絵里は頷き返した。
美加が絵里の肩を抱きながら一緒に立ち上がったその時、絵里の顔が、一瞬ボーッと烟ったように見えた。
美加はハッとして、絵里の顔をジッと覗き込むが、再び絵里の顔が烟ることはない。
「どうしたの?」
と、絵里は言った。
「ううん、何でもないわ。」
と返した美加の頬を、奈落の縁から吹きつける冷たい風が、刺した。
了




