あの頃の情熱をもう一度!
瀬戸内レモンのクッキーが美味しかったので。
手作りクッキー。
それは乙女を乙女たらしめる、手段であり道具である。
今日も王立魔法学院では意中の人を射止めようと、手に手にクッキーを持った乙女たちが中庭に集まっていた。
貰える男は「そんなに毎日クッキーばっかり食えるかよ」と優越感たっぷりに内心愚痴り、貰えない男は「別にクッキーなんか好きじゃないし!」と心のハンカチーフをギリギリしていたりするのだが、それは言わぬが花だ。
さて、そんな「貰える男」として学院で有名なのが、王国の第三王子バーナビーである。
王族として当然毒についての耐性訓練を受けているバーナビーではあるが、王族としてこれまた当然毒見兼護衛兼学友兼従者がついている。伯爵家次男のカーティスだ。彼しかいないのは単に年齢が合わなかっただけである。
バーナビーに渡される乙女たちの手作りクッキーは、まずカーティスの口に入る。
「バーナビー様、わたしが作ったクッキーです!」
それは例外なく、男爵令嬢マリーのクッキーもだった。
バーナビーが断らないため否応なく続くクッキー攻めに、もはやうんざりしながらもカーティスはマリーのクッキーを食べた。
瞬間、カッと目を見開いた。
「このクッキーを作ったのは誰だっ!!」
突然の叫びにマリーはびっくりして一歩引いた。バーナビーも目を丸くしている。
「わたしですけど……」
誰だ、も何も、ちゃんと自己申告済みである。
「知っている!!」
ものすごく理不尽だった。
「なんだこれは……まるで粉そのもののような食感。歯ざわりなど皆無で舌触りもぬめっとして気色が悪い。バターの風味はせず、かといって砂糖の甘さがどこにもない。これは本当にクッキーか!!?」
酷い言われようだった。
「なっ!?」
マリーの顔色が変わり、
「え、そんなにマズいの?」
なぜかバーナビーが好奇心に目を輝かせた。
「おやめください殿下! これはもはやクッキーではありません、毒物ですっ!!」
手を伸ばそうとしたバーナビーをカーティスが慌てて止める。
「そんな、酷いです!」
衆人環視で酷評されたマリーがさすがに食ってかかった。というか、男爵令嬢が王子に毒物食べさせようとした、となれば普通にお家取り潰し案件である。必死にもなろう。
「酷いのは貴様の味覚だ! よくコレを殿下に食べさせようと思ったな!!」
「酷いっ! やっとクッキーっぽくなったのに!!」
マリーの反論にカーティスがぴたっ、と固まった。
やっと。
クッキーっぽく。
「……聞くが、貴様、料理の経験は?」
「二、三日前」
つまりクッキー作りしかしたことがない。しかも失敗している。
「ちゃんとレシピどおりにやったのだろうな!!?」
「レシピ? 何ですかそれ」
カーティスは片手で額を押さえた。
マリーはきょとんとしている。
ここで弁明させてもらうと、まず貴族の令嬢は料理をしない。料理人がいるからだ。
そしてキッチンというのは料理人――使用人にとっては職場であり、貴族の使用人というのは執事や従者、メイドに侍女といった、特定の者しか主人一家の前に姿を見せないのが基本なのである。
また主人一家のほうも、仕事の邪魔をしないよう、彼らのテリトリーには近づかない。たとえ廊下でばったり会っただけでも使用人は仕事の手を止め頭を下げなくてはならず、とても緊張させてしまう。
お互いに気持ちよく過ごすための、常識でありマナーであった。
ゆえにマリーが料理のいろはすら知らない初心者であり、レシピの存在どころか単語すら知らないというのは、やや強引ではあるが無理なからぬことではあるのだ。いやそこはメイドあたりにクッキーの作り方聞けよ、なんて思っても言ってはいけない。
「レシピも知らずに料理をするな馬鹿者めっ!!!」
「馬鹿って言うほうが馬鹿なんですぅ~! で、レシピって何なの? ……ですか?」
今にも爆笑しそうなバーナビーにやっと気づいて、マリーは若干丁寧な口調に改めた。
「レシピというのは料理の作り方を記した、いわば教科書だ!!!」
「教科書!? 料理にそんなのあったの!? ですか!?」
「……まさか料理人は生まれた時から料理ができる、とか思っていたのではあるまいな?」
「そ、そこまでは。ただなんか、頭の中で考えた料理をわちゃわちゃーってやってるものとばかり……」
「そうか……」
頭の中で考えたクッキーをわちゃわちゃー、とやった結果がマリーのクッキーだと、カーティスにもわかった。
「そうか、レシピね。レシピ」
マリーはなにやら納得した様子である。
一応マリーもクッキーが焼き菓子、という部類に入ることは知識にあった。材料が小麦粉、バター、砂糖、であることも見当ついた。
ただし分量は頭になかった。単純に材料を混ぜて焼けばクッキーになると思っていたのである。
さらにマリーは、乙女ならではの暴走力で余計なことをしていた。
失敗が約束されたようなものである。
「ありがとうございます! また持ってきますね!」
「あ、ああ。頑張れ」
まったくくじけた様子のないマリーにカーティスはついそう言ってしまった。
淑女らしからぬ走りで去っていくマリーに、ついにバーナビーが腹を抱えて笑い出す。
「おっかしい! ずいぶん素直な子だったね」
「殿下、笑っている場合ではありません。本当に手作りということは……」
「わかっている。魅了の魔法薬入りだろうな」
渋面のカーティスにバーナビーもうなずいた。
魅了の魔法薬とは、ようするに惚れ薬である。
薬に魔力を込めた者に、服用した者が恋をする。
無味無臭で色もなく、酒やジュースに混ぜて飲むことが多い。
この魅了薬、別に禁止薬物ではなく、一般的な魔法薬局で普通に販売されている。
薬なのだ。常習性があるわけではなく、情熱的な恋に落ちても一時的なもの。時間経過で体内から排出されて終わりである。
キャッチコピーは『あの頃の情熱をもう一度』。なんとなく精力剤を彷彿とさせるのは、メインターゲットが熟年夫婦や倦怠期のカップルだからだ。盛り上がると評判である。
もちろん恋を夢見る若者も、魅了薬に助けを求める。マリーもその一人だ。
ただし親のすねをかじっている少女には高価だった。もっとも魔法薬は材料が特殊なのでたいてい高い。
マリーは男爵令嬢と、貴族としては底辺だったが、実家は空間魔法を得意として商売をし、それを発展させてきた。歴史は浅いが金ならある、成金男爵なのでマリーが使える金も潤沢にあったのだ。おかげで魅了薬を大量購入することができた。
マリーがクッキー作りでやった余計なこととは、まさにこの魅了薬混入であった。
マリーとて魅了薬の効果がいずれ切れることを知っている。長くて一日、耐性のある者には半日がせいぜいなのだ。
しかしマリーは考えた。すぐに効果が切れるなら、その前に、継続して摂取させれば良いのでは?
……それを考えた人が他にいなかったわけがないし、どうなったのか伝わっていないあたり、結果が予想できそうなものだが、マリーはその画期的な発想を実行すべく、クッキー作りに挑んだのである。
ここで注目すべきは、マリーは別にバーナビーに恋しているわけでも、王子妃となってウハウハな生活をしたいというわけでもない、ということだ。
マリーは恋に憧れる乙女にすぎなかった。素敵な人と素敵な恋をしてみたい。それでどうして魅了薬使おうになるのか謎だが、大それた願望なんぞは皆無であった。
マリーはひたすら素直で単純なのだ。自分の思い描いた理想の恋を実現すべく、クッキーを作り続けた。
ところでマリーたちが通う魔法学院の図書室に『美味しいクッキーの作り方』なんて本はない。魔法学院なので料理に関する本はなかった。
料理に魔法を使うのなら、その方法を考えなければならない。それはレシピとはいえないだろう。
マリーがレシピを入手するには学生街の本屋に行くしかなかった。
本屋には様々な料理本が揃っている。
菓子の本も、たくさんあった。
そしてマリーは、初心者にありがちな根拠のない自信に満ち溢れていた。自分がやる気になればできる、と信じていた。
本屋には菓子の本もたくさんある。
初心者向けから上級者向けまで。たくさん。
自分はできる女だと信じているマリーは、当然のように上級者向けの本を買ってしまった。パラ読みした時点でちんぷんかんぷんだったがそこはそれ。やっているうちにわかってくるわ。鼻歌交じりに思った。
そして。
「薄力粉? 小麦粉と一緒よね!」
「砂糖百グラムってこんなに!? 噓でしょ!!」
「バターを常温に戻す? ……戻すとどうなるの?」
さっぱりわからないままマリーのクッキーが完成する。
「マズイ! 貴様、ちゃんとレシピは読んだのか!?」
「読んだわよ失礼ね!!」
読んだだけである。
「粉とバターと砂糖を混ぜて焼くだけで、どうしたらここまで破壊力のあるクッキーができるのだ? 逆に才能ではないか!!」
「知らないわよ!!」
カーティスにダメ出しされ続けても、マリーはめげなかった。悔しさをばねにクッキーを作り続けた。
下位貴族のマリーが王子のバーナビーにクッキーを渡せるのは昼休みか放課後の中庭しかない。他にもバーナビーにクッキーを渡したい令嬢や見守る令息などもいる中で、いつしか「マリーのクッキーチャレンジ」と呼ばれるようになった。
それにしても、ここまで上達しないマリーもすごいが、一枚とはいえ毎日激マズクッキーを食べ続けるカーティスは付き合いが良いし面倒見が良すぎた。
「いい加減にしろ貴様! 少しは上手くなろうとは思わんのか!!」
「ちょっとずつ成長してるじゃない!!」
「三歩進んで五歩下がっているだけではないか!!」
「いくらなんでも下がりすぎでしょ!!」
「しかしだな。レシピを読むだけではなく、そう、周囲の者を参考にするだとか、ないのか? 寮のキッチンだろう!」
ちっともめげないマリーに絆されたのか、馬鹿な子ほどかわいいというやつなのか。カーティスは真剣にアドバイスする。
魔法学院は全寮制。寮生が使える専用のキッチンが配備されていた。主に女生徒のためのものだ。
「他の子なんていませんよ?」
何言ってんだとばかりにマリーが首をかしげた。
マリーもはじめのうちは、同級生や先輩方に魅了薬を見咎められたら……と警戒していたのだ。しかしいつまでたっても彼女たちは現れず、ではバーナビーたちに渡している手作りクッキーはいつどこで作っているのか疑問に思ったものだった。
「ああ、たいていの『手作りクッキー』はゴチィバとかモッグモッギュとかの店のものだったな」
ぽん、とバーナビーが手を打った。
「手作り、とは!?」
「手作りだろう、職人の」
クッキーを持っていた女生徒たちが気まずそうに目をそらした。
どうやら信じていたらしいカーティスが衝撃を受けている。
「せ、せめて味見をしろ!!」
「そんなっ。そんなはしたないことできません!」
「つまみ食いではない! 味見だ!! 人間が食えるものを持ってこい! いいな!!!」
「え~。毎日クッキー食べたら太っちゃう」
「貴様が言うな!!」
毎日クッキー持ってきてカーティスに食べさせているマリーが言って良いセリフではなかった。
なぜマリーのクッキーはマズイのか。
まずマリーは『常温』の意味を理解していなかった。溶かしたほうが混ざるだろうとバターを毎回溶かしている。
そして砂糖の量に戦き、半分、もしくは半分以下にまで減らしていた。
さらにどうせ混ぜるのだから、とそれらを一気に投入する。
当然、混ざりは悪い。捏ねていればなんとかまとまったかもしれないが、手が汚れるのは嫌、という乙女らしい理由でヘラを使っていた。
どうにも粉っぽいそれに、魅了薬を入れてまとめる。その日の気分によって多かったり少なかったり。べちゃべちゃかぱさぱさだ。
もちろん生地を寝かせるなんてするはずがなく、伸ばして型で切り抜いて焼けば、マリーのクッキーの完成だ。
砂糖とバターのおかげでキッチンには甘い匂いが充満し、ほかほかのクッキーはいかにも美味しそうに見える。
「味見かぁ」
カーティスにはああ言ったが、マリーとて味見くらいは知っていた。できたてを食べてみたいとも思う。
しかし魅了薬入りなのだ。自分で自分を魅了したらどうなる? そう思うと食べる気にはなれなかった。
まあ別に体に悪いわけではないし、どうせ半日くらいで効果は切れるし。
それに本当にそこまでマズイのか、ちょっと気になる。
うん。ひとつうなずいて、マリーはクッキーを食べた。
「……っ!!」
瞬間、ぞわわっ、と全身に鳥肌が立ち、寒気に襲われる。
とっさに手で口を押え、キッチンの流しにぺっ、と吐き出した。
「うおえぇぇぇぇっ! まっず……!」
乙女にあるまじき声が出た。
あまりのマズさにマリーは何度も口を漱ぎ、涙目で口の中から怖気を消そうとする。
「ちょ、カーティス様ってばよくあのクッキーを食べたわね!?」
好きで食べていたわけではない。あくまで毒見である。
作った本人が言って良いセリフでもなかった。
「え、本当にすごいなカーティス様……。こんなのクッキーじゃない。わたしの知ってるクッキーと違いすぎる……!」
マリーがそれを自覚しただけでも大きな一歩だ。
「カーティス様にもバーナビー様にも、レシピにも材料作った農家さんにも申し訳ないわ! ああ、神様、食べ物を無駄にしてしまった罪深いわたしをお許しください……!」
マリーは裕福な男爵家の娘だ。兄と弟がいるが女の子はマリーひとり。甘やかされて育った。
空間魔法を得意とし、他国との交易を盛んにすることで財を成した。その功績を認められて爵位を得た家である。
クッキーを作る材料も融通してもらえたし、魅了薬を大量購入しても叱られなかった。
学院で、素敵な人と素敵な恋をしてみたい。そんなマリーを微笑ましいと見守ってくれる家族である。
家族の顔を思い出すと罪悪感で潰れそうになる。今までごみにしかならなかった材料、その費用は家族が働いて得た金である。商家の娘として視察に赴き、農家や工場で働く人を見たことだってあった。
マリーは神に懺悔した。とうていクッキーとは呼べない物を作り出し、ごみにしてしまったことを心の底から悔いた。
「かくなる上は絶対美味しいクッキーを作って、カーティス様とバーナビー様にお詫びしなくっちゃ!!」
ここでくじけないのがマリーである。
食べ物に値しないクッキーに懺悔してゴミ箱に捨て、新しいクッキーを作りはじめた。今度はちゃんとレシピのとおりに。意味のわからなかったところは寮の料理人に聞いた。
どうやらマリーのクッキーチャレンジは有名だったらしく、彼らは快く教えてくれたのだった。
そして――。
「やればできるではないか貴様ぁ!! これこそクッキーだ!!!」
「やったぁ!!」
手を叩いて喜ぶマリーにカーティスとバーナビーもにっこりだ。ついでにギャラリーからも拍手が起こっている。
「よく頑張ったな!!!」
「はい! あ、でも、たしかにクッキーではあるんですけど、なんか違うんですよね」
「違う?」
「家で食べていたものと比べて」
「たった一回成功しただけでずいぶん大それたことを言っているな!!?」
プロの料理人や菓子店の味と、素人の味を一緒にしてはいけない。図々しいマリーだった。
「この自信を次に繋げたい!!」
「自信に満ち溢れすぎだろう!!!」
カーティスは呆れかえった。この自信こそ連日激マズクッキーを人に食べさせた原動力かと納得すらしている。
「なら、せっかくだしこれくらいを目指したら?」
「殿下……」
バーナビーが合図を送る。毒見兼護衛兼学友兼従者は少しためらい、それから持っていた小箱をマリーに押し付けた。
中身はクッキーだった。
「食べてごらん」
カーティスとバーナビー、そしてクッキーを見て、マリーは一枚手に取った。
見た目はマリーのクッキーとそう変わらない。マリーのクッキーより丁寧に仕上げてあるようだが、それだけだ。
一口食べてマリーは目を見開き、手で口を押えた。
「な、なにこれ!? わたしの知ってるクッキーと違う!!」
昨日と同じセリフだが、意味がまったく反対であった。
「え、本当に何!? クッキーってこんなに美味しいものだったの!?」
食べる手が止まらないマリーにしてやったりとバーナビーが笑った。
「美味しいだろう。ヴィヴィアンが作ったクッキーだ」
正確には「ヴィヴィアンの家の菓子職人が作ったクッキー」である。言わなかったのはもちろんわざとだ。
「こ、これが手作り……!? ヴィヴィアンって誰ですか?」
突然のヴィヴィアンに驚きも忘れて尋ねた。
「わたしの婚約者だ」
「婚約者!?」
クッキーの時よりも驚いているマリーに、バーナビーはあれ? となった。
「婚約って、結婚を前提として、っていうアレですよね!?」
「そう。その婚約者」
バーナビーは第三王子。婚約者はすでに決まっている。
「まさか知らなかったのか!? 王族の婚約は公表されているぞ!!」
カーティスが叫んだ。
彼がさっきためらったのはバーナビーの婚約をマリーが知ってしまうと思ったのではなく、極上のクッキーに自信を喪失してしまうのでは、と危惧したからだ。
「知りませんよ! あ~やだ~~!!」
残りのクッキーをしっかり食べきって、マリーは頭を掻きむしった。
「わたしがやりたかったのは素敵な恋であって、これじゃあまるっきり当て馬じゃない! もっと早く言ってよ!!」
「知っていて当然だろうが!!」
「女の子に囲まれてクッキー受け取ってたらフリーだと思うわよ!!」
「てっきり知っていて渡してきたと思ったのだが!?」
「浮気も略奪も素敵な恋に当てはまりません!!」
もっともである。
カーティスもバーナビーも同意するしかなかった。
ギャラリーの女生徒はバツの悪そうな顔をしている。
知っていてあわよくばだったのか、ノリに流されたのか。いずれにせよ「王子様との恋」が浮気にすぎないことを承知していたのだろう。
「もしかして、カーティス様にもいるんですか!?」
「まあな」
「そんな~~!!!」
マリーは泣いた。渾身のギャン泣きである。
「めちゃくちゃ失礼なことしてた!! これじゃもうクッキー食べてもらえないよ~!!」
自分の婚約者に見ず知らずの女が手作りクッキーを渡したとなれば、傍目には浮気のお誘いか略奪目当てである。
許可を取れば良い、という問題でもない。それは遠回しな宣戦布告だ。
魅了薬入りのクッキーを、マリーは本当に、素敵な恋のきっかけにしたかったのだ。
涙だけではなく乙女にあるまじき鼻水まで垂らして泣くマリーを、放っておくこともできず、カーティスとバーナビーは懸命に慰めることになった。
――その後。
学院を卒業したマリーはなんとクッキーの専門店を開いた。
カーティスとバーナビーに頼んで彼らの婚約者に詫びたら気に入られ、菓子職人を紹介してもらえたのだ。
中庭には多くの女生徒がいたが、ヴィヴィアンと、カーティスの婚約者イヴェットに謝罪したのはマリーだけだった。
しょせん学生時代のお遊び。ただの良い思い出。そんなつもりだったのだろう。
だがヴィヴィアンとイヴェットにとっては不快に違いなかった。一生に一度しかないその年を、不快な思い出に汚された気持ちでいっぱいだったのである。
そこにマリーが謝罪に来た。馬鹿でずうずうしく、しかし素直で純粋で憎めない。魅了薬を自白したのも好感を持てた。
そうしてマリーが素敵な恋よりもクッキー作りに夢中になったのを聞いて、力を貸してくれたのだ。
マリーは学院でクッキー作りだけではなく、得意の空間魔法を発展させた転移魔法の開発に成功した。これにより男爵家の商売はさらなる飛躍を遂げ、マリー自身も男爵位を賜ることになった。領地はない、一代限りの男爵家だ。
むしろ男爵になったことで税金がぐんと上がったので、店をやるしかなかったともいえる。
マリーはクッキーを焼く。
マリーのクッキーといえば今では人気店だ。転移魔法の関係で店は不定期。売り切れご免で開店すれば行列ができるほどである。
まだ若いとはいえ二足の草鞋は大変だ。疲れてなんにもしたくない日だってある。
そんな時、マリーは魅了薬入りのクッキーを焼くのだ。
自分で自分の魅了薬を摂取したらどうなるのか。継続したらどうなるのか。
その答えがここにあった。
はじめてクッキーを完成させた時の感動を思い出す。
あれは本当に美味しかった。我に返れば他のクッキーのほうがはるかに美味しいのだが、マリーには世界一美味しいとすら思えたのだ。できたての香り、ぬくもり。心地よい疲労と達成感。完成したクッキーは輝いてすら見えたものだった。
そう、それはまるで初恋のように。今も感動は胸に鳴り響いている。初恋は実り、愛にまで育っていったのだ。
疲れた時、くじけそうな時。
マリーは魅了薬入りのクッキーを焼いて食べる。
「うーん、美味しい! よっし、明日も頑張りますか!」
あの頃の情熱をもう一度、味わうために。
補足。
魅了薬入りのクッキーは薬事法にひっかかるので販売できません。あくまで個人で使用するだけ。
空間魔法は実は高度な魔法。鞄の中を拡大して物を入れて鞄を縮小して荷物を少なくできる。大量に運べるので商家には大変重宝される。ただし重さは軽減されない。
転移魔法は理論上は可能、とされていた幻の魔法。これなら重たくても一気に長距離の移動が可能になる。学院とヴィヴィアンの家のキッチンまで移動大変~!となったマリーが頑張った。やればできる子。
難しい魔法なのでクッキー店の傍らマリーは講師などやってる。二足の草鞋。