ヒューマンサイド(1)
2×52年6月 帷子家
隣の家の屋根の上に顔を覗かせた朝日から差し込む光が明るい部屋の中で、帷子伸は大学に行く支度をしている。ドアをノックする音がする。伸が反応しない内にドアが開き、男が一人、黙ったまま部屋に入って来る。男は長身で、髪には所々白髪が混じっている。スーツで固めた姿は、自宅の中には不釣り合いだ。しかも、スーツの生地は合成皮革で出来ていて、左胸には大きな丸いマークがプリントされている。合成皮革も胸のマークも、AIロボット共通の特徴であり、生身の人間との識別を容易するための措置で、趣味の悪い胸のマークは製造メーカーの社章だ。
「伸、出かける前にちゃんと朝食を食べて行ってください。」
部屋に入ったロボットは、一直線に伸に近付いて話し掛ける。伸は男が入って来るのを予め承知していたかのように一瞥もせず、鏡の中の自分と向き合う事に集中している。前髪のカールの向きが思い通りにいかないのか、何度も同じ仕草を繰り返す。僅かな向きの違いがひどく気に入らないらしい。
「いいよ、要らない。食べたくない。」
伸は鏡に向いたまま、抑揚の無い声で答える。
「せっかく、お母様が支度したのだから、少しくらい食べて行くのがマナーですよ。」
ロボットも抑揚の無い声で言い返す。伸はあからさまに嫌な表情を見せて、ロボットを横目で睨む。
「昨日、遅くまで友達と飲んでたから、腹減ってないよ。朝から講義だから、直ぐに出なきゃならないし。」
「昨日遅かったのは判っています。昨日の夕飯も食べませんでしたね。体に良くないという話はやめておきましょう。では、お母様には私からその旨伝えておきます。」
伸の傍らに立ったまま、一気に早口で喋る。伸は、髪をいじるのをやめると、ロボットと向き合った。
「いいよ、自分で言うから。それよりもマイク、映像を記録して父さんに送るのか? …それとも、リアルタイムでマイクの瞳の向こうには父さんが居るのか?」
マイクと呼んだロボットの顔に自分の顔を近付けると、瞳に向かって語気を強める。
「お父様は勤務中です。いちいち画像を送りませんが、お父様から要求があれば別です。」
3センチ先の、伸の顔を見つめたまま答える。伸は溜息混じりに全身の力が抜くと、椅子の上に置いてあったカーキ色のバックパックを掴んでドアに向かう。
「帰りの時間が遅くなるのなら、お母様にそれも告げて行ってください。昨日、言いましたよね。夕飯の支度で困ります。」
マイクはドアを開けた伸の背中に声を掛ける。伸は、ドアを開けた姿勢のまま、徐に首だけ回してマイクを見る。
「なあ、その『お母様』『お父様』って言うのは、いい加減やめられないか?なんだか、むしずが走る。」
「そうですか…、では、どう言えば良いでしょう。」マイクはしきりに首を左右に傾ける。「『理恵さん』『孝一さん』でしょうか。何かよそよそしくないですか?」
「お前、『お母様』『お父様』は親しみがあるって思ってるのか?名前で呼ぶのに抵抗がないなら、その方がずっとましだ。」
伸は言い捨てるとドアが閉める。階段を足早に降りる音が部屋に残されたマイクの耳にも聞こえる。
「…呼び捨てなら親しみがあるでしょうか。」
一人呟きながら、脱ぎ捨てられたパジャマをベッドから取り上げた。
伸がリビングに入って来た時、妹の綾子はダイニングテーブルで食パンにスクランブルエッグを載せているところだった。高校の制服を着込み、髪をポニーテールに束ねている。
「母さん、朝飯要らない。」
ダイニングテーブルの傍まで来て、キッチンにいる母の理恵目掛け、伸が早口に告げる。
「おや。せめて牛乳でも飲んで行ったら?」
キッチンからひょいと顔だけ覗かせて理恵が言う。
「いや、いい。なんか食欲がない。」
自分の腹を撫でながら顔をしかめる。
「また、飲み過ぎ。大学生が何やってるんだか。」
食パンを二つに折りながら、綾子が口を挟む。
「高校生は黙ってろ。」低い声ですかさず綾子に釘を刺すと、今度はキッチンに向って話す。「午前中に講義があるからもう行くね。今日は夕飯前に帰るから。」母に話す声はトーンが違う。
「了解。行ってらっしゃい。」
すたすたと歩いて伸が出ていく。玄関のドアが閉まる音がした後、リビングのドアから、今度はマイクが入って来る。
「ねえ、マイク、父さんに夏休みにそっちに遊びに行って良いか、聞いてくれた?」
綾子はパンを頬張りながら話すから、言葉が聞き取り難い。家を出る時間まで余裕があるのか、のんびり咀嚼し、両足をブラブラさせている。
SNSやメールをやらない父の孝一とは、それらに慣れ切った綾子からすれば、やり取りが面倒だ。その上、年頃の娘と父親となれば、コミュニケーションなど無いに等しい。勢いやり取りはマイク頼りになる。
「私が綾子に言われたのは、昨日の午後だったので、まだ、訊けていません。」
事務的に事実だけをマイクは告げる。
「綾子、また父さんに何かお願いしたの?」
会話を聞きつけて、キッチンから理恵が声を上げる。
「良いじゃん。沙也とアッコと3人でアメリカのディズニーに行きたいの。父さんの所なら知らないところに泊まるよりも安心でしょ。」
「そう言う事じゃありませんよ。誰がお金を出すんですか?」
「ちゃんと宿題するし、家の手伝いだってするよ。小遣い貯めているから、資金の足しにしても良いよ。」
声を張り上げてキッチンに向かって主張する。
「勉強や手伝いは当たり前。アメリカ行って来るのに、いくらかかると思っているの。第一、沙也ちゃんとアッコちゃんのご両親は了解しているの?」
「大丈夫だよ、もう子供じゃないんだから。」
「いいえ、子供です。」
「ねえ、マイクも何か言ってよ。父さん、反対しないでしょ?」
綾子は足をばたつかせながら、今度はマイクに救いを求める。
「お父様…孝一さんの意見はまだこれからです。後で聞いておきましょう。」
「よろしくね。『父さんに会いに行くからね』って言っておいて。」
「何言ってるんですか、ついでに顔を見るだけでしょ。マイク、『簡単にOKしちゃ駄目よ』って父さんに言っておいて。『甘やかさないで』って。」
皿洗いをしながら理恵が叫ぶ。彼女は最近小さい物が見にくくなって、スマートフォンを操作するのに苦労する。ついつい、孝一との連絡はマイクに頼る事が多くなった。
綾子は顔をくしゃくしゃにすると、キッチンに向かって舌を出す。直ぐにすまし顔に戻り、一口分残っていたパンを頬張る。そんな彼女の豹変の一部始終を見ていたのはマイクだけだ。彼は眉一つ動かさず、綾子が食べ終わった皿を持つと、キッチン運んだ。
同日 大栄大学
経済学部棟のロビーには、講義のために登校してきた学生が屯していた。ロビーの広い空間には、そこここにテーブルと椅子が置かれて、講義が始まる迄の間、仲の良い者同士がひと塊になって、残りの仲間が登校して来るのを待っている。
「伸、レポート進んだか?」
ロビーに入って来た帷子伸の姿を見つけて、片隅のテーブルを囲んで座っていた学生の中から声が掛かる。伸は人の群れの中から声の主を探し出すと、そのテーブルに向かって近付いて行く。
「まだまだだ。」
テーブルの前まで来て、伸は首を横に振って答える。
そこには、4人の男女がテーブルを囲んで座っている。伸に声をかけたのは、颯田健治。水色のポロシャツにアースカラーのスラックスをはいた男だ。短髪を茶色に染めて緩やかにウェーブするようにパーマをかけている。
「テーマは決まったんだけど、なかなか何を書いたら良いか思いつかなくて。」
近くに空いた椅子は無い。伸は傍らに立ったまま、バックパックをテーブルの上に投げ出しながら言い訳する。ついでに、いかにも辛そうな表情を作ってみせる。
「テーマが決まっているだけ、まだマシだ。」
テーブルを囲むもう一人の男が呟く。太めの体を緑のTシャツで包み、その上からジーンズのジャケットを羽織っている。
「宗太郎はまだ決めてないのか。」
伸は少し嬉しそうにジーンズジャケットの男、加藤宗太郎に訊き返す。
「ま、もう少し考える。」
宗太郎は伸を見ようともせずに澄ました顔でいる。
「シェル、今日は一人?」
伸は宗太郎の答えに興味が無いのか、直ぐに女性の一人に話しかける。
『シェル』と話し掛けられた女性は、ストレートの輝く黒髪を肩まで伸ばし、先端を内側にカールさせている。淡い水色地にプリント柄のワンピースは派手ではないが、細身の長身と端正な顔だちは、嫌でも彼女を目立たせる。本名はヤン・シェリル。日本人にはシェリルの発音は難しく、仲間の誰もが『シェル』と呼ぶ。
「うん。アリシアは家で留守番。」
シェリルは伸を見上げて答える。アリシアとはいつもシェリルが連れているAIロボットの名だ。
「なんだか、元気がないじゃない?『サラ』が心配?」
伸はシェリルの顔を見つめて微笑む。伸はよく考えもせず、AIロボットの総称として『サラ』という言葉を口にした。途端、シェリルの表情が一気に曇る。
「アリシアはアリシアよ。私、『サラ』なんて言い方は嫌い。」
強い口調で言い放つ。彼女の急な変化に、伸は驚きの余り言葉が出ない。
「何?なんで『サラ』だと駄目なの?」颯田健治が代わりに尋ねる。「そんなに悪い呼び方かな。」
「嫌な呼び方よ。『サラ』って『サラマンディア』の略でしょ?差別した呼び方じゃない。」
聞いた健治に食って掛かる。
「確かに『サラマンディア』の略だけど、それに差別の意味なんかあるのかな。『サラマンディア』って最初に普及した人型ロボットの愛称でしょ?むしろ親しみを持った表現じゃないのかな。」
健治は、彼に不釣り合いなくらい真面目な顔だ。
「そう、『サラマンディア』は30年前に発売されたドルトヴィッヒ社の人型ロボットの名称だよ。」宗太郎が得意気に口を挟む。「世界中で愛用されたから、人型ロボットの代名詞として定着したんだ。」
「さすが宗太郎だな。…AIロボットの事なら何でも詳しい。」
宗太郎の話を聞きながら伸が呟く。
「まだ、表情や意思決定は不十分だったけどね。画期的な存在だったんだ。だから、世代が変わっていっても、名称だけが残った。『サラ』は、単にAIロボットを総称しているってだけじゃないかな。」
宗太郎は、そう締めくくるとシェリルを見て、その反応を窺う。皆がシェリルの反応に注目している。
「違う。みんなは、AIロボットを纏めて呼ぶときにそう言うんでしょ。それって、裏返せば『人間じゃない』って意味じゃない。」
シェリルの声は小さいけれど、言葉に力を込もっている。
「…シェル。」
それまで黙っていた、もう一人の女性、柳田ことりが不安気に呟く。ライトブラウンのショートの髪をソバージュにしている。頬にうっすらそばかすが見える。
「うん、まあ、AIロボットを指す言葉だから、人間じゃないわけだけど、そんなに意味を意識しているかな。」
健治もシェリルの勢いに押され気味だ。
「アリシアと一緒にいると感じるの。みんなも家のロボットと出掛けた時に感じたことない?」
シェリルは仲間たちを見回す。誰もピンと来た顔をしていない。
「家のロボットと出歩かないからなぁ。」
伸が気不味そうに言葉を漏らす。
「ごめん、個人用のロボットを持っていない俺達には解らないかも知れない。」
健治がはっきり答える。
「待ってて、俺も自分用のロボットを買うつもりだから。そうしたら、シェルと話が合うようになるよ。」
宗太郎が笑顔を見せる。
「もう、講義の時間だよ。教室に行こ。」
ことりがスマートフォンを見て皆に話し掛ける。
伸はテーブルの上のバックパックを持ち上げ、健治も足元のバックを持って立ち上がる。
「シェル、行こ。」
ことりが立ち上がりながらシェリルを誘う。
シェリルは不満を表情に残しながらも、黙って立ち上がる。
同日 大栄大学近郊
午後の輪講が中止になり、颯田健治と帷子伸は、梅雨の始めを感じさせる肌にまとわり付く様な空気を払いながら暇を潰すために、行きつけのファミリーレストランまで幹線道路沿いの歩道を並んで歩いていた。講義ではヤン・シェリルや柳田ことりと一緒だったが、終わるなり二人はショッピングに都心へと行ってしまった。結局、シェリルと他の仲間との間の、何か挟まったような感覚は午前中からずっと解消されないままになっていた。
「シェルは何で、あんなにロボットの呼び方に拘ったのかな。」
伸は自分の足元を見つめたまま呟く。
「ん?何の話?」
「ほら、朝、彼女のAIロボットの…」
「ああ、アリシアのこと。」
「そう、アリシアの事を『サラ』って言ったら、凄い怒ってただろ。」
「まあ、怒るって言うか、訴えていたって言うか。むしろ、裕福なシェルは個人用の『サラ』を持っていて、僕らとは違うなんて話しちゃったのは不味かったな。彼女を刺激しちゃったよね。」
気不味そうな顔をして、健治は伸の方を見る。
「『サラ』は『サラマンディア』の略だからとも言ってたよね。『サラマンディア』ってなんだ?なんか悪い意味があるのかな。」伸は健治の話を無視して話し続ける。「もしそうなら、悪い事したな。知らなかったとは言え、傷付けたのは事実だし。いつもアリシアと一緒にいるのを知っていたのに、そんなにシェルがアリシアに思い入れがあったなんて考えなかったよ。健治は知ってた?」
伸はずっと下を向いて歩いている。
「伸、シェルが好きなんだ。」
伸の様子を見て、健治は真面目な顔になる。
「いやいや、そう言う訳じゃないよ。」健治の言葉に伸は驚くと、健治を見て慌てて捲し立てる。「ほら、相手が誰だって、嫌な思いをさせたらいけないだろ。その上、シェルは怒ったら手が付けられないし…、いや、今のは間違い。もし、嫌な思いをさせたのなら、謝るのは当たり前じゃないか。」
「お前、そんなに気を遣う奴だっけ。」
健児は薄笑いを浮かべる。
ファミリーレストランに着こうという所まで来て、誰かが二人の後ろからぶつかって来る。予期せぬ出来事に一瞬面食らいはしたが、それが加藤宗太郎であることを確認すると、二人の表情はあからさまに落胆に変わる。
「ここ、入るのか。僕も混ぜてくれよ。」
宗太郎は無邪気に笑顔を見せる。
「今日は、バイト行かないのかい?」
健治は面倒臭そうだ。
「いつも、宗太郎は授業が終わったら、バイトに行くじゃないか。」
伸も同調する。
「今日は、急に無くなったんだ。ほら、入ろうぜ。」
ファミリーレストランの入り口を指差す宗太郎だけが楽しそうだ。
ウエイトレスをしているAIロボットにボックス席へ案内された3人は、ドリンクバーを注文すると思い思いに好きな飲み物を持ち寄りくつろぐ。
「宗太郎はいつも『バイト、バイト』って言ってるけど、そんなに稼いでどうするんだよ。親から仕送りが無い訳じゃないんだろ。」
加藤宗太郎は地方から出て来て、大学の近くに下宿している。宗太郎にはどこか垢抜けない雰囲気が漂う。自分の外見は気にせず、つまり自分を相手がどう見ているか気にしておらず、それは、自分が話したい事だけを話す態度に通じる。伸は気持ちの中で宗太郎を見下している。逆に健治には都会っ子のスマートな感じが有る。伸には眩しくて、一緒にいると、自分も少しは輝ける気がして来る。
「だから朝、話したろ。俺はAIロボットを買うのさ。」
宗太郎は自分のバイトの目的を嬉しそうに話す。
「うへぇ、お前本当に買うつもりなのか。」健治は呆れて大声を出す。「幾らするんだよ。」
「今は4百万円台から買えるよ。でも、カスタム仕様を盛り込むと、6百万円位かな。高級品は1千万円を超えるよ。」
ロボットの事を話す時の宗太郎の目は輝いている。健治は顔を仰け反らせた。
「そんな金が出来たら、他の事に使えよ。誰か女の子誘って、海外旅行に行くとかさ。高級ホテルで食事するとかさ。もっと自分のためになる事があるだろ。」
「そんな事に興味ない。」宗太郎は掌を横に振る。「それは無駄遣いだよ。自分に何も残らないじゃないか。もっと自分の生活を豊かにすることに使うんだよ。」
「お前と俺じゃあ、豊かさの意味が違うんだな。」
健治は宗太郎に言い聞かせるのが無駄だと悟った様だ。
「なあ、『サラ』って言い方は、何か悪い意味を持つのかな。」
会話の切れ目を狙って、伸が宗太郎に問い掛ける。
「いや、別に悪い言い方じゃないと思うよ。『サラマンディア』という言い方も、それを略した『サラ』って言い方も単にAIロボットの総称として使っているに過ぎないよ。…ほら、『ホチキス』ってあるだろ。紙を纏めて止める奴。あれは、本来『ステープラー』って言う名称なんだけど、日本で最初に売り出した会社の名前が代名詞として広がって、そう呼ばれるようになったんだ。『サラマンディア』も人型の初期AIロボットの内、一番普及したのがドルトヴィッヒ社のロボットで、その愛称が『サラマンディア』だったからさ。」
「じゃあ、何であんなにシェルは怒ったんだと思う?ロボットを区別するのは言い方の問題じゃないだろ。」
「ああ、朝の話をしているんだね。…さあ、それは僕には判らないなぁ。でも、『なんとかは、なんとかだ』って言ってたろ。」
「『アリシア』って言いたいのか?」
健治が口をはさむ。
「ああ、そう言ってたかな。それってシェルがいつも連れているロボットの名前だろ。何処にでも居る、替えの利く存在じゃなくて、自分にとって特別な存在なんだって言いたかったんじゃないかな。…僕も早く、そんなロボットが欲しいよ。ロボットの名前は何が良いと思う?可愛らしい名前が良いよな。」
「自分で考えろ。」
健治は、眼が死んでいる。
「特別な存在か。それだけ、愛着を持っているってことだね。」
伸は一人、真面目な顔で考え込む。
「今のは宗太郎の意見だ。ちゃんと理解したければ、直接本人に訊いてみる事だな。」
健治は飲み物のおかわりを取りに席を立つ。
「伸、君は帷子教授の息子だろ。」健治が遠ざかって行くのを待って、宗太郎は声の大きさを抑えて話す。「お父さんからロボットの話は教えてもらわなかったのかい?」
「別に、家でロボットの話なんかしなかったよ。」
伸は不機嫌そうに言い捨てた。
同日 ヤン邸
夕方にシェリルは自宅に帰って来た。タワーマンションの最上階がヤン家の居住空間だ。此処で母と弟の3人で暮らしている。父親は貿易商を営み、シンガポールを拠点にしている。エレベーターを降りると、その前にある一坪程の空間の向こうにドアがあり、そこから先は階全体をヤン家が使用している。指紋認証で解錠すると、ドアを開けて玄関に入った。
「お帰りなさい。」
金髪の長い髪をした長身白人顔のAIロボットが待ち構えていて、声をかける。アリシアだ。
「ただいま。」3畳ほどの広さの玄関で靴を脱ぎながら、シェリルが答える。「ごめんね、今日は留守番させちゃって。明日は一緒に行きましょ。」
スリッパに履き替えてシェリルはアリシアに向き合うと、彼女の目を見て言う。
「いいえ。気にしないで。さっきまでシェリルの部屋を片付けてた。後で感想を教えてください。」
「ありがとう。却って助かっちゃったわね。部屋が散らかってきたら、お留守番してもらうのがいいかな。」
廊下をリビングに向かいながら、シェリルが悪戯な眼をする。
「良いですよ。整理するのは得意だから。」
アリシアは真面目に答えながらシェリルの後を付いて行く。
リビングは40畳の広さがあり、玄関から続く廊下から入った反対側は一面ガラス張りになっている。ガラスを通して、港を囲む高層ビル群とその先に広がる青い海が遠望できる。リビングに入った右手には大きなアイランドキッチンが据え付けられている。反対の左手には大きな液晶テレビが白い壁を背に置かれている。部屋の中央には5mの長さがある南洋材のテーブルとL字型に置かれた白い革のソファがある。
シェリルはリビングに入ったところで立ち止まり、バッグの中を探ってスマートフォンを取り出した。
「何か来た?」
アリシアは遠慮なしに画面を覗き込む。
「帷子君からだ。」
シェリルが呟く。
《今日は何か嫌な気分にさせてしまったようで御免。そのことで少し話がしたい。明日、話す時間がないかな。》
SNSには帷子伸からの文が表示されている。
「何かあったの?」
アリシアがスマートフォンを見ているシェリルの表情を窺う。
「大した事じゃない。どうでもいいのに。」
シェリルは、画面を操作して返事を書き込む。
《二限目が無いから、その時間なら大丈夫。》
「私、その時、居ない方がいい?」
アリシアがソファに座りながら訊く。
「別に大丈夫だよ。一緒に居て。」
スマートフォンをしまうと、シェリルもソファに身を投げ出した。
「シェリル、帰ったの?」
書斎から母親の声がする。
「うん。何だかもう、ムシムシしてへこんだ。」
大きな四角いLEDパネルが嵌め込まれた天井を見上げながら、シェリルは大声で返事をした。
同日 再び帷子家
《大学のカフェテリアで11時に。》
帷子伸は送信すると、スマートフォンをズボンのポケットにしまう。日が長いこの時期、6時はまだ十分に明るい。伸は一度深呼吸をしてから、自宅の玄関ドアを開けた。
「ただいま。」
玄関で靴を脱ぎながら、おそらくリビングに居るだろう家族に声をかける。
「伸、ちょっとこっち来て。」
リビングから母親、理恵の声がする。
玄関から直接階段を上って自室に籠ろうとしていた伸は階段に掛けた足を下ろし、一つため息をつくと、リビングへと向かった。
「あんた、夏休みいつからなの?」
伸がリビングに入るなり、間髪を入れずに理恵が声を掛ける。キッチンで夕飯の支度をしている。ダイニングテーブルの椅子には妹の綾子が座っている。高校から帰って来て、私服に着替えたらしい。不機嫌そうな顔で伸と目を合わせずに自分の手元を見ている。テーブルの上で何かをいじっているようだ。テーブルを挟んだ反対側にはマイクが、これも伸の方は見ずに真っすぐに前を見て座っている。
「何、なんで急にそんな事聞くんだ。」
伸は警戒する。
「綾子が夏休みに父さんの所に行くんだけど、あんた、付いて行ってあげて。」
「はぁ~?なんで俺が行かなきゃならないんだ。」
即座に伸は不満を漏らす。
「良いじゃない。大学は夏休み長いんでしょ。少しくらい妹の為に協力してあげなさい。」
「私、兄ちゃんに来て欲しいなんて言ってないからね!」
それまで黙っていた綾子が伸に訴える。
「じゃあ、良いじゃない。綾子はもう高校生なんだから、アメリカくらい、1人で行けるよ。向こうには父さんが居るんだし。」
「1人じゃないもん。沙也達と3人だもん。」
綾子のふくれっ面が大きくなる。
「駄目よ。ロサンゼルスの空港からどうやって行けばいいか、タクシー使うにしても、綾子達だけじゃ困っちゃうでしょ。第一、父さんは仕事で、綾子達の相手はして居られません。」
母はきっぱりと宣告する。
「それで、俺が犠牲になるのかよ。父さんは綾子の父親だろ。少しは娘の為に動いたらどうなんだよ。」
「あんた、夏休みでどうせ遊んでるんでしょ。父さんは仕事です。たまにはあんたも、父さんの顔見て来なさい。」
『父さん』と聞いて、伸が顔をしかめる。
「母さんはよ。俺と綾子が居ないなら、母さんだってやる事無いだろ。むしろ、母さんと綾子で行って来たら。」
「馬鹿ね。母さんはNPOの活動があるでしょ。家を空けられないの。父さんからマイクに入って来るお願いの対応もしなきゃならないからね。」
何故か、母は楽しそうだ。
「だから、兄ちゃんは来なくて良い。私達だけで行けるってば。」
綾子が今度は母親に訴える。
「伸、綾子達とアメリカに行ってあげて下さい。おとう…孝一さんが、伸が同行することを条件に許可すると言っています。」
マイクは立ち上がって伸に向き直り、頭を下げる。伸の顔がみるみる赤くなっていく。
「結局、父さんの遠隔操作かよ。何でも命令すれば良いと思ってるのか!」
伸はマイクに向かって叫ぶ。綾子は言葉を無くし、ただ眼を丸くして兄を見つめるだけだ。怒鳴り声に反応して、理恵がキッチンから飛び出して来る。
「此処に座って、伸。」
素早い行動とは対照的に静かな声だ。伸を真っ直ぐに見て、テーブルの空いている椅子を指差す。
「何で…。」
自分の発言で場の空気が変わってしまった事に戸惑い、伸の頬が引きつっている。
「良いから、ここに座りな。」
理恵は指差した椅子の正面の空いている椅子に先に座る。座っても伸を真っ直ぐ見上げている。伸は用心深くテーブルに近付くと、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。まだ、顔は上気している。
「あんた、父さんに何年会っていない?」
伸の顔を見つめて話す理恵の声は、更に穏やかさを増している。
「何だよ、それ。」
「良いから。どのくらい経ったかなって思ったの。どのくらい会ってない?」
伸はため息をついて、壁を見る。
「多分、最後に会ったのは高二の時だ。シンポジウムで日本に帰って来た時だった。」
「そうか。じゃあ、3年?4年目かな。」
理恵の声は穏やかだ。
「大体そんなもんだ。」
「一緒に日本で住んでいた時を覚えてる?」
「いつの話だ。物心ついた時には、もう単身赴任してたよ。」
「伸が5つの時だったよ。プロジェクトチームに参加する為に渡米してからずっとだから。」
「何となく、覚えているよ。空港まで送って行った時の事を覚えている。」
「綾子は、まだ私にだっこされてた。何か憶えてる?」
理恵は視線を綾子に向ける。綾子は黙ったまま、首を横に振る。
「そんな程度なんだよ。伸も、綾子も。」理恵は、伸と綾子を交互に見ながら話し続ける。「普通の家族に比べたら、圧倒的にお父さんとの時間が足らないんだ。父さんと私が別れた訳でも、死んでしまった訳でもないのにね。遠くに居て、意志だけ伝えて来る。顔を合わせて互いの存在を確認出来たら伝わることも、文字のやり取りだけじゃ伝わらないんだ。」
綾子は居辛そうにしている。伸も壁を見たまま、母親を見る事が出来ないでいる。
「…行ってきな。少しは顔を合わせて話した方が良い。」
「母さん、朝と言う事が違う。」
綾子がまだ不満気な顔をしている。
「母さんはよ。母さんは会わなくて良いのかよ。母さんだってずっと会って無いじゃないか。」
伸もまだむくれた顔で言う。
「私は、大人になってから長い間一緒にいたから、離れていても大丈夫。綾子は、友達と行くのも良いけど、ちゃんと父さんとも顔合わせて話して来ること。食事の一回くらい、一緒してあげなさい。」
理恵は微笑んだ。兄妹は母を見ていない。
しばらく間が空いた。
「ちょっと考えさせてくれ。綾子が友達連れて行くなら、俺も友人と一緒でも良いか。」
「そうだね、仕方ないか。」
母の声は明るい。
「判った。ちょっと考える。」
伸は立ち上がると、もう一度ため息をついた。
「早く返事を頂戴ね。」
理恵も立ち上がってキッチンに戻っていく。伸はリビングに2人と1体を残して廊下に出た。
「今日は、何だか酷い日だ。」
階段を上がりながら、思わず独り言が口をついた。
翌朝 ヤン・シェリル通学路
ヤン家のタワーマンションから大学へは、電車で15分かかる。更に丘の上にあるタワーマンションから最寄り駅まで歩いて10分だ。1限目の開始時間に間に合わせるには、まだ通勤する会社員が行き交う時間に出掛けなければならない。
その日、シェリルはアリシアとともに家を出た。梅雨が近いためか、空は雲が覆い尽くし、見慣れた街並みは陰鬱な雰囲気の中に沈んで見える。いつ雨が降っても良いように、折り畳み傘をバックに入れた。アリシアは生活防水仕様だが、アリシアにも傘を持たせた。談笑しながら駅まで歩く。街に人通りは多く、アリシア以外のAIロボットも沢山歩いている。こんな中では、黒髪の若い女性と金髪白人系のAIロボットが並んで歩いていても、気にする者はいない。誰もが自分のスケジュールに縛られて機械的に行動している。
駅の改札を、モバイルをかざして通過する。シェリルに続いてアリシアも通過する。一人分の料金を支払えば、AIロボットも公共交通機関の利用を認められている。けれど、改札の内側は外側と状況が一変する。構内を歩いているのは人間ばかりだ。行き交う人達は無言のまま、アリシアに視線を投げて過ぎて行く。鉄道で働くAIロボットは例外として、利用者として歩いているAIロボットはアリシアしか見当たらない。AIロボットに料金を払ってまで電車に乗せる人は少ない。ましてラッシュ時間は避ける。
「アリシア。」
シェリルは後ろに付いて歩くアリシアを振り返って、手を繋ぐ。殺気すら感じる人の群れの中で、アリシアに微笑んでみせる。アリシアの表情は硬い。決してAIロボットだから表情が無い訳ではない。二人は手を繋いで並んで歩く。忙しい人の流れよりもゆっくりと、ホームへの通路を雑談しながら進む。
「先週行ったスクエアガーデンに新しいスウィーツ店ができたの。ワッフルに生クリームがてんこ盛り…」
シェリルは明るく話す。勿論、スウィーツをアリシアが食べられない事は分かっている。
すれ違い様に男性がアリシアにぶつかって行く。アリシアは少し身を斜めにしてやり過ごす。シェリルの表情が険しくなる。
「大丈夫?」
シェリルがアリシアの顔を覗く。アリシアが軽く微笑む。
ホームにつながる階段に差し掛かると、大きな人の塊りが幅いっぱいに広がり、勢いよく下って来る。恐らく電車がホームに着いたのだろう。階段の隅をシェリルとアリシアは一列に並んで進む。それでもシェリルはアリシアの手を離さない。ホームに出ると、人の群れを降ろした電車は既に発車した後だ。それでもさして広くないホームは、反対側の電車の到着を待つ客で混んでいる。シェリルとアリシアも列の後ろに並んだ。
電車は程なく到着した。ドアが開くと人の群れが降りて来る。アリシアのようなAIロボットの姿はない。人だけの群れだ。時折、すれ違い様にアリシアに視線を送る人がいる、シェリルもそれに気付いているに違いない。
待っていた順に電車に乗り込む。次々と乗り込む人で見る間に車内は満員になった。シェリルとアリシアは最後尾近くに並んでいたため、既に混みあっている車内に押し込む形になる。否が上にも金髪長身のアリシアは目立つ。
「おい、何でこんな混み合う時間に『サラ』を乗せるんだ。どうせ疲れ知らずなんだから、歩かせろよ。」
誰か判らない。小さな声だが、わざと周囲に聞こえる様に言っている。誰もそれに反応しない。それは否定なのか、肯定なのか。アリシアがシェリルを見る。大きな瞳でじっとシェリルだけを見ている。第3世代のAIロボットは喜怒哀楽を表現できる。シェリルもアリシアを見つめ返し、強くアリシアの腕を掴んだ。




