全てが崩壊した日
――およそ七年前。
僕は十歳、妹の緋衣は六歳の頃。
今とは違い、両親の二人とも一緒に暮らしていた。
普通の家だけど、決して普通とは言えない家庭に。
§
「おにーちゃん、これあげるー」
それは、僕の誕生日の日だった。
まだ幼い緋衣が、動物や小物入れなど様々なものを象った折り紙を見せてくれた。
誕生日だから、プレゼントとして僕のために一生懸命折ってくれたのだろう。
決して、上手とは言えない。
だけど、そんなことは関係なかった。
僕のことを想いながら折ってくれたという気持ちが、ひしひしと伝わってきたから。
「……ありがとう、緋衣。嬉しいよ」
「えへへー」
僕が全ての折り紙を受け取ると、緋衣は照れ臭そうにはにかんだ。
これは、妹から貰った大事な宝物だ。
後で、部屋に飾っておこう。
「あら。よかったわねぇ、紫苑。最高のプレゼントじゃない」
そう微笑みかけてくれたのは、三十代半ばとは思えないほど若々しい肌をした美人な女性。
――漣楓。
僕と緋衣の、実の母親だった。
「お母さんからのプレゼントは、もうすぐできるわ。楽しみに待っててね」
「うんっ! ありがとう、お母さん」
お母さんは僕たちに背を向け、台所で生クリームを混ぜている。
そう。料理がとても上手いお母さんは、今ケーキを作っている途中なのだ。
もちろん、お母さんが作るものがまずいわけもないから、美味しいことが確定しているケーキを食べるのも、物凄く楽しみではあったが。
それ以上に、妹やお母さんと一緒に食卓を囲み、自分の誕生日を祝ってもらえるということが、言葉では言い表せられないくらい嬉しかった。
このときの僕は、間違いなく幸せだった。
優しい母親に、僕を慕ってくれる妹。
そんな二人に囲まれて、世界一の幸せ者だと思っていた。
そのすぐ後に、玄関の扉が開く音が聞こえるまでは。
「……ん? 何してんだ、こりゃ」
リビングへと姿を現した、無精髭を生やした中年の男性が、お母さんのいる台所を見て首を傾げる。
――漣水仙。
僕たちの、実の父親だ。
右手にはスーパーの買い物袋を提げており、その中には大量の缶ビールやワインが見える。
そして、既に父さんからは酒の不快な匂いが漂ってきていた。
「何って……決まってるじゃない。今日は紫苑の誕生日なのよ?」
「けっ、そうかい」
興味なさそうに漏らした父さんはリビングの椅子に座り、買い物袋からワインを取り出して飲みだした。
この父親は、実に酒癖が悪い。
暴言や暴力なんて当然とも言えるほど、最低の男だ。
それが分かっていたから、今日は特に帰ってきてほしくなかった。
こんな大事な日に、この男の存在を家の中に入れたくなかった。
今日だけは、忘れていたかった。
「ちょっと、そんなとこに陣取ってお酒飲まないでくれる?」
「あ? うるせえ、俺の勝手だろうが」
次々と酒を口内に注ぎ込み、みるみる顔が赤くなっていく。
完全に、もう酔っ払ってしまっていた。
「水仙――」
「うるせえっつってんだろうがッ!」
勢いよく立ち上がったことで、椅子が後ろに倒れて大きな物音を立てる。
そしてお母さんの近くにまで歩み寄り、背の高いお父さんはお母さんを見下ろすようにして睨みつけた。
「酒くらい静かに飲ませろ。そうでなくても、お前やガキどもがいてうるせえんだ。誕生日なんか知ったことかよ、俺の邪魔をすんじゃねえ」
ガッとお母さんの頬を右手で握り、上を見上げさせる。
もう既に酔っ払ってしまっているのか、情緒が不安定で怒りの沸点が低くなっているのだろう。
更にお父さんは必要以上に顔を近づけ、囁くように言った。
「それとも、俺の酒を邪魔するってことは――お前が、俺の欲求を満たしてくれんのか?」
「……違う。酒を飲んじゃいけないなんて言ってないわ。ただ、ここは今私たちが使ってるの。飲むなら、自分の部屋にしてちょうだい」
「あ? 俺に指図すんじゃねえ。どこで飲もうが俺の勝手だろうが」
お父さんは、お母さんに邪魔をするなと言った。
でも、その言葉はお父さんが言われるべき言葉だ。
僕は分かっている。邪魔をしているのは僕たちではなく、お父さんのほうだということを。
ただ、僕たちの邪魔をしたいがために、こんなことをしているんだってことを。
だけど、僕も緋衣もお母さんも、指摘なんてできるわけもなかった。
僕は怖くて、震えて、声すらまともに出せない。
「ここで酒を飲めねえなら、お前に欲求を満たしてもらうしかねえなぁッ」
不快感のある笑みを滲ませ、叫んだかと思うと。
勢いよく、力強く、お母さんの服をたくし上げた。
お母さんは着やせするタイプで、ゆったりとした服に隠されていた豊満な乳房が姿を現した。
「なっ、何するの! 子供たちもいるのよ!?」
「んなこと、知ったこっちゃねえ。気持ちよく飲んでるところを止めたんだから、せめて体を気持ちよくしてもらわねえと困るなあ」
不快感に満ちた笑みを浮かべ、お母さんの胸を下着の上から力強く揉む。
普段から、暴言を言ったりといったことは何度もあった。
でも、少なくとも僕たちの前では、お母さんを無理矢理脱がしたりなどしたことがない。
今は酒のせいで、理性が抑えられなくなっているのか。
欲望のままに行動して、歯止めが効かなくなっているのか。
やっぱり、酒を飲んでいるときのお父さんは何をするか予想できない。
思考回路が全く理解できない。
まるで、お父さんが見たことのない化物のように見えて、僕はただただ怖くて体の震えを止められずにいた。
だけど。
「――やめてっ!」
不意に、僕のすぐ隣から発せられた甲高い叫び声。
愕然として振り向くと、妹の緋衣が目尻に一滴の涙を溜めて僕の服の袖をぎゅっと握り締めていた。
「もうやめて……それ以上、おかーちゃんをいじめないでよ……っ! おかーちゃんは今、おにーちゃんのケーキを作ってるんだよ……邪魔しないでよ……っ!」
緋衣だって、怖いに違いない。
いや、まだ六歳なのだ。怖くて当然だろう。
でも、勇気を振り絞って叫んだ。お父さんに向かって、自身の想いの丈をぶちまけた。
僕は……僕には、震えていただけで、何もできなかったのに。
「……あ?」
そこで、お父さんの視線は緋衣へと移った。
その目は、決して我が子を見る目ではなくて。
ゴミを見るかのような、軽蔑やら憤怒やらが入り混じった、子供の僕たちには思わず涙を流してしまうほどの怖い眼差しだった。
「何だ? 俺に指図すんのか、クソガキ」
ゆっくり、ゆっくりと歩み寄る。
さっきまで掴んでいたお母さんの胸から手を離し、一歩、また一歩と緋衣のほうへ。
そして僕たちの眼前にまで近づいたかと思うと。
ずっと僕の袖を握っていた緋衣を、横から力の限り蹴った。
「か……っ!」
お父さんの力だと、緋衣の軽い体じゃ簡単に吹っ飛んでしまう。
緋衣は背中から壁に激突し、痛みに顔を顰める。
だが、そんな仕草でさえ、すぐに中断せざるを得なかった。
すぐ目の前にお父さんが立っており、怖い形相で見下ろしていたから。
「お、おとーちゃ……んぐっ」
言葉の途中で、お父さんは緋衣の首を強く握り締める。
当人じゃなくても、見ただけで分かる。
あれは……間違いなく、加減などしていない。
緋衣は苦しそうにお父さんの手を掴むが、全く離そうとせず。
「邪魔なんだよ、このクソガキがッ! ここは俺の城だ、俺が王だ、指図すんじゃねえッ! てめえらガキどもがいなければ、俺ももっと静かに暮らせるかもなあ……ッ!」
そんな意味不明で無茶苦茶で支離滅裂なことを宣いながら。
徐々に徐々に、緋衣の首を絞めている手に力を加えていく。
その都度、緋衣の口から苦しそうな呻き声が漏れて、だんだん声すら出せなくなって。
僕は、そんな緋衣の様子を直視なんてできなかった。
でも、体が動かない。
緋衣を助けたいのに、助けなくちゃいけないのに、僕の体だけが動きを止めてしまっていた。
「やめてっ! 子供には手を出さないでっ!」
お母さんが涙声で叫びながら、後ろからお父さんにしがみつく。
そして何とか緋衣から手を離させようと、お父さんの体を後ろから引っ張る――が。
「うるせえッ! お前も邪魔すんじゃねえ、すっこんでろッ!」
「きゃあっ!?」
緋衣の首を絞めたまま、お母さんを蹴る。
すると偶然近くにあったテーブルの足に頭をぶつけ、お母さんは気を失ってしまった。
誰がどう見ても分かるほど、明らかな家庭崩壊だった。
何で、僕の父親はもっと優しくて穏やかな父親じゃないんだろう。
何で、もっと平和で楽しく家族との時間を楽しめないんだろう。
何で、僕たちがこんな想いをしないといけないんだろう。
そんな自問を繰り返しても、返ってくる自答は『運が悪かった』だけ。
僕は、僕たちは、ツイてない。
もう嫌だ。そんな不可抗力で、僕たちの運命を決められてしまうのは。
「ぐ、うぅ……おにー、ちゃ……か、ぁ」
お父さんに首を絞められながらも、緋衣は僕を呼ぶ。
もうだめだ。このままじゃ、緋衣が殺されてしまう。
もう、嫌なんだ。いくら運が悪いからって、僕たちの時間を、家族を、脅かされるのは。
「や……やめろぉぉぉーっ!」
自分自身を鼓舞するかのように、叫び。
さっきお母さんがしたように、僕も後ろからお父さんにしがみつく。
「チッ……邪魔すんじゃねえっつってんだろうが、クソガキがッ!」
しかし、やはり僕も同じように、台所のほうへ蹴られてしまう。
そうしている間にも、お父さんは緋衣の首を絞め続けている。
心なしか、緋衣の顔が青ざめ、声も出なくなっている気がする。
時間が、もうない。早く助けないと、助けないと、緋衣が……。
そこまで考え、僕はふと近くに転がっているものに気づく。
そうか、さっきお母さんに暴力を働いたときに、台所の上に置いてあったものが落ちてきたのか。
僕は、自分がしようとしていることがどういうことなのかを理解していながら、自分の行動を止めることができずに。
僕は“それ”を手に取り、お父さんに向かって駆け出した。
グサッ――と。
お父さんの脇腹に、僕が手にした包丁が刺さり。
血を流し、包丁と僕の手を赤く汚す。
「な……て、てめえ……何、を、しやがるッ!」
緋衣から手を離し、痛むであろう脇腹を押さえ、今度は僕に襲いかかる。
そして、同じように首を絞めようとしてくる――が。
僕は咄嗟に目を瞑り、包丁を前に突き出した。
一向に、僕の首を絞めようとしてくる様子がない。
しかも、温かい液体のようなものが体にかかっているような感覚さえしてくる。
僕は訝しみ、目を開けた。
僕が持っていた包丁は、お父さんの左胸に突き刺さっており。
口からも傷口からも血を流し、僕の手や顔を赤く染めて。
それから時間をかけて、ゆっくり仰向けに倒れていった。
「あ、あ、あぁ、ぁ……」
僕は自身の赤く染まった手を見て、体が震えるのを感じた。
僕が、お父さんを。
他でもない、この僕が――殺したんだ。
「ああ、あぁ、あ……あああああああああああああッッ!!」
僕は頭を押さえ、声が出る限り叫ぶ。
叫ぶしかなかった。泣くしかできなかった。
僕が、この手で終わらせてしまったのだ。
自分で、自分の手を汚してしまったのだ。
僕は――人を、殺したんだ。




