鮮血のデクテット
「――あたしの血、貰っていいわよ」
ずっと犬が苦手で、自分の精霊であっても近づくことすらできなかったヴェロニカ。
でもそんな自分とはついに別れを告げ、ようやく精霊――クリムに触れることができた。
それは、間違いなく成長と言っていいだろう。
だけど、そのクリムは今は気を失ってしまっている。
もはや、ヴェロニカに戦う術は残されていない。
そう思ったからこそ、ヴェロニカは僕に託すことに決めたのだろう。
自分にできるのは、もうクリムを守ることだけ。
戦闘は僕に任せる、と。
そんなことを考えていそうだ。今のヴェロニカなら。
ただ、血を得た吸血鬼が尋常ではないほどの力を発揮できるのも事実。自分でも驚くくらいに。
だから、ヴェロニカの提案を断る理由など何もない。
今の僕は、痛みで上手く体を動かすことができない。
それをすぐに察してくれたのか、ヴェロニカは両腕でクリムを抱き抱えたまま僕のもとまで駆け寄ってくる。
そして、首筋を僕の顔の前に晒す。
ここを噛め、ってことか。
僕は、小さく礼を述べてから。
その華奢な首筋に、自身の鋭く尖った牙を突き立てた。
途端――ドクン、と心臓が高鳴りを始める。
視界が、染まっていく。
赤く、朱く、緋く、紅く――。
「……ありがとう。ちょっと離れてて」
ヴェロニカにそれだけを言って。
僕は、巨大ゴブリンへ向かって駆け出した。
その間、わずか数秒。
自分でも気づかないくらい、圧倒的な速度を以て巨大ゴブリンの足元に到達した。
巨大ゴブリンは、僕が近づいてきたことに気づき、すぐさま斧を振り下ろす。
だが、遅い。
次の瞬間には、僕は巨大ゴブリンの体を駆け上り、肩の上に辿り着いていた。
……分かる。
遠くでこちらを見ながら避難しているヴェロニカとクリムの姿も、先ほど吸ったヴェロニカの血の味も、ゴブリンの体から滲み出る魔物特有の独特な匂いも、斧を振り下ろすときの音やヴェロニカが少し離れるために走っているときの足音も、ゴブリンの肌に触れたザラザラとした感触も。
何もかもが、鮮明に。
やっぱり、五感は何倍にも跳ね上がっているようだ。
いや、それだけじゃない。
ステータス画面を確認してみれば、攻撃力も守備力も魔法攻撃力も魔法防御力も敏捷度も体力も、運勢以外の全ての数値が十倍近く上がっていた。
しかも、ダンゴムシの魔物との戦闘中に、自分の血を吸ったときよりも。
ヴェロニカの血を吸った今のほうが、遥かに力を出せている気がする。
これは、他人の血だからなのか。
もしくは、ヴェロニカの血が偶然僕に合っていたのか。
まだ分からないが、今はどうでもいいか。
とりあえず、このゴブリンを斃さないと――。
巨大ゴブリンは肩の上にいる僕を手で掴もうとしてくるが、僕は瞬時に回避して地面に着地する。
そして、間髪入れず地を蹴った。
向かう先は、ただひとつ――巨大ゴブリンの腹部。
誰かから説明されたわけではない。
でも、今の僕ならできる気がする。
僕の勘が、第六感が、そう告げていた。
頭の中に、響いてくるのだ。
吸血鬼としての、僕の本能が――。
右手を前に突き出し、ゴブリンの腹部に手のひらを押し当てる。
あとはもう、一瞬だった。
僕の手のひらから血でできた鋭利な刃を放ち、巨大ゴブリンの腹を貫く。
すると悲痛な叫び声をあげ、ゴブリンは後ろに倒れる。
そして、お金だけを残して消え去っていった。
勝った、のか。
僕は忘れないうちにお金を拾っておく。
ステータス画面を再度確認してみると、所持金は2000以上増え、レベルは2つ上がっていた。とはいえ、お金はあとでヴェロニカと半分こずつにするつもりだけど。
ちなみに、他のステータスの数値は全て元に戻っていた。
やはり、血を吸ってから、そのときの戦闘が終わるまでが効果時間らしい。
「あんた……やっぱり、とんでもない力ね」
ふと声をかけられたので後ろを振り向くと、ヴェロニカがクリムを抱き抱えたまま歩み寄ってきていた。
確かに、自分でもそう思う。
ゲームが正式にリリースされていた場合、あまりにも強すぎてすぐに調整されそうだ。
「でも、ありがと。助けてくれて」
「いや、無事でよかったよ。犬にも触れるようになったみたいだし」
「そうね。今まで触れなかった分、これからはいっぱい触ってあげたいくらいだわ。クリムも、よく見れば結構可愛いじゃない」
今まで苦手だった分、平気になったら急に可愛がりだした。
とにかく、これで安心だ。
ヴェロニカは名残惜しそうにしながらも、精霊を帰らせた。
よし、あとは依頼解決の報告を――と思ったところで。
背後から、物音が聞こえてきた。
訝しみ、振り向くと、そこには。
「……あれ? シオンとヴェロニカじゃないデスか。奇遇デスね~」
そう。またもやイベリスと遭遇してしまったのである。
しかも今度は、見知らぬ犬まで一緒に。
まあ、今までならまだしも、犬が平気となったヴェロニカなら大丈――。
「ひぃぃっっ!?」
が、ヴェロニカはイベリスの犬を見た瞬間、僕の背後に隠れてしまう。
おや、どういうことでしょう。
「……平気になったんじゃないの?」
「ややや、やっぱ無理! だって怖いじゃないっ! クリム以外の犬は無理っ!」
と、いうことらしい。
犬全般を克服できたわけではないのが少し残念な気もするけど、まあ精霊のクリムが平気になっただけでも充分だろう。
他の犬は、苦手なら苦手で仕方ない。
「もしかしてヴェロニカ、犬が怖いんデスかぁ?」
「うぐ……っ、わ、悪いっ!?」
「やははー。これは、ヴェロニカの弱点が発覚してしまいマシタ。勝負のときに連れてくれば……やははは」
「ちょっ、あんた、それだけは洒落にならないからやめなさいよっ!?」
卑怯すぎる。さすがにしないとは思うが。
ヴェロニカの最大の弱点は犬だろうけど、イベリスにもきっと何かしらの弱点があるのかな。想像がつかないや。
「イベリスは、ここで何をしてるの? その犬は……」
「やはは。代わりに犬の散歩をしてほしいっていう依頼を受けたんデスよー」
「依頼ってのも、色々あるんだなぁ」
魔物の犬なら最初に遭遇したが、ちゃんとペットとしての犬も存在するのか。
その程度の依頼なら簡単にできそうだし、本当にお金がピンチになってきたら、そういうのを探してやってみよう。
そのときが来るのかどうかは定かじゃないけども。
「じゃあ、また明後日デス。絶対に負けないデスよー」
快活に笑いながら、イベリスは街の中へ戻っていく。
明後日……ヴェロニカとイベリスの勝負当日か。
最初は絶望感が半端なかったものの、クリムが平気になった今のヴェロニカなら、可能性はゼロじゃないだろう。
僕たちは頷き合い、依頼解決の報告をするため、捕獲したゴブリンを連れて街へ向かった。




