秘めた深紅の意志
最初の感覚は、痛みだった。
何者かが近づいてきていることに気づかず、ヴェロニカや精霊の赤い犬までもが僕を呼んで気づかせようとしてくれていたのに、それにも反応できず。
僕は、無様にも相手の初撃を食らってしまい、突き飛ばされてしまったのだ。
地面に背中から倒れ臥し、顰めながらも前方を確認する。
そして、驚愕した。絶句した。絶望を覚えた。
ヴェロニカの精霊が倒してくれたゴブリンよりも、遥かに、遥かに大きい肢体。
ギョロっと、ぎらついた双眸で僕を見下ろしている。
何だ、こいつは……。
こんなにデカく、強大なゴブリンまで存在しているのか。
まさか、他のゴブリンが登場してくるだなんて思いもしなかった。
「だ、大丈夫っ!?」
ヴェロニカが駆け寄り、手を差し伸べてくれる。
僕は礼を述べてから手を取り、立ち上がった。
「こいつは、ゴブリンの親玉ってところかな……。子供か手下か、その関係性は分からないけど、仲間がやられて怒ってたりしてね」
「そ、そんな……」
もし僕の推測が正しければ、親玉ってことは当然他のゴブリンよりも強いのだろう。
さっきの小さなゴブリンは精霊が勝手に倒してくれたため、僕らは実際に戦ったことがあるわけではないが。
親玉となると、さすがに今の僕たちで勝てるものかどうか。
やっぱりだ。やっぱり、僕は運が悪い。
ちゃんとゴブリンを捕獲して、無事に依頼解決となるはずだったのに。
こんなのが出てくるなんて、聞いてないっての。
「どうするのよ、シオン」
「できれば逃げたいところだけど、逃げさせてくれないと思うよ。だから、戦うしかない」
僕の言葉に、ヴェロニカは冷や汗を垂らしながらも頷く。
でも、戦うとは言っても、どうやって戦えばいいものか。
などと、考える暇を与えてくれるわけもなかった。
巨大ゴブリンは僕たちのもとまで肉薄し、持っていた斧を振り下ろす。
僕は左へ、ヴェロニカは右へ、咄嗟に回避。
しかし、避けたからと言って油断はできないことを身をもって実感した。
更に次の一手が、僕へ目がけて襲いかかってきたのだ。
「くっ……」
このゴブリンは、大きい。
ということは当然、的も大きく、攻撃の範囲も広い。
だから、回避した直後だったこともあり、すぐには反応できず――まんまと、奴の攻撃を食らってしまった。
斧は既に振り下ろしていたため、もう片方の手で僕の小さな体を握りしめる。
腕が、脚が、ゴブリンの手によって締め付けられる。
「う、くぁぁっ」
痛みのあまり、自分の口からそんな声が漏れる。
痛い。痛い。今にも骨が折れそうだ。
こんなところで負けるわけには……なんて思っても、ゴブリンの手の拘束は凄まじく、逃れることなど不可能にも等しい。
「し、シオンっ! う…………っ」
痛みを必死に耐えつつも下を見下ろしてみると、ヴェロニカは自身の精霊を見ながらも何やら逡巡していた。
怖いのか。不安なのか。
僕を助けたいが、犬が怖くて上手く命令することもできない。
そんな二律背反に、支配されているのだろう。
でも、僕が知っているヴェロニカは――否。
今ここにいるヴェロニカは、こんな状況で、そんなに弱いわけがない。
「う、うううっ! お、お願い! シオンを助けてっ!」
ぎゅっと目を瞑り、そんな言葉を必死で絞り出す。
それは、決して自分の精霊に対する命令ではない。
ただの懇願のようなものだったが、それだけで充分だった。
犬は足元に火花を散らしながら、巨大ゴブリンへ向かって駆ける。
そしてゴブリンの体を垂直に駆け上り、僕を握り締めているほうの腕に強く噛みついた。
よく見たら、犬の牙は赤く燃えており、ゴブリンの腕がジュージューと音を立てていた。
炎の牙……といったところか。
ゴブリンの腕が徐々に黒く焦げていき、悲痛な叫び声を上げる。
と同時に、僕への拘束もどんどん弱まっていく。
だが――ゴブリンが、そのままやられ続けているわけもなくて。
斧を手放し、もう片方の手で犬を払う。
さすがに体の大きさも力の強さも差がありすぎたためか、犬は突き飛ばされ、ヴェロニカの足元に転がり落ちる。
ヴェロニカは、その場から動けずにいた。
足元の精霊と僕を交互に見て、足が小刻みに震えていた。
もしかしたら、すぐにでも犬を抱いてあげたいのかもしれない。
だけど、やっぱりそうするには恐怖の感情が邪魔しているのだろう。
僕が、間違っていたのか。
犬嫌いを克服させるという口上で、無闇に依頼を受けたり、魔物との戦闘をするべきではなかったのか。
こうなることくらい、容易に想像できたはずなのに……!
なんて後悔している間にも、ゴブリンは動きを止めない。
ゴブリンは、ずっと僕を握り締めているだけではなかった。
拳を振り上げ、その一秒後には僕を地面に叩き落とした。
「かは……っ!」
凄まじい速度で落下していき、僕は背中を強く打つ。
その際、あまりの激痛で悲痛な吐息が漏れた。
「ご、ごめんなさい、シオン……あたし……」
倒れた僕を見て、ヴェロニカは駆け寄ることすらできず、ただ涙を流す。
謝る必要なんてない。
ヴェロニカは悪くない。僕が、よく考えもせずに決断し、行動してしまったから。
だから、こうなってしまったのだ。
「だ、だい、じょうぶ……仕方ないよ……」
言いながら上体を起こすも、痛みで上手く体を動かすことができない。
これは、まずいぞ。
万事休す。絶体絶命。そんな絶望的な言葉が思い浮かぶ脳内を恨み、必死に掻き消す。
ゴブリンの次の攻撃は、僕には襲いかかってこなかった。
標的が変わり、次は――ヴェロニカの精霊へ。
先ほど炎の牙で腕に痛みを与えたのが、よほど怒りを覚えたのだろうか。
斧を握り締め、倒れている精霊へ向かって振り下ろし――。
「――クリムっっ!!」
途端、ヴェロニカが駆け出した。
そんな、叫びとともに。
精霊をしっかり両腕で抱き締め、地面を転がることで斧の一撃を回避した。
ヴェロニカは、犬が嫌いで苦手だった。
近くにいるだけで恐怖を感じ、すぐに僕の背後に隠れてしまうほどに。
なのに、今は。
ちゃんと、犬に触れている。
ちゃんと、犬を助けている。
自分自身の、腕で。
「……大丈夫? クリム」
クリム――それが、あの精霊の名、だろうか。
そう問いかけて微笑むヴェロニカの姿は、何だかとても美しかった。
「……シオン。ちょっとお願いっていうか、提案があるんだけど、いいかしら」
気を失っている犬の毛を撫でながら、こちらを振り向きもせずに言ってくる。
ぼくは怪訝に思い、次の言葉を待つ。
「あんたって吸血鬼だから、血を吸うと強くなるんでしょう? この前みたいに」
この前ってのは、おそらくダンゴムシの魔物と戦ったときだろう。
確かにあのときは、自分自身の血で、動きが加速し攻撃力も跳ね上がっていた。あのダンゴムシを一撃で倒してしまうくらいに。
「だったらさ――あたしの血、貰っていいわよ」
そう言って、肩越しにこちらを向いてくる。
その瞳は、決意の色に彩られていた。




