東――全てが偽りの光景
――ダチュラ。
突然現れた長髪の男性が、自分のことをそう名乗った。
その名前は、さっき見た気がする。
ホーリーフという町の中で、急に上から降ってきた紙に書かれていたのだ。
でも、その紙に記されていた名前はダチュラだけではない。
もう一人、ローレルの姿は、辺りを見回してもどこにもなかった。
「……ああ、ローレル君ならここには来ていませんよ。今頃、別の塔で君たちの仲間と戦っているかもしれませんが」
僕の表情で察したのか、ダチュラは続けてそう言った。
ということは、もう既に誰かが対峙している可能性が高いのか。
闘技場で僕が一人で戦い、散々な結果に終わったローレルと。
あのときは僕一人だけだったとはいえ、あんなにも呆気なく敗北を喫してしまった。
六人のうちの誰なのかは分からないが、今ローレルと戦って勝てるのだろうか。
できることなら、すぐに駆けつけたいところだが……目の前にダチュラがいる以上、それも叶わない。
「あははっ、他の人を心配している余裕はないんじゃないですか? 僕はまだまだ未熟者ですが、未熟なりに頑張らせていただきます。どうです? 〈十花〉に入りませんか?」
「……入るわけ、ないでしょ」
「あははっ、ですよね。では、やりましょうか」
笑顔で、明るい口調で、ダチュラは言葉を紡ぐ。
今から戦うとは思えないほど呑気そうな雰囲気だが、忘れてはいけない。
この男も、〈十花〉なのだ。ローレルか、もしくはそれ以上に強くてもおかしくはないだろう。
「それにしても……先ほどの戦いを見ていましたが。見事なまでに僕の術中にはまってくださって、笑いを堪えるのが大変でしたよ」
ダチュラが何のことを言っているのか、よく分からない。
さっき僕たちが戦っていたのは、大きな鮫の魔物だ。
そのときは塔に大量の水が溜まっており、ダチュラはどこにもいなかった。
だったら――一体、どこから見ていたのか。
そして――ついさっきまで確かに存在していた水や鮫は、どこに消え失せてしまったのか。
「ダチュラは、何をしたの? 水と鮫は、どこに行ったの?」
「水と鮫? 何のことでしょう?」
ダチュラは変わらない笑顔で、首を傾げる。
僕たちを馬鹿にしているかのような、そんな誤魔化し方が今は少し腹立たしかった。
「あははっ、そんなに怖い顔しないでくださいよ。水だなんて、この塔の中には全くありませんよ。夢か幻でも、見ていたんじゃないですか?」
夢か、幻。
いや、そんなはずはない。
僕たちは水の中を泳いだし、鮫に噛まれた傷は今でも痛むし、実際に溺れそうになった。
あれが全て幻だったなんて、そんなわけあるものか。
「そんなわけ……っ」
「幻ですよ。間違いなく、ね。あなた方は、現実だと見紛うほどの鮮明な幻を見せられていたんです」
思わず耳を疑う。
有り得ないと思っていた考察を、何でもないことかのようにあっさりと肯定された。
じゃあ、今の何もない部屋が真実で、さっきまでの水は全て幻……?
「一体、いつから……」
ほぼ無意識に、自分の口から漏れていた。
僕は頭を押さえ、奥歯を噛み締める。
僕たちが塔に入った時点で、最初から塔の中には水があった。上に進むごとに水の量が増え、仕掛けられている罠も全て水ばかりで。
なのに――。
「いつから? あははっ、変なこと言いますね。では逆に訊きますが、あなた方は一体いつから――この塔に水があるなんて思い込んでいたんですか?」
「……え?」
「そんなものは、最初からありません。罠なんてものも、どこにも仕掛けてなんていません。全て、どれも、あなた方が勝手に、そう思い込んでいただけなんですよ」
水も、鮫も、罠も、全て。
何もないのにも拘わらず、勝手に存在していると思い込んでいただけ。
全部、幻だったとでも言うのか。
いや、それなら納得できることもある。
鮫との戦闘中、突然水かさが増したこと。いくら各階で滝が現れ、水が徐々に溜まっていってるとはいえ、塔の内部全てに水が溜まるのが異様に早すぎたこと。何もない空間で突然複数の大きな滝や鮫の魔物が出現したこと。
あれが全部幻だとすれば、一応説明がつくのかもしれないが……。
そんなもの、幻などというレベルじゃない。
まるで――催眠じゃないか。
「それでは、もう一度名乗らせていただきます」
そこで咳払いを一つ。
更に一拍あけ、言い放った。
「僕は〈十花〉――幻術師の、ダチュラと申します。僕を相手にするときは、自分の目だけに頼らないほうがいいですよ」
幻術師。
そういう職業があることは知っていた。
でも、まさかここまで高度な幻術を扱えるとは。
確かに、他のみんなを心配していられる余裕はないかもしれない。
ダチュラは、間違いなく強い。
だから、全力で立ち向かわないとこちらがやられてしまうだろう。
ローレルと戦っているであろう仲間のもとへ駆けつける前に。
今は、まず目の前の敵を――。




