東――目には目を歯には歯を
突然目の前に現れた、鮫の魔物。
そして、下から迫ってくる大量の水。
この階が水でいっぱいにならないうちに、鮫を倒さないといけないわけだが。
迫ってきている水の量が多く、速度も速いからといって。
いくら何でも、この階に水がやって来る頃には倒せるだろう。
すぐさま吸血状態になり、即行で片付ければいいのだから。
そう、思っていた。
すぐあとに、この階の天井から大量の水が滝のように流れてくるまでは。
しかも、この階の東西南北に計四ヶ所。
みるみるうちに、どんどん床が水浸しになっていく。
このままだと、思っていたより時間がないかもしれない。
「に、兄、早く――」
ヒゴロモが叫び、その途中で。
僕の横を、巨大な鮫が音速で駆け抜けていった。
反応すらできず、腹部に鮫の突進を食らったままのヒゴロモを連れて。
「ヒゴロモ!」
ヒゴロモが背中から壁に激突したことで、ようやく鮫は動きを止めた。
しかし、それでも鮫はヒゴロモから離れようとはしない。
口を大きく開け、鋭利な歯をヒゴロモの華奢な腕に強く突きつける。
「ぅ、あぁぁぁあぁぁあッ!」
激痛のあまり、ヒゴロモは瞑目して叫ぶ。
鋭利な歯が腕に複数の穴を穿ち、そこから赤い血が溢れ出ていた。
ヒゴロモは必死に藻掻き、鮫の頭部を強く押すことで自身の腕から鮫を引き剥がそうと試みるも、よほど鮫の力が強いのか痛みのせいで力があまり出ていないからか、一向に離れる様子がない。
その度に激痛が襲い、ヒゴロモの口から苦悶の吐息が漏れる。
「くそッ!」
僕は、慌てて駆け出す。
まだ吸血状態にはなっていないため、僕の速度なんて大したものじゃない。
だが、たとえそれでも、できるだけ速く鮫とヒゴロモのほうへ走った。
そして、ようやく近くまで到達したとき。
僕は足に力を込め――鮫の側面に目掛けて、思い切り体当たりをかました。
すると鮫はヒゴロモの腕から口を離し、横向きに倒れこむ。
「ヒゴロモ、大丈夫?」
「う、うん、ありがと、兄……」
慌てて駆け寄り問うと、ヒゴロモは腕の噛まれた箇所を、もう片方の手のひらで押さえながら答えた。
そこからは、真っ赤な血がポタポタと垂れている。
四ヶ所に流れている滝で、既に足首の辺りまで水が溜まっており。
ヒゴロモの腕から垂れた血が水に溶け、足元の水だけが赤に染まった。
あれほど鋭利な牙で、強い力で噛まれたのだ。
見ているだけでも痛々しいくらいなのだから、ヒゴロモ自身は今も激痛に襲われているに違いない。
しかも、まだそれほど時間が経っていないのにも拘わらず、もう足首が水に浸かるほどにまで溜まってしまっている。
ただでさえ鮫も弱くはないだろうに、水が溜まるのもかなり速い。
このままじゃ、あっという間にこの階が水でいっぱいになってしまうだろう。
などと、考えていたら。
不意に、どこからともなく、凄まじい勢いで水が流れているかのような轟音が聞こえてきた。
そして、その僅か数秒後。
部屋の中央辺りに、二ヶ所。
突然天井から水が流れ出し、二つの滝が現れた。
さっきからある四つの滝に、二つ増えたことで。
計六ヶ所となり、水が溜まる速度が更に早まったことになる。
こうなってしまっては、もう本当にちんたらしていられない。
水かさが増していっているのが、見ただけで、足が水に浸かっているだけで、大体分かってしまうほどなのだから。
「ごめん、貰うね」
「えっ? ちょっと、兄……?」
ヒゴロモの腕に顔を近づけ、そこから溢れている血を舌で舐める。
心臓の高鳴り、視界が紅く染まり、血が滾る。
久しぶりの感覚に襲われた直後、僕はすぐさま立ち上がった。
急いで、鮫のもとへ肉薄する。
床に溜まった水のせいで、今はかなり走りにくい。
でも、そんなことも言っていられない。
走っている途中で、手のひらから血でできた剣を出す。
そして、鮫に向かって力の限り振り下ろした。
なのに、鮫の悲鳴が聞こえない。
斬ったときの感触が、一向に自分の手にやって来ない。
僕の目の前に、既に鮫の姿はなく。
気づいたときには、僕の真下に鮫の頭部が――。
「……かっ!?」
刹那、腹部に鮫の頭突きを喰らい、激痛とともに口から血を吐く。
僕の軽い体は簡単に吹っ飛び、背中から地面に落下する。
が、鮫の頭突きが直撃した腹部以外、背中に全く痛みを感じなかった。
床の硬い感触も、何もなくて。
ただあるのは、冷たい水の感触だけ。
ゆっくりと、顔を後ろに向ける。
床には大量の水が溜まっており、水面に僕の体が浮かんでいる状態だった。
床より、天井のほうが近く感じてしまうほどである。
おかしい。
この階にも滝が六つ現れて水の溜まる速度が早くなったとはいえ、もうここまで溜まってしまうのは、いくら何でも早すぎる。
現に、つい先ほどまで足首の辺りが浸かってしまうほどにしかなく、何とか歩けるレベルではあった。
どういうことだ……一瞬で、こんなにもたくさんの水が出現してしまうだなんて。
考えても考えても、答えなんか一向に出てこない。
僕の思考は、その一点だけに囚われ、もっと注意すべき物事を見逃してしまっていた。
鮫とは、本来海に棲む生物である。
そもそも、大して水のない陸地であそこまで素早く身動きを取れていること自体すごいくらいなのだ。
だから、これだけ水が溜まった現状では。
鮫の本領発揮と言っても、過言ではないのだった。
「に、兄! 下! 下ぁっ!」
不意に、水上に首から上だけを出したヒゴロモの叫び声が聞こえて。
慌てて自分の体の下、水の中を見ると。
鮫が鋭利な歯を覗かせながら、こちらに向かって真っ直ぐ泳いできていた。
「……ッ!?」
咄嗟に起き上がり、鮫から逃げるべく必死に泳ぐ。
しかし、水中で鮫に敵うはずもなかった。
たったの数秒。
ほんの僅かな短い間に、一気に迫り。
僕の腕に、その強い力を以て鋭利な歯で噛みついてきた。
「ぐ、あぁッ!」
いくら吸血状態の僕でも、激痛のあまり上手く力が出せない。
そんな状態では当然抵抗もできず、鮫に腕を噛まれながら水中に連れ込まれた。
肉が裂かれ、鮮血が水中を赤く染める。
「兄っ! ど、どうしよう……どうしたら……っ」
ヒゴロモの慌てふためく声が、どんどん遠くなる。
鮫に腕を噛まれ続け、そのまま水中深くへ沈んでいく。
激痛に耐えられなくなるのもあるが、それ以上に、このままでは息ができず溺死してしまう。
何とか鮫から開放されるべく、噛まれていないほうの手で剣を出す。
そして、鮫に向かって振り払う――が。
更に強く腕を噛まれ、痛みのあまり思わず剣を手離してしまう。
腕を噛み砕かれ、引きちぎられそうなほどの焼けるような痛み。
呼吸が遮られる深い水中へ、どんどん連れ込まれたことによる苦しみ。
その二つに苛まれ、頭がクラクラしてきて、もう新たに剣を顕現させることもできない。
心なしか、視界がぼやけてきているような気すらしてきた。
もうだめか……と、半ば諦めかけてきた頃。
ふと、視界の端に影が映り込む。
ゆっくり顔をそちらに向け、僕は絶句してしまった。
鮫は今、僕の腕を噛みながら徐々に下へ潜っている。
なのに、もう一匹、いつの間にか鮫が出現していたのだ。
最初は、また新たに魔物が現れてしまったのかと思った。
一匹だけでもこの有様なのに、もう一匹更に来てしまっては勝ち目などない、と。
そんな、絶望にも似た感情を抱いてしまった。
でも、違う。
鮫の背に、ヒゴロモが乗っていることに気づいてからは。
それが完全に間違っていることを悟った。
「兄~っ!」
水中なのに叫び、鮫に乗ったヒゴロモは僕のもとへ向かってくる。
あっという間に近づき、もう一匹の鮫に噛みついた。
すると、ようやく僕の腕が開放され。
ヒゴロモの下にいる鮫が僕の襟首を噛み、上へ昇っていく。
一瞬で水上まで到達し、僕はようやくまともに呼吸ができるようになった。
「あ、ありがとう、ヒゴロモ。その鮫は……?」
「えへへ、目には目を作戦だよっ! 鮫のせいで水の中にいる兄を助けるには、こっちも鮫の力を借りればいいんじゃないかなって。ありがとね、鮫ちゃん」
ヒゴロモが、微笑みながら鮫の頭を撫でる。
襲ってくる意思はないとしても、怖くないのかな。僕からしたら、完全に命の恩人だけど。
でも、そうか。
そういえば、ヒゴロモの職業は魔物使いだった。
この鮫が魔物という扱いなら、ヒゴロモが使役できないわけないのだ。
と、そんな風に得心がいったとき。
どこからともなく、拍手の音が聞こえてきた。
――パチ、パチ、パチ、パチ。
その音が耳に留まり、聞き続けていると。
何だか目が回り、頭がぼーっとしてくる。
そして、気がついたときには――周りの水も、さっき僕の腕を噛んでいた鮫の姿も、何もなくなっていた。
そう、何も。
あるのは、僕とヒゴロモの困惑した表情と。
さっきまでいなかった、一人の長身の男性の姿だけ。
「あははっ、おめでとうございます。シオンさんに、ヒゴロモさん」
かなり髪が長く、糸のように目が細い男性だ。
水が突然なくなったことといい、この男性が突然現れたことといい、分からないことが多すぎる。
しかし怪訝に思う僕たちに構わず、男性は自身の名を名乗った。
「はじめまして。僕は〈十花〉の一員、ダチュラと申します。シオンさん、そしてヒゴロモさん。君たちを――勧誘しに来ました」




