死んでいく私
私は20歳のごく普通の社会人である。
今年短大を卒業し、中小企業に就職した。
仕事に慣れ始めた頃のある日、突然起こったのである。
それはよくある事故だった。
仕事帰り私は、車でいつものようにお気に入りの音楽をかけ、いつもの時間に、いつもの帰り道で、いつものように安全運転していた。
そしていつも赤信号に引っかかる交差点で青になるのを待っていると、居眠り運転のトラックと衝突したのである。
そこで私は意識を失った。
本当によくある事故だ。
この事故により死して生きる日々が始まった。
いや、こんなのを日々と呼ぶことはできないのではないかと私は考える。
そもそも生きるとは呼べないのではないかとさえ私は考える。
これはあくまでも私の考えだ。
もし私の考えが間違っていたとしてもそれはそれでいいのだ。
なぜなら私はもう考えることしかできないのだから。
いや厳密には違う、考えることと、右手の小指を動かすことは可能である。
だが、私にとってそんなに大差ないことである。
そしてまた、そこだけ動かせても意味がないし、私の役には立たない。
しかし病院の先生や看護師さんらは小指の動きで反応を見るので色々と役に立っているみたいだ。
ただ、役に立つと言っても患者の反応を見るだけのあたりまえの行為にだ。
役に立つとは言えない当たり前の行為だが、今の私には限界であり、それが一番なのである。
他にできることはもう何もない。
この状態になった今私は生まれてこなければよかったと心の底から思う。
たとえなる前にどれだけ裕福で不自由なく暮らし、楽しむ生活を送っていたとしても、この先の苦痛には耐えることは不可能だ。
それが一年や二年ならまだしも入院生活は長いのである。
冒頭でも紹介したが私は二十歳である。あと何年生きるかはわからないが、数十年は生きるであろう。
数十年どころではないかもしれない。あと数十年もすれば新しい医療技術も生まれるであろう。
そうなれば、百年生きられるようになるかもしれない。私にとっては最悪な医療技術だ。
もちろん医療技術の発展により、長く生きることができるだけでなく、体の自由を取り戻したりすることも可能になるかもしれないとは私も考える。
だがしかし、それはいつの話になるかわからない。
はたまたそんな話があったとして、私に伝える術はない。
私は、本当に考えること、右手の小指を動かすことしかできないのである。
聴覚、視覚、嗅覚、味覚・・・右手の小指の感覚はあるので触角は失われたとは言えないが、それを感じ取れるのはほんの一部であるため、私にとっては全てないに等しい。
食事もできない。会話もできない。話声を聞くこともできない。散歩もできない。景観を見ることもできない。
当たり前のこと、誰でも一つはできそうなことは私にはできない。
何もできない、何もない、何にも成れない私は絶望を感じざるを得ない。
―――あの事故からいったい何年、いや何十年たったのであろう。今もなお私の目の前には真っ暗闇の世界が広がっている。
私は、今どこにいるのかわからない。
入院生活とは言ったものの、それは私が今考えられる当たり前の状況を脳内で作り出しているのに過ぎない。
病院のベッドの上に横たわるただの肉塊に酸素マスクと点滴をつけて生きながらえている状態にあるのが今の私であるというのが頭の中で思い浮かべる姿であるが、実際はどうであろうか。
病院の先生ではなく研究者、専門家などによる人体実験が行われているのかもしれない。
だがそれが一番良いのかもしれない。
人体実験は禁忌であるが、もしも行われているのであれば私はそれをやめないで欲しいとさえ願う。
病院という行かされ続ける場所よりも私は後者を選ぶ。
だがそれも違うであろう。
時間の感覚などわからないが、一日に二回、朝昼と右手の小指に刺激が与えられる。
定期的に容態を確認してくれているのであろう。
容態とはいっても右手の小指が反応するのかを見るだけだろうが、、。
―――さらに時間は経過し、私はまだ生きている。はずだ。
私は恐らくまだまだ生き続ける。
こんなことを言うのは二度目であるが、私は生まれなければ良かったと思う。
この苦しみをわかる奴は誰もいない。痛みを共有することはできない。分かち合うことはできない。
私にとって生きることは苦しいのだ。
私は生き続けると同時に死に近づいている。
それは人類全てが同じことではあるが、
私にはこれしかない。
私はいつか死ぬ。この先の見えない未来と絶望を胸に抱え、今も生きるだけなのだ。
生きるとは何なのか、死ぬとはどういうことなのか。
私はこの先もひたすらに考えるだろう。
何を持って生きるとするか、何を持って死とするか。
人は皆、生命の誕生を持って生とし、生命の終焉を持って死とする。
ただ私は、
「何もしないで生き続けるのは、死んでいるのと等しい」
と考える。
つまり今の私は死んでいるのだ。
皆がどう言おうと、私の中で私は死んだ。
だが現実は死んでいない。
生と死の境界線は非常に難しいものだ。
もし皆が私を死んでいないと言うのであれば、私はこう言おう。
「私はこれから死んでいく」