任意同行
それは昼間に優雅にシャワーを浴びている最中のことだった。
風呂場からはインターホンの音は聞こえにくいのだが,あまりに繰り返し鳴るものだから,俺もさすがに気が付き,シャワーの放水と鼻歌を中断する。
先方を待たせることの無礼とラフな格好で応対することの無礼を天秤にかけた結果,Tシャツにチノパンという格好を選択した俺は,相変わらずインターホンを鳴らし続けていたドアの向こうの人と正対した。
視界に飛び込んできたのは,制服を着た3人の警察官だった。
俺の顔を見るやいなや,おそらくもっとも部下であろう短髪の警察官が警察手帳を示した。
「埼玉の戸田で起きた事件について任意同行をお願いしたいのですが」
なんのことだろうか。全く身に覚えがない。
言葉遣いは丁寧である一方,警察官の口調には有無を言わせぬ雰囲気があった。
任意同行,ということは必ずしも自分が容疑者だと疑われているわけではないのだろう。それに集合住宅の入り口で警察官とすったもんだを繰り広げることは利口ではない。
俺は,警察官の誘導に従い,パトカーの後部座席に乗り込んだ。
「…あの,戸田の事件ってどういう事件ですか」
交差点で信号待ちをしている最中,俺は隣に座っていた短髪の警察官に尋ねた。
少し思考を巡らせているうちに,もしかしたら例の怪しいバイトが事件と関連しているのかもしれないと不安になったからである。
しばしの沈黙の後,短髪の警察官は答えた。
「殺人事件です」
予想だにしない答えに言葉を失う。
「被害者は目黒みゆう。詳しくは署で聞きますので」
被害者の名前は聞いたことがない。流行りのグラビアアイドルにそのような名前の子がいたかもしれないが,おそらく気のせいだろう。少なくとも俺のごく限られた交友関係の中にそのような名前の女性はいない。
自分が何やら大変な事件に巻き込まれつつあると寒気がすると同時に,自分はこの事件には関係がないという安心感があった。俺が任意同行の対象となったのは,おそらく人違いか何かだろう。取調室で少し話したらすぐに解放してくれるに違いない。
取調室では,パトカーに同乗した警察官とは別の警察官が正面に座った。
ワニのような三白眼の警察官は,布施と名乗った。
「これに見覚えはあるか」
布施が見せてきたのは,例のキーホルダーだった。薄暗い部屋の中なので確認はしにくいが,琥珀の中に収まっているのはヒトスジオオメイガで間違いないだろう。
こういうときにはどのように答えるべきだろうか。とぼけてシラを切ったら殴られやしないだろうか。布施の鍛えられた太い腕を横目で見ながら,俺は素直に答えた。
「あります」
「8月24日,秋葉原にある『ビートルズ』という店でこれを買ったな?」
「…はい」
布施はうんうんと繰り返し頷くと,それ以上の追及をしてこなかった。
代わりに布施が次に取り出してきたのは,予想通りの物であった。
マチェットである。
ただし,俺が家で写メを撮ったときとは様子がだいぶ違う。流線型の刃体には血がべったりとこべりついていたのである。
「こっちには見覚えがあるか」
俺は正直に答える。
「あります。9月2日に俺が買ったものです」
「そうか」
「ただ,俺が買ったときは,その…普通でした。どうして血が付いているのかは分かりません」
「お前が付けたんじゃないのか?」
「違います!」
どういうわけか,布施の追及はそこで止まった。
戸田の殺人事件の凶器がこのマチェットであるとすれば,マチェットに血が付いている事情を知っていれば,それ即ち犯行に深く関与しているということである。警察の取り調べでは外堀を強引に埋めることは許されても,事件の核心部分については慎重にやらなければならないということかもしれない。
布施は話題を変えた。
「9月15日19時頃,どこにいた?」
かなりクローズドな質問である。9月15日19時頃が犯行日時ということかもしれない。
キーホルダーとマチェットがすでに証拠として押収され,俺が購入したことに勘づかれているということは,事件当日のアリバイについてもすでに裏が取られているかもしれない。不用意なことを言って嘘がバレたら疑いが強まってしまうかもしれない。
冷房の効いている室内だというのに,身体中の汗腺が開いていることが分かる。
殺人の冤罪を被らせてしまえば人生が台無しになる。
冷静になれ。
えーっと…9月15日,9月15日…その日はどうしていたか。
…待てよ。
この日には確固としたアリバイがあるではないか。
俺は大きく息を吸う。
「その日は静岡で大学の同級生の結婚式に参加していました。出席者名簿を確認したら俺の名前があるはずです。筑紫光樹って」
布施は腑に落ちないと言わんばかりにうーんと唸った。