ヒトスジオオメイガ
「秋葉原にある『ビートルズ』という店で,ヒトスジオオメイガのキーホルダーを買ってほしい」
電話口からの指示はこれだけだった。正直言って拍子抜けだった。要するにはただの買い物である。命を張ることもなければ,法律に触れることもない。なんと割の良いバイトだろうか。
秋葉原には足繁く,というほどではないものの,何度も行ったことがある。俺が住んでいる練馬からは電車で1時間弱。
交通費は支給されず,買い物にかかる費用も支給されないが,破格の日当を考えれば大した問題ではない。「ヒトスジオオメイガ」が一体なんだかは分からないが,まさかそのキーホルダーが一つ数万円もするということはないだろう。
『ビートルズ』はJRの秋葉原駅と御徒町駅のちょうど中間くらいに位置していた。
お店の名前から判断して音楽関係の店か昆虫関係の店のどちらかだと思っていたが,店の外見からして,明らかに後者だった。カブトムシやら蝶やらの標本が何段にも積み上がり,歩道を塞がんばかりである。店主は良かれと思って展示しているのだろうが,カミキリムシやハンミョウなど,興味のない人から見れば気色の悪いだけの虫の標本もあり,公害に近い。
店内に入った俺は,店主があえて店外に標本を「展示」しているわけでない可能性に気付く。標本は単に室内に入りきらないだけなのかもしれない。店内は酸素が薄いと感じるくらいに標本で詰まっていた。
店の最深部で丸太のような椅子に腰掛けている店主は,俺が来店してもまるで関心がないようで,一瞥をくれることもなかった。店主がこの店をやっている目的は商品を売るためとは別にあるのかもしれない。
客は自分しかいない。店の一角に昆虫を琥珀で包んでキーホルダーに加工してある商品が並んでいるのを見つけた俺は,指示された「ヒトスジオオメイガ」を探した。
しかし,あまりに膨大なコレクションにすぐに途方がなくなり,結局店主に声をかけることにした。
「お兄さん,趣味が良いね」
「ヒトスジオオメイガ」の名前を告げると,心なしか店主の顔色が明るくなった気がした。
店主が手に取ったキーホルダーを見て,俺は合点がいった。とりたてて何の特徴もない白い蛾が,羽を閉じた状態で琥珀に閉じ込められている。
よほど昆虫マニアでないとこの蛾のキーホルダーを注文しないだろう。店主は俺を昆虫通として認定してくれたようだ。
指示通りにヒトスジオオメイガのキーホルダーを買った俺は,帰宅してからポスターに書かれていた番号に架電した。キーホルダーを買うように指示をした声と同じ低い声が応対する。
報告を受けると,低い声は指示通りにキーホルダーを郵送するように求めた。そして,郵送先として,都心の一等地にあるビルの5階の住所を告げた。
キーホルダーを包装し,封筒に詰めながら,俺はぼんやりと考える。
一体依頼主は何を考えているのだろうか。ヒトスジオオメイガのキーホルダーが欲しいのならば,自分で買いに行けばよいではないか。依頼主の住所地は,俺が住んでいる場所よりも秋葉原に近い。なぜ高い日当を支払ってまで俺に買いに行かせたのか。
『ビートルズ』はたしかに敷居が高い。店に入りたくないという気持ちは分からなくない。
とはいえ,依頼主はヒトスジオオメイガのキーホルダーを欲しがったのである。昆虫が苦手ということはありえない。むしろ『ビートルズ』は店主同様,依頼主にとっても理想の空間なのではないか。
もしかしたら依頼主は多忙を極めていて,買い物に行く暇もないのかもしれない。そういえば,トップモデルの代わりに洋服を買う「ショッパー」をテーマにした映画があった気がするがその類いか。
理由はともあれ,俺にとってはとにかくありがたい話である。
キーホルダーを郵送した2日後に通帳を確認すると,約束通り,預金残高が増えていた。