ポスター
「日当10万円。誰にでもできる簡単なお仕事」
誰に聞かせるわけでもないのに,俺はラジオの朗読劇のようにゆっくりとポスターの文字を読み上げた。
東京都練馬区のとある住宅街。駅から歩いて数分とはいえ,大型店舗はおろか,自宅の一部を改造した小料理屋の一つすらなく,外見を気にしない住宅が立ち並ぶだけである。住むにはうってつけな閑静な場所だが,歩くにはあまりに退屈である。ましてや通勤ルートとして毎日通る身からすれば,歩きスマホでもしなければ耐えられない。
この時間にこの道を通る車はゴミ収集車くらいである,と高を括った俺は,いつも通り小さな画面に熱中していた。最近ダウンロードしたばかりのオンライン・カードゲームには,飽きるまであと3日くらいはお世話になれるだろう。
すれ違う人に気付かずに肩をぶつけてもおかしくない状態だったのに,装飾のない文字だけの一枚のポスターに目を引かれたのは不思議だった。
そのポスターは,節操なく貼られた保守革新様々な政党のポスターに紛れて石壁に貼られていた。
誰に聞かせるわけでもないのに,俺は大きく舌打ちをした。なんてことない。このポスターが目に飛び込んできたのは「不思議」でもなんでもない。単に俺が「日当10万円」という文字に条件反射的に反応しただけである。
足を止めた自分の卑しさに辟易する。貧乏なことに自覚はあるが,まさか無意識のうちに行動をコントロールされてしまうほどだったとは。情けない。
今のご時世,1日働くだけで10万円ももらえるだなんてオイシイ話があるはずがない。そんなこと,少し頭を働かせればすぐに分かる。ましてや「誰にでもできる簡単な仕事」に誰が10万円を支払うというのか。市場原理に正面から反している。
「くだらない」
俺は再びスマホに目を戻し,歩を進めようとした。
しかし,何かが重たい足枷となった。
-これでいいのか。
このままポスターを無視して通り過ぎるということは,昨日までと変わらずに会社に出勤するということである。石川啄木の「一握の砂」ではないが,このまま働き続けても良い暮らしができるわけではない。派遣社員という立場である以上,基本的に昇格昇給はなく,30代となった今でも給料は最低賃金すれすれだ。
「下川さん,私と結婚する気ないんだね」
2年前に脳裏に焼き付けられた言葉が再生される。
大学のサークルの後輩だった羽生世蘭とは,俺が3年生,世蘭が1年生の夏の頃から付き合っていた。付き合った当初から遊びのつもりなど一切なく,このまま何事もなければ結婚するだろうと漠然と思っていた。結婚したいという気持ちもあった。子供も欲しかった。しかし,想いとは別の,立ち行かぬ事情が俺を阻んだ。
経済的事情である。4年生のときに就活で失敗したことを契機に,職は安定せず,生活に余裕ができたことはなかった。世蘭の誕生日やクリスマスには奮発したが,それでもファミレスでステーキを注文することが精一杯だった。結婚して妻と子供を養う,など夢物語だった。少なくとも,俺に縁のある話には思えなかった。
世蘭が俺をフったのは,2人が付き合ってちょうど8年目の記念日だった。
結婚する気がないわけではなかった。ただ結婚する状況が整わなかっただけである。
しかし,三十路を手前にして,一目にして結婚に焦っているように見えた世蘭に,「待って」とは言えなかった。待てど暮らせど俺の経済状況が好転するとは思えない。すっかり情が移っているからこそ,世蘭には無責任なことは言えなかったのである。
-金だ。金が必要だ。
「日当10万円」という言葉に惹きつけられるのは,何も恥ずかしいことではない。むしろ,今のままのその日暮しの生活を惰性で続けることこそが恥ずかしいのではないか。
これから先,世蘭のような大切な人ができたとしても,このままではまた失ってしまう。いつまでも派遣社員として働いていてはならない。転職のための軍資金としてまとまった金が必要だ。
このポスターはどう考えても怪しい。日当10万円の代償は内臓かもしれないし,それよりももっとヤバイものかもしれない。しかし,そんなことを気にしてなどいられない。リスクを背負ってでも人生を変えなければならない局面にいるのだ。
俺はポスターを剥がすと,4つ折りにしてポーチの中にしまった。