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手を差し伸べて

作者: 貫雪

体験談です。

 差し伸べられた手を、拒む。


 小説やドラマでおなじみなシーン。多くは戸惑い、葛藤、虚勢、不満などを現す場合が多い。小説なら比喩としても良く使われる。

 でももっとごく単純で、切実な不利益からそういう行動が必要な場合もある。私はたまたまそういうケースに遭遇した。


 地元にいれば呑気に暮らせる私も、身内のもとに出向けばそうはいかない。あちらに行けば私もダブルケアの介護や手続きに追われてしまう。

 特にこの冬は状況が厳しかった。認知症を患う実の父が入院したのだが、父は若い時から性格に問題があり、トラブルメーカーで長くアルコール依存でもあった。老いた今はようやく酒も断ち、日常は穏やかでいられるようになったものの、依存性の高い性格と認知症の影響から、唐突な感情の爆発や不穏な行動が起こるようになった。


 当然安静で規則正しい集団生活が求められる入院生活に向くはずもなく、他の患者や病院職員に迷惑をかけた挙句、症状がある程度改善したところで強制退院となった。とりあえず私が一時上京して介護し、その間に関係者の方々に父の一時入所できる施設を緊急に探してもらう。


 体調不良なのだから父の精神状態は良くない。退院させても昼夜を問わず目が離せない。ついに父と同居している障害を持つ家族も体調を崩した。父は手足の欠損がある等のわかりやすい障害以外はそれと認めない。障害への不理解から激情をすべてその家族にぶつけてしまうので、ストレスで持病を悪化させたのだ。

 結果二人分の介護は重くなり、ほとんど眠れない日々が一週間続いた。だが緊急性の高い事案ということで、どうにか父の一時入所先を確保できた。担当者と関係各所のご配慮の賜物だった。


 父を入所させ、病人の安静を確保し、自分もぐっすりと眠り頭をすっきりさせたが、やることは山のようにあった。父の退院手続き、入所手続き、その後の長期入所施設への入所計画、身元を保証できる人間は遠く離れて暮らす自分しかいない(そのうえ結婚して籍も抜けている)ため、成年後見人も必要だ。明らかに状態が悪化しているのだから、診断書の用意や介護認定の判定も受け直さなくてはならない。


 障害を持つ家族にも詳しい検査を受けさせ、治療計画を立て、職場に休職を願い出なければならない。これまでは就業支援担当者の方に主に携わっていただいていたが、休職、療養となれば生活支援担当者を中心にケアプランを立て直す必要がある。どちらも大量の資料と書類の入手が必要だ。とりあえず関係各所を回り歩き、手に入る書類を用意したが、ある程度コピーが必要になった。手っ取り早く近くのコンビニに入ってコピーをとる。


 コピー機の横ではコーヒーが販売されている。いったん体を休めたとはいえ心身ともにフラフラだ。香りにつられて熱いコーヒーを求めてすすると、いろいろな感情が沸き上がる。こうして必死になる原動力は、決して純粋な愛情ではない。むしろ憎しみや後悔やうしろめたさの方が大きい。それだけに周りの人の懸命な協力や暖かい言葉が胸に突き刺さることも多い。ただ、感傷に浸る暇がないだけで。

 そんな感情や思考をコーヒーと共に流し込み、コンビニを出ると目の前の信号があいにく赤だった。大人しく信号待ちをしながら次の予定を考える。


 突然、後方で大きな音がした。大きな荷物が崩れるような音と同時に、棒か何かが倒れたような音。思わず振り返ると男性が固い歩道の上に倒れていた。その横に松葉杖が転がっている。

 こういう時に体が動くのは理屈じゃない。体は勝手に男性の方に向かっている。


「大丈夫ですか?」ごく平凡な言葉をかけてしまう。


 この時頭の中で勝手にその後のことを想像していた。「大丈夫です」といって男性が立ち上がるか、「手を貸していただけませんか?」と頼まれるのか。

 最悪、どこかをひどく痛めて動いたり声を出すこともできないようなら、救急車が必要だろうか。とりあえず目の前のコンビニに飛び込んで、協力を願おうか……。


 幸い男性は自ら松葉杖を引き寄せながら「大丈夫です」といって体を起こした。まずはほっとしたのだが、どうやら自力で立ち上がれそうにない。思わず手を伸ばしかけると、意外な言葉をかけられた。


「すいません。手袋をお持ちですか?」


「えっ?」我ながらひどく間の抜けた声が出た。


 季節は真冬。コピーをとっていたので手袋は脱いでいるが、コンビニに入るまではつけていた。今はコートのポケットの中だ。


「私、障害があって、他人の汗や皮脂に触れる事が出来ないんです。助けていただくのに申し訳ないんですが、もしお持ちでしたら、先に手袋をはめていただけませんか?」


 そう言われて慌てて手を引っ込めながら、


「持ってます、持ってます。ちょっと待ってください」と、手袋をつけた。


 何とか立ち上がってもらったが、体がぐらついている。もともと体がひきつるように傾くのを杖で支えているらしいのだが、体重を乗せている足を痛めてしまったらしい。


「車に戻るしかないか。重ね重ねすいませんが、信号渡った向こうの角まで手を引いてもらえませんか? そこに車が止めてあるんです」


「いいですけど……そこまで歩けますか?」


「そのくらいならいけます。車に乗れば運転できるし、もし何かあっても職場に電話できますから」


 そう言われてその人の手を引きながら、ゆっくりと歩きだす。そして思った。


 神様がいるのなら、ずいぶん意地の悪い運命を与えてくれるわ。差し伸ばされた手を握れないとか、振り払うどころか、現実にその手に触れることもできないなんて。

 目の前で恐縮ばかりしているこの人は、体の障害ばかりではなく、いろんな心のバリアにも苦しんでいることだろう。人という生き物は、人との触れ合いを求めるものだから。

 多くの言葉よりその手を握ったり、肩や背中に触れたり、時には抱きしめる方が心を雄弁に伝えられる生き物だから。それなのに……


 何とか車高の少し高い障害者仕様の運転席を持つ車に乗ってもらい、席に落ち着いたことを確認してその人と別れた。柔らかな物腰と声がその人の人生を語っていた気がした。


 大丈夫かな……大丈夫だよね、きっと。あの人は体のバリアが存在する分、心のバリアの打ち解け方を、人より多く知っているはず。

 だって私は、多くの人に手を差し伸べてもらっているくせに、それに必死でしがみついているくせに、身内に後ろめたい手を差し伸べているからって、心をヒリヒリさせていた。

 名前も知らないあの人との短い出会いは、私と手を触れあうことができなくても、とても強い心の手で私のヒリヒリを包んでくれた。


 誰かの手をつかみながら、誰かに手を差し伸べ続ける。それが生きるってことなのかもしれない。


 今は大きな災害にたくさんの人の心も揺れて、ボランティアの在り方や不謹慎の判断についていろいろ言われている。いろんな意見を多く戦わせるのはいい。答えが出なくたっていい。


 ただ、手を差し伸べる心だけは、あった方がいい。どんな感情にまみれていても。

 そんなことが些細に思える出会いも、この世には多く転がっているのだから。


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