おひねり
ある県、某市の何処か。区は何丁目なんて知らないが、地上三階鉄筋コンクリート建てで、金色で塗られる壁が太陽の光を反射していた。
眼科で検査を受けた直後、会計を済ませて院内から出た瞬間の眩しさに似ていた。やっとの思いで辿り着いた正面玄関の扉を外側へと開いた。
漸く視界が馴れたことで視野に入ったのは正面に出入口、左には階段が設置されていた。右の白い壁に掛かるインターフォンと出勤と退勤の時刻をタイムカードに打刻する為の打刻機が備えてあり、天井を見上げると防犯カメラが赤く鈍く球体で光沢していた。
此処こそ、岡村晴一が二年前まで勤務していた本社だった。会社の会議で岡村晴一が発言をしたことを、集う幹部達は物議を醸した。結果、岡村晴一は他県に立ち上げた支店兼工場に転勤と命じられた。
本社の状況は、表面上は安定性があるかのような内容を耳にはさんでいた。
あくまで、おもて向き。実状は経費削減の計画の中に人件費削減というのが刷り込まれていた。加えると年功序列より能力主義の展開をしようとする会社の事情を真っ先に標的にされたのが、現場の従業員達だった。
「おはようございます、岡村さん。ご無沙汰してます」
岡村晴一が『現場』への出入口の開き戸を手前に引くと、見覚えがある顔の男性従業員から声を掛けられた。
「おはようございます、元気……。では、ない様子ですね」
岡村晴一は言葉を選んだつもりだったが、目の前の男性従業員は背中を丸めて顔をうつむいてしまった。
「降格してしまいました。理由は色々とあるようですが、さすがに異議を申し立てる気力なんてありませんでした」
従業員の覇気がない状態に、岡村晴一はひと呼吸をして声を掛けることを決めた。
「清本さん、今週の土曜日に僕と呑みに行きましょう。心配は要りませんよ、一般客は滅多に来店できない。と、いうより、店にたどり着く前に道に迷ってしまうような場所にあります。が、正しいでしょうね」
「はあ、そんな呑み処にわたしを誘われて良いのですか」
岡村晴一の誘いに驚いたのだろうか、男性従業員は顔をあげて目蓋を大きく開いて見せた。
「遠慮はしないでください。僕だって清本さんとじっくりお話しをしたいのですから。店までの案内は、僕が致しますのでーー」
岡村晴一は背広の内ポケットから名刺を1枚取り出し、裏に返して待合せ場所と集合時間をボールペンで記入すると、男性従業員右の手首を掴んで掌の中におさめたのであった。
そして、岡村晴一と男性従業員清本は、それぞれの役割の場所へと向かっていったーー。
***
『わんっ』
『く、くーん……。』
夕暮れのある場所で、二匹の愛玩犬がいた。
それだけか。と、白い目で見られても仕方がないが続きがあるから見捨てないで欲しいと伝えよう。
ーー却下。
ーーは、はい……。
先程の愛玩犬達を要約すると、そんなやり取りだった。
つん、と、すまして飼い主のもとへいくのは真っ白な毛並で覆われているプードル犬。一方、尻尾を巻いて頭を垂れていたのは薄茶色の毛並がふかふかとしているポメラニアン。
ーーしくじっても肉球を大地に押し込めて顔を空に向ける、それが本当の男犬よ。
ポメラニアンは、誰がいっているのだとあっちだこっちだをさんべんまわった。
そして、漸く視野にいれると「ワンッ!」と、甲高く吠えた。
ポメラニアンが見つめたのは、1本の大樹だった。空に向けて高くのびる太い枝の分け目で黒白縞模様の尻尾を垂らして胴体の毛並は黒茶色のまだら模様。耳はまっすぐ、白い毛並で右目のまわりを茶色に縁取らせている蒼い瞳をビー玉のように光らせる猫が座っていた。
「睨まないでよ。あたいは、あんたに嫌がらせをするなんてノミの大きささえ考えてないよ」
「僕のことを高みの見物をしていたのだろう。僕が振られるところを嘲笑った筈だ。キミにとっては顕微鏡でないと視ることができない微生物の小ささ程のことだろうが、僕にとっては宇宙規模でかなしいことだ」
『にゃあ、にゃにゃにゃにゃあにゃあにゃあ、にゃあ』
『わんわん、わわわん、わん。わおぉん、わんわわわわん』
猫とポメラニアンの激しい鳴きの対決が繰り広げられていた。
大樹から降りない猫、大地に4本脚の肉球を押し込めているポメラニアン。
「あたいの好物は〈飛びつけっ! 猫、ささみ味〉だもん」
「僕は〈はしれっ! 犬、ビーフ味〉を毎日噛み締めているぞ」
何の対決をしているのだ。続けさせても意味がないうえに、辺りも暗くなってきたから止めさせよう。
ーーストーップッ! たんま、まて、タイム。
「審判が止めに入ったから、あたいは退散するよ。ばいばい、またね」
猫は、胴体を捻らせながら地面に着地する。一度尻尾をまっすぐと伸ばしポメラニアンと目を合わせると、4本脚を翻して何処かに去っていった。
ーーかぁああ、かぁああ。
ポメラニアンは、空で羽ばたく烏の鳴き声で我に返った。
***
呑み処《大葉》の座敷席に、岡村晴一と清本が座っていた。
「さあ、どんどん呑んで召し上がってください」
岡村晴一は、笑顔で日本酒が満たされている徳利を掴む。そして、店主である茂吉がお通しとして出した短冊切りの大根梅肉和えで添えられた有田焼の小鉢が乗る座卓をはさんで対面に座る清本が持つお猪口に差し出して、中身を注ぎ入れた。
清本の手は震えていた。徳利の注ぎ口とお猪口の淵が重なり、自然とぶつかり合う音が鳴り響いた。
清本は緊張していた。岡村晴一に誘われた呑み処の和風内装にもそうだが、さらに運ばれてきた創作料理にもっと驚愕したのだった。
河豚の刺し身、伊勢海老と鮑に加えて本鮪が占めてる船盛。他にあげるときりがないが、清本が家庭で味わうことはできない食材ばかりが目白押しであった。
「美味しいです。岡村さん、本日はありがとうございます」
「清本さん、気楽にしてください。僕はあなたに数えきれないほど恩があるのです。今回はその御礼を兼ねております」
酔いがまわっている清本、ほろ酔いの岡村晴一。しかし、清本の酔いが一気にさめてしまう一言を、岡村晴一が突いた。
「本当なのですか」
「はい、僕は父が経営してる会社のあとを継ぎます」
「つまり『社長』に就任されると、いうことですか」
「ははは、いきなりでは父に巻く幹部達が疑心暗鬼で僕のことを見ますよ。まあ、今回のお話はおいおい致します。折角の楽しいひとときを台無しにしてしまって申し訳ありません。おわびとして、呑み直しをされてください」
岡村晴一は、茂吉を呼んでありとあらゆる酒の追加注文をしたーー。
***
ーー肉球を大地に押し込めてーー。
ある家のリビングルームに備えてある長椅子でくつろぐポメラニアンは、夕暮れの散歩の最中に出会った猫の言葉を思い出していた。
憤慨の感情で、言葉の意味を受け入れられなかった。何故、冷静に振る舞えなかったのだろうかと、頭のなかを自責の念でいっぱいにした。
そういえば、その前に一目惚れしたプードル犬さんのにおいは何処かで嗅いだにおいとそっくりだ。そうだ、ご主人様がいつか朝に帰ってきた、服に染み込んだ甘い薫りと同じだ。と、ポメラニアンは、目蓋を重くさせていた。
ーー琥太郎、駄目よ。作ちゃんはお散歩で疲れて寝んねしてるのよ。
ご主人様の奥さんの声が優しい。ポメラニアンは、ふかふかとした長椅子に埋もれながら夢の中に誘われるところだたった。
ーーむー、むー。
ご主人様のお子さんがご主人様の奥さんの阻止を振り払っている。でも、眠くて堪らない。どうしよう、ああ、どんどん近づいている。と、ポメラニアンはフローリングを匍匐前進して向かってくる乳児の音に怯えていた。
『ぎゃんっ!』
ポメラニアンは、眠気で逃げる体勢ができなかった。
乳児に長椅子から垂れ下げていた尻尾を掴まれ、床上に落とされたーー。




