No.Less 春の海と、猫
「ああ。この絵はあなたに似ている」
そう告げた男の視線を見て、女は少し困惑する。
そこには、でっぷりと太ったふてぶてしいといっても遜色ないぶち猫。どう見ても雑種の猫の日本画がかかっていた。
――そんなこといわれて喜ぶ女が果たしているのかしら?
女はそう思って、思わずくすりと笑う。
そのときに気がついた。意に染まないこの見合いはお互い様だということを。ただお互いの家同士のことを考えると会うしかない。そしてそれはすぐに決裂することは出来ない。せめて数回の逢瀬が必要だろう。その伏線の一つとして、男はこの不細工な猫を指して『あなたに似ている』と言ったのではないだろうか?
そう思って女は内心笑う。自分の格好も大概だ。見合いにはそぐわない浅葱色の着物。決して甘やかな女ではないことを主張するための半帯。仲人は立ち会わず、二人でと言う指定に男は待ち合わせのホテルにのこのことやってきた。お互い茶番なのはわかっている。問題はどちらがこの茶番を率先して演出するかだ。
二人して庭を歩いて、会話が長続きしないせいか、その庭園の先にあった美術館に入る。断らせる理由のためであろう。自分とは似ても似つかないでっぷりした猫の絵を彼は指した。
女性らしい丸みの少ないスレンダーな体つきに、いまどき染めていない黒髪、おっとりとした笑顔は周りの人間たちを韜晦するためにつけた技である。
「おかしいですか?」
「猫に似ているって言われたのは初めてです」
そうしっとりと、おっとりとした笑みを深める。『男の目線をちゃんと見ること』そう友人にアドバイスされたことを思い出し、目線の10cmほど手前を見て目を合わせるような雰囲気を醸し出した。
「今度、春の海を見に行きませんか?」
そう男――縣雅人は女に提案した。
「春の海を見に行きませんか?…か」
女は小さく言葉を転がすように反芻した。
「美弥、ちゃんとやってよね」
「あーわかってるよ、巳緒」
カフェ・オ・レに砂糖を3掬いも入れる相手を見やって、美弥は頷いた。どうしても見合いを断りたい……そう巳緒から頼まれて、美弥は代わりに見合いの場へと向かった。二人はハトコという関係である。ただし、美弥の両親は巳緒の所属する本家からは認められていない。縁は完全に切られていたのでお互いの存在を知らなかった。高校生の時にあまりに似ているので友人同士の間で話題になり、出会うことになった。
巳緒には好きな男がいるが、本家が許せるような男ではない。美弥の両親たちのように家と縁を切るにしても、まだ大学生である。実家の援助無しに突っ走るのは現状そこまで追い詰められているわけでもない。
――ただし、この見合いの話が持ち上がるまでは。
「しっかし、こればれたらどうするのよ」
美弥は大胆な手を提案してきたハトコに少しだけ呆れて言う。
「ばれたら怒られるだろうケド、お婆様があんたを血縁として認めるわけないしさ」
ばれた時に事情を説明するわけにもいかず、結果として縣へ断ることが出来るだろうという保険で、巳緒は美弥を借り出したわけである。一度、縣のような男に断りを入れれば、同様もしくはそれ以上のスペックの男は中々用意できないだろう。それに、そう簡単に時をあけずに続けての見合いは、縣側が黙ってはいないだろう。そうなると完全に家同士の付き合いに、支障をきたす。
穏便に断ることが出来れば、それは一番よい。出来なかった場合は見合いの席に立ったのは美弥であることを明かせば、必ずや本家はこの見合いをなかったことにするはずだ。 そこまで計算して美弥に身代わりを頼む巳緒のことを、策士だと美弥は舌を巻いて思う。ただし、そんなことがばれた日には、巳緒はただではすまないだろう。
自分の存在を出すのはあくまでも最終的にこの縁談を逃れるすべがなかったときのための最終的な爆弾だ。
その爆弾が爆発した場合のために、その布陣として、好きな男の下に逃げ込んで既成事実を作ろうというのだ。正直言って大胆だか、破れかぶれだかわからない。
そこまで考えて美弥は暗くなる。自分は身代わりとしてさえ認められない。本家…最終的には家刀自たる祖母は、そこまで自分の父と母――ひいては自分の存在をなかったことにしたいのかとも思うと、美弥は小さなため息をついた。
「それに、美弥はうまくやってくれるんでしょ?」
美弥の小さなため息の意味を誤解して巳緒が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「もちろん。向こうもきっと決める気はないと思うわ」
そう、デブ猫に例えられたことを話すと巳緒はけらけらと笑った。
「たしかにそうね。あんたと私はとてもよく似ているけど、ちゃんと見合い写真見ていれば別人だって気づいたと思うし、いくらなんでも好ましい女をデブ猫呼ばわりしないわよね!」
そう言って、半分ほど食べていたケーキの続きを巳緒は崩しにかかった。
――でも少し春の海を見に行くことは惜しかったかもしれない。
そう美弥は巳緒に微笑みかけながら、頭の片隅で考えた。縣の醸し出す静謐な雰囲気を少しだけ好ましく思っていた自分に戸惑う。巳緒と違って自分は今まで、恋愛というものを経験したことがなかった。巳緒にも友人たちにも『あんたはガードが固い』と言われているせいなのかもしれない。美弥と巳緒はとても似ているが、雰囲気がまるで違った。同じような容姿、服の趣味なのに、二人は全く正反対の空気を持つ。
巳緒はどこかふんわりと他者を受け入れる雰囲気をいつでも持っている。対して美弥は心を開くまでが長い。柔と硬でそれぞれ綺麗に区分けされているのが、自分たちの印象を大きく隔てていると、美弥は思っている。
――でも。
でも、なぜだろう? そう美弥は思う。
縣に対してはなんだかいつも、自分の周りにかかっている硬い膜のようなものがあまり感じられなかった。なんだか、側に寄り添いたいと思うような綺麗な空気を縣が持っていたせいかもしれない。経済紙などに登場する彼の逸話からはそんな綺麗な空気を感じるのは不思議な感じではあるが。
「美弥、はい」
ふっと一瞬だけ、自分の思念に囚われていたことに気がついて、美弥は姿勢を変えて巳緒の差し出した手を見た。そこには一つの鍵。
「なにこれ?」
「多分、縣側もあんたのこと素行調査をすると思うから、マンションの鍵渡しとく。しばらくは私としてあそこ住んで」
「ええ? そんな話聞いてないよ」
そう、美弥は困惑気味に巳緒を見やる。
「あそこにあるものは好きに使っていいから」
「ええええー。巳緒はどこにいるのよ」
「も、ち、ろ、ん――拓のところ」
いやそれはないでしょうよ、と美弥は思ってしまう。好きな男ではあるが、付き合ってはいないのに転がり込むつもりか?と何とか突っ込むも、いいチャンスだから落とすんだーという巳緒の前向きな姿勢を全く切り崩すことが出来ない。
本当にこの女と自分は血の繋がりがわずかでもあることが信じられない。
「いや、でも…本家から連絡あったりしたら……」
「大丈夫! あの家、家電ないし!」
そう言って携帯を振って茶目っ気たっぷりに笑う。
「や。でも縣さんからの連絡は?」
仲人とか本家からだよね?と若干涙目で美弥は巳緒にすがった。
「メールアドレス教えておいた。大学で研究とかあるから携帯は迷惑だからって言って、あんたのアドレス教えておいたよ」
ちょ…勝手になんてことを~~~~とは思うものの、もう教えてしまったものは仕方がないのかもしれない。大体あの縣の態度は、きっと向こうも断りを入れるタイミングを計るものの態度だろう。であれば、メールアドレスくらいはいいか、と納得する。大学はそろそろ春休みだから、学校が違うことがばれることもないだろう。美弥にはそういう諦めのよいところがどこかあった。苗字も同じだから、縣は感づくことはないだろう。なんだか、巳緒の策に自分までも嵌められている様で美弥は憮然と冷めたブラックコーヒーを飲み込んだ。
「雅人、見合いはどうだった?」
そう秘書の更井に聞かれて縣は少し笑う。秘書と言っても、幼い頃から共に育った友人でもある。立場的に二人きりのときは敬語を使っているが、今は二人きりだ。遠慮会釈なく、プライベートにまで切り込んでくる。
「ふ。お前にも会わせたかったよ」
くっくっくと含み笑いをして縣は答える。
どこか気まぐれな猫のような雰囲気。ただしでっぷりと太っていてふてぶてしい貫禄。きっと逃げることが出来ると彼女は思っているようだが、重い体を自分の想像とは違って素早く動かすことは難しいだろう。
「なんだか楽しそうだな。断る気満々だったくせに」
「ああ。なんだか会ってみて少しだけ気が変わった」
その様子を見て、更井は猫が獲物をいたぶるときの様に似ていると思う。縣は静かに見える男だが、決断したことを中途半端にすることはない。猫と言ったが猫科というのが正しい。縣はしなやかな獣のような爪を持つ男だと更井は常々思っている。
――可哀相に。
縣の見合い相手に少し同情する。だが、どこまで執着しているかを確認するべきかと思い、何気ない様子で質問を繰り出す。
「あんな家の出だから、さぞかし俗世間にまみれてないだろうな。お前にしたら簡単だろ」
言外に簡単すぎてつまんないぞと滲ましてみる。
「まぁそのときは当初の予定通り、なかったことにするさ」
そう縣は全く違う予感を抱きながら、そう嘯いた。それを聞いて更井は少しため息を落とす。この見てくれも出自もそれないによい男は、一見静かで端整な容姿を裏切るように性格の悪いところがある。今回の見合い相手は第一関門をどうやら突破してしまったらしい。となると、いじり倒して遊び倒すか、囲い込んで大事に大事にゆっくりと飴を舐めるように溶かされる。
――ご愁傷様。としか言えない、な。
「ご、ごめんなさい」
軽い足音がたたたたっと聞こえたかと思うと、そっけない格好の女が自分のすぐそばに来た。長い黒髪、白のストライプのシャツにジーンズ。
思わずまじまじと目を見張ってしまった。
「あのっ。すいません。大学の研究室に寄ってたら話し込んでしまって」
着替える暇もなくやってきたと、しどろもどろと言い訳する。和装もスッキリしていたが、こういう格好は彼女の凛として、女の色香を感じさせない風貌にとてもよく似合うと男は思った。
――こういうところが、あの家の出身ということなのかもしれない。
そう縣はふと思う。
今回の見合いは、縣としては関係性を考えるなら、ありえないものである。自分の仕事になんの役にも立たない。単に、実家にたまたま返すべき借りがあって、仕方なしに受けたものであった。なので最初から断るつもりで、相手の釣書も写真もちゃんと見ず、当日挑んだ。相手もその気がない格好であったのが、逆に興味を惹かれたのには苦笑を禁じえなかったが。
――大体、なんで占い師の家系と結婚なんだよ。
平安どころか、それ以前より続くと言われている陰陽師の子孫が、彼女が所属する世界である。政界財界にもさまざまなパイプがあり、占いということよりもその人脈が、縣の実家の目的なんであろう。ただし、そんなものが必要かといわれると縣からすると、『いるか、ばか』という気持ちである。
一部の親族にいたっては、本当に占いの力を信じていたりする。大物の政治家でさえも彼らの家に何かあれば、頼るということを面と言われたときには、相手の頭に蛆がわいてるんじゃないかとまじまじと疑った。
自分の実力はもとより、グループに所属する社員たちのがんばりを馬鹿にするんじゃないと、こういう見合いをセッティングしてきた一族の連中にいってやりたかった。
そんな家の女と……しかも、右も左もわからないお嬢ちゃんと結婚したからビジネスが潤滑になるなど世迷い事も大概にせいというのが、縣のこの見合いに対する感想であった。ただ、自分が事業を始めたときに、課した借りを返せといわれたからには仕方がない。見合いの結果に責任は取れませんよというのが精一杯であった。
そんな風に、この見合いをぶっ潰す気満々で、縣は挑んだのである。
ただし、相手の女と話すまでは、という但し書きがつく。
あの時に言った海に行こうといったのは本心だった。
縣が言った言葉をまじまじと吟味するように、しばらく縣を見つめた女がにっこりと微笑みを浮かべたときに、縣の気持ちは固まったといってもいい。
おっとりとしているが嘘くさい貼り付けた笑顔を見て、この女の本当の笑顔を見てみたいと、そんな気持ちがふつふつとなぜか沸いた。
何がどういう風にそういう気持ちに傾いたのかといわれると説明など出来ない。ただ、この女は自分のものだと思った。しばらく遊んで放り出す可能性はあるが、自分の中に女がするりと入り込んできたという感覚を持っただけである。
海を見に行くには早いであろうということで――まだ寒いのと、仲人から止められたせいである――二回目は食事でもと言うことになった。
遅れてきたうえに、ドレスコードを考えていない格好。よほど、こちらに口実を与えたいらしいと、縣はほくそ笑んでしまう。わざと、『遅れてきて』『その格好』なのは、彼女が謝りながらも、妙にふてぶてしいところがあるからだ。
――わかりやすい作戦。
所詮、二十歳過ぎたところのお嬢さんの考える程度なんて、高が知れているなと内心嗤う。世間ずれしていない、つまりTPOがいまいちわかっていないお嬢さんというものを武器に、彼女は彼のような男の妻になるには経験値がないと言うことで断らせようと言う作戦なんであろう。
「大学は面白いようですね」
「そうなんです。フィールドワークについて話をしていたらついつい」
少し、縣は引っかかるものを覚えたが、歩き出してすぐに蹴躓いた美弥を支えたことで、その正体がするりと抜ける。
「大丈夫ですか?」
あわわと、がっちりと腰に回った手の熱さに、真っ赤になると、年齢相応の可愛らしさを感じて笑みが漏れた。
「今日は少し予定を変更しましょう」
そう笑って、縣は美弥の手を取った。
「あ、あのっ」
「転ばないように」
そう一言だけ告げて言葉を封じる。
――居心地が悪い。
そう美弥は若干、寄りそうになる眉間の皺を寄せないように、最大限の努力を払って、若干引きつり気味に微笑んでいる。銀座のグランメゾンのお誘いであったが、ドレスコードをわざとぶっちぎった。ここで、恋愛小説の御曹司であれば、洋服を買ってくれたりとかするわけである。もしくはドレスコードの件を言われたらこれ幸いと喧嘩を吹っかけるつもりだった。そういう風にシミュレーションしてきたが……。
そんなんシミュレーションは何の役にも立たず、なぜか、銀座のはずれというか、どちらかというと新橋の小さな小料理屋でふたりテーブルを囲んでいた。
――そしてまた猫だよ!
その店のあちこちにさまざまな猫の置物置いてある。しかも例外なくでっぷりとしてぶっさい猫ばかりである。よほど自分はぶさ猫だと思われているらしい。若干、ムカッとしながら美弥は、焼酎のお湯割を飲みつつ、酒盗をつついた。
「あ……」
「美味しいでしょ?」
こくこくと頷くしかできない。酒の味わいに深みが増すようなツマミに思わず無言になって、ほかのものももくもくと食べる。その様子を縣がにこにこ笑いながら見ているのに気がついて、美弥は思わず箸を置いた。
「すいません。がっついちゃって」
「いえいえ。美味しそうに食べてらっしゃるのを見るとこっちもうれしいですよ」
そう言いながら、新たにきたホッケを美弥の前に縣は置きなおす。
「縣さん、怒ってないんですか?」
「どうしてです?」
「……」
面と向かって自分の大人気ない抵抗をなかったことにされると黙るしかない。
「こういう場所、よくいらっしゃるんですか?」
「まぁあなたから見ると、おっさんですからね」
またどうやって切り返せばいいかわからないような返事である。美弥はもしや縣が実はとても怒ってるのかも知れないと思い、手元の焼酎のグラスをコクリとあおった。少し居心地が悪いのに、そこから動けないような感覚に戸惑ってしまう。
縣からすると、礼儀がしっかりしていない、大企業を動かす男には相応しくない、ただただ若い女ということで、見合いを断る口実があるはずだ。美弥としても、自分が身代わりだとばれる前に何とかして断ってもらいたい。
――ぶさ猫に何度もたとえられているって言えば、流石に本家も許してくれて、断れるかしら?
そう脳裏によぎるが、段々とアルコールに思考を溶かされてまとまらない。酔いすぎてはいないが、酔いは回っている。相手はといえば自分より杯を重ねているが、酔った気配が全くない。
少しだけ距離が近くて、居心地が悪いくせに離れられない感覚をじりじりと感じながら、最近見た映画や本の話など、あたり障りのない会話をして過ごした。
店を出た瞬間に、また縣に引き寄せられて、歩き出す。決定的に引き寄せられるわけではないが、ゆるく腰を抱かれて守られるように歩く。
「あ、の?」
「結構ふらふらしてますよ。また躓いても困るでしょ」
そう柔和な笑顔で言われると逆らえない。実際この柔らかさは縣の武器の一つでもある。優しくお願いしているように見えて、絶対に逆らうことを許さない。その強引さで社員たちはため息をつきながらも縣のリクエストに応えるべく働く。そんなことは美弥は知るわけはなかったが、有無を言わせぬ態度に、逆らう術を持たなかった。
「あれ? 美弥」
雑踏を縣に守られるように歩いていると声をかけられて、ピクリと反応した。まぶたをそちらに動かすと同じ研究室に所属する同級生である。それほど仲良くはしていないが、よく会う同級生に呼び止められて、喉の奥で小さく『あっ』という声が引っかかる。
「美弥?」
「いえ。人違いですよ。あの、ハトコのお友達ですか?」
相手の同級生はまだ疑っている顔であるが、そんなことを気にしたら大変なことになってしまう。腋の下にびっしょりと汗の気配がするがなんとか、そう言って何とかごまかそうとして笑みを浮かべる。
「ハトコの巳緒です。すごくよく似てるっていわれるんです」
相手がすごく似てますね、すいませんでしたと、頭を下げて雑踏にまぎれるのを確認して、縣に笑いかけて道を促した。
「そんなに似てらっしゃるんですか?」
「ええ。結構近くの高校に通ってたんですけど、お互い別の学校に忍び込んでるんじゃないかって噂になったほどですよ」
嘘をつかなくてもいい質問に美弥は安堵しながら答えた。
「仲はいいんですか?」
「――ハトコは……というか、ハトコの両親ですね。うちの一族から認められていないので、あまり行き来はないんです」
勘のいい縣を封じるために、あまり出したくない情報を美弥は口に乗せた。
認められていないことに実は胸が痛い。父も母も単に好きあった相手と結婚したかっただけだ。そのために一族から放逐されたとしても。ただ、自分たちの存在をなかったことにされる痛みは、あるにきまっていた。少しの痛みに耐えるような表情を縣は何も言わずに眺めた。
少しぼんやりと雨に煙る景色を見ている縣に、更井は声をかけた。
「めずらしいな。外を見てるなんて」
「――ああ」
「見合い相手との交際は順調じゃないのか?」
「ああ。そこはまぁまぁなんだが」
違和感がぬぐえない。そう縣は感じる。彼女を自らの手で調査してはいなかったが、何かを隠している気配に、一度調査をしたほうがいいのか? と言う気持ちがよぎる。ただ、それをやってしまうと確実に逃げられてしまうような――気がした。
なんとなく近くに来ている気配がするのに、今ひっ捕まえようとすると、きっとササッと逃げる。そんな猫のような気配を、縣は見合い相手から感じた。
――デブ猫の癖に。
最初の印象からそこは揺らがない。スレンダーな細い体。慎ましやかな胸のふくらみがより一層彼女を少女のように見せている。黒くて長い髪。なのに受ける印象はふてぶてしい猫のような。
――何かを隠すための擬態なんだろうか?
隠し事をした場合、大きなパターンとして、ビクビクとする場合と、大胆に振舞ってくる場合がある。彼女の場合、後者ではないかと縣は思う。問題は何を隠しているかだ。
「お前が攻めあぐねてる姿なんて貴重だな」
更井がうれしそうに笑いながら声を掛ける。そんなに自分が困ってる姿を見るのがうれしいのかよと若干怒りが混じった視線で、縣は更井をみた。
「そういう余裕のない顔を見たかったぜ」
にんまりとさらに笑われ、不機嫌にふんと鼻を鳴らす。
「――どうやったら追い詰めることができるのか、わかんねえ」
そうつぶやくように言うと、ことさら笑い声をたてられる。
「追い詰める必要ないだろうよ」
「え?」
「好きな女追い詰めてどうすんだよ。お前がほしいのは選択肢が一つしかない状態に追いやることなのか?」
馬鹿な男だ……そう、更井がつぶやいて笑う。意味がわからず、片眉だけを上げてその先を促した。
「追い詰めるより、堕とすほうが大事って事だろ?」
そう更井に言われて、縣は『ああ、そうか』と思った。
もう何回目だろうか――そう思って美弥はため息をつく。
見合いから、縣と逢瀬を重ねることすでに5回ほど。これだけ会ってると流石にまずいというか、そろそろ断ってくれないものかと思う。こちらの態度は早くいちゃもんつけて断ってくれと思っているのに、それをやんわりとした笑顔でごまかされている気がする。
――早く早く、断ってよ。
本当にぼろが出そうなのもあるが、縣に心惹かれていく自分に対しての焦りもある。巳緒にもまだ断らせられないのかと、半笑いで『本当は結婚したいとか?』と、からかわれ始めている。どうして彼はこんな自分をいつまでも振り回すのだろうか?
TPOを考えない服装や、子供っぽいしぐさ、言外にさあ断れという態度を押し出しているというのに。正直言って、こちら側から断ることが難しい。
なぜかというと、本家の占いで縣との見合いについては、一族の娘と必ず成すべしと出ているからこそ、今回の見合いが整えられたのだ。
流石に理由が理由なので縣側は知らないことではあるが。
ただし、縣だってこの見合いは成立させたくないはずだ。縣と付き合えば付き合うほど、彼が冷静にメリットデメリットを考えて選択肢を選んでいくタイプだということがよくわかる。なのにどうして彼は自分との逢瀬を続けるのだ? と美弥は首を傾げてしまう。
「どこから食べようかと迷ってるんですか?」
そういたずらっぽく微笑まれて、美弥は首を振った。アフタヌーンティーってなんですか? と言ったために、日比谷にあるホテルのラウンジになぜか連れてこられた。確かに3段重ねの迫力のある物体をまじまじと見ていたのではあるが。
しかもこのホテルは一族の人間が結構使ってることが多く、いつ誰に見られるかがひやひやものである。巳緒と美弥を区別できる人間もいるが、それほど多くはない。多少の違和感があるかもしれないが、着ている物は巳緒のワードローブから拝借したものだ。それほど違和感を持つものは少数だろう。それより見られる事で縣との関係が進んでいると判断されるほうが怖い。
「暖かいものからがいいですよ」
そう言って、縣は美弥にキッシュをサーブしてくれたので、もごもごとお礼を言った。
「あら。縣さん」
そんな時にタイミングよく年配の女性が通りかかって縣に声を掛けた。美弥は簡単に会釈をするが、まじまじとその女性に見られて、小さくなった。
「素敵なカップルがいるわねっておもったら、縣さんなんですもの。驚いたわ」
そういい残して、会釈をして去っていく。美弥はついに縣の知り合いに見つかってしまったことに思わず固まってしまう。一応写真のある一族の人間は頭に入れたが、さきほどの女性がこちらにくれた視線が妙に気になった。
もしかすると巳緒を知っている人間かもしれない。だから何かをうかつなことをいえないと思い、固まった。
そんな美弥の様子を、すこし冷たい目線で縣は一瞬見やるも、卒がない会話を始めたので美弥は少しだけ安心して、目の前のキッシュやケーキを楽しむことにした。
2個目のケーキを皿に移したときに、縣が目を伏せて、何事もないように言った。
「そういえば、明日晴れたら、海に行きませんか?」
ひくりと、自分の肩が揺れたのに美弥は気がついた。縣が少しだけ艶を含んだ笑みでそれを見る。
「約束、でしたよね」
美弥は縣のにこやかな顔を見るしかなかった。
まだ肌寒い……ただ、日は春の陽気で気持ちがいい。そんな気配の海で美弥は少しだけ背伸びをした。縣はコーヒーと毛布を取ってくるといって、砂浜には美弥一人である。
昨夜は色々と考えてあまり眠れなくて、いまさらながら眠気がやってくる。気合を入れておかないと、縣との緊張感を強いられる会話を乗りこなせないと思ってあくびをかみ締めた。
――どうして自分は、巳緒から身代わりを引き受けてしまったんだっけ?
そう思うと答えは出ない。
単純にハトコが困ってるから引き受けたに過ぎないのに、いつの間にか縣が自分の心の中のどこかに居座っているのにとっくの昔に気がついていた。両親を見ていると、恋というものはなるべくしたくないものだ、と思っていたし、自分は恋愛というものに疎いとずっと思っていた。 それほどまでに唯一のものを選び取るということは重いことを美弥は両親を見て知っていた。
なのに、何とかこの見合いをつぶさなくてはいけないのに、つぶしてしまったらもう縣には会えないことが重くのしかかる。
本当は自分から縣に、この見合いを断って欲しいということは出来た。
それでも、その一言を言うことが出来なかった――。
ただ、春の海を二人して見にきてしまったら……。
関係を進めてくるであろう縣を、美弥はなんとしても思い切らなければいけない。今日帰るまでに、この見合いを断ってもらえるように縣には言わなければならない。そう考えるだけで胸の奥がキシリと音をたてる。
そんな思考に囚われていたら、サクサクと砂をはむ音がして視線をそちらに向けると、縣がコーヒーポットとカップと、毛布を持って歩いてくるのが見えた。
「まだすこし肌寒かったですね」
そう微笑んで、美弥の肩に毛布を掛けて、コーヒーを渡す。少しだけ砂糖を入れただけのコーヒーが胃の中に落ちて来て、なんともいえない温かさが広がった。
「――それで、あなたは誰なんですか?」
一口目のコーヒーが胃に収まるのを待ってたかのように縣が口を開く。
静かに聞かれて思わず、美弥は目を見張った。何をおっしゃるんです? と小さく返せたのは、ここ1ヶ月ほどなりすましていた反射神経の賜物だった。
「先日、巳緒さんの釣書を見直したんです」
「え?」
「前にフィールドワークについて話してましたよね? 巳緒さんは工学部ですよね」
はっと美弥は思わず、口元を押さえた。自分は民俗学を専攻しているから、フィールドワークに出ることもある。ただし、巳緒はそうではない。うっかりと口を滑らしてしまったことに気がついて、美弥は口元に手を充てた。その様子をやんわりした笑顔で縣が見つめる。
「それに――アフタヌーンティーを食べに行ったときに会った方を覚えていますか?」
「……」
やはり自分が、覚えてなかった親戚だろうかと美弥は思わず目を暗く曇らせた。
「ふっ……。全然巳緒さんには関係ない人ですよ」
顔を上げて思わずにらみつける。完全に引っ掛けられたことに美弥は混乱して、縣に対して怒りをすこし覚えた。
「あの……っ」
縣を見上げてその視線の冷たさに美弥はすこし震えた。『怒ってる』そう思う。確かに見合いをなかったことにしたかったから騙したのはこちらだ。本当は、巳緒をいさめて正直に最初に言うべきだった。
――子供なのはこちらだ。
そう思うと沸いた怒りがしゅるしゅるとどこかに逃げてしまう。
「だ、騙して……ごめんなさい」
そう謝るのが精一杯だ。
「それで本物の巳緒さんはどこにいるんですか?」
「……言ったらどうするんです?」
「もちろんこの見合いについてお話しないといけませんから」
「私、が、身代わりになった時点で、巳緒の意志はお分かりかと思うんですが」
「ではこのことを、彼女のお家に公表しても問題ないですね?」
そう今まで見たこともないような冷たい表情で言い募る縣に美弥は震えた。どう考えてもこちらの分が悪い。縣の態度と周辺情報で乗り気ではないはずと言っていたが、彼はこの見合いに対して誠実に対応していたからだ。完全に分が悪い。
「あの……それだけは、お願いします」
「そのためならなんでもする?」
思わず縣の顔をまじまじと美弥は見つめた。そんな難しいことじゃありませんよと縣が言ったので少しほっとする。
「今から、私が聞くことに、ちゃんと答えてください」
どうです? と目線で促されて、その程度のことであったらと美弥は思わず頷いた。
「私のことを、あなたはどう思ってるんですか?」
そう言われて、目を見張る。
「だ、って」
「だって?」
「それを聞いてどうするんです? だって聞いてもどうにもならないでしょう」
好きだって言っても叶うわけがないじゃない。自分はあの一族から縁を切られた人間だ。そんな女が縣に心惹かれていると言ってもどうにかなるもんじゃない。そもそも自分と付き合うメリットが全く縣にはない。
そう思って美弥は混乱する。ただ、彼にそれを告げないと巳緒が迷惑するのはわかっているが、自分の気持ちを口に出してしまったら、引き返せなくて自分がどうしようもなく傷ついてしまう。それがとても怖い。
いつの間にこんな風になってしまってたんだろう。
最初は巳緒が困ってるのを助けたくて……というのも本心だったが、綺麗に切り離された血族の一員として振舞える、仮初でも自分はあの家のものだという風に思えるのであればと思って引き受けた。
それなのに、今はどうしてこんなことをしてしまったのか……という思いが真っ先にやってくる。
「言ったって、どうにもならないでしょ」
そういうのが精一杯で美弥は思わず、立ち上がろうとする。ただ、すぐに縣に引き寄せられてその腕の中に囲い込まれる。
「ちゃんと言ってください。そしたら、私は――」
熱い吐息と抱擁にビクリと体が弾んで、縣の顔を反射的に見てしまう。その瞳の奥の色香にさらにどきりとする。ただ、自分の気持ちを伝えるのに、名前も知られてないのはイヤだと思う。
「――。み、美弥って呼んで下さい、そしたら」
そう思ったらそんな言葉が自分の唇からまろび出ていた。それを聞いて暖かな微笑を縣が見せた。
「ほんとに猫みたいな名前だったな。美弥、教えて?」
そう縣に言われて美弥は、自分の気持ちを小さく縣の耳元で囁く。どうやってこの見合いの始末をつけるのか。縣とこうなったことが知れた時に、本家からは何を言われるのか。そんなことがよぎるけれども、縣から離れることは無理だと美弥は思って目をつむった。
絢水さんの企画『四季の乙女たち』に応募しようと思って作った2本のうちの1本です。企画への掲載はもう一本提出したものにしたのですが、こちらもちょっと好きな作品です。
少し肌寒い春の感じが出ているとよいのですが。
『四季の乙女たち』
http://spring76.web.fc2.com/chicalinda/